「王城にマジックミラーの個室が建設されました〜旦那様の外交交渉(という名の物理的脅迫)を最前列で見学します!〜」
絶海の孤島からの超特急・強行帰還から一夜明けた、王城の大広間。
私は現在、どこにいるかというと――。
(……本当に、作っちゃったんだ。王城のど真ん中に、私専用の『鳥籠』を……)
私はふかふかの高級ソファーに沈み込みながら、目の前に広がる光景を虚ろな目で見つめていた。
ここは、隣国との重要な条約調印式が行われる、王城で最も格式高い大広間の一角。
その壁際に、一晩(ユリウス様が王立魔術師団を徹夜で酷使した)で突貫工事された、謎の小部屋である。
部屋の三方は分厚い石壁と防音結界で覆われ、大広間に面した一面だけが、巨大な一枚ガラスになっている。
だが、ただのガラスではない。外(大広間側)からはただの荘厳な壁画に見え、中(私側)からだけ外の様子が丸見えになるという、特注の『マジックミラー』なのだ。
「リリア奥様、温かい紅茶をお持ちしました。王城の厨房ではなく、公爵邸から持参した茶葉と水を使用しておりますので、ご安心くださいませ」
「あ、ありがとう、マリー……」
護衛兼お世話係として同室しているメイドのマリーからカップを受け取る。
ガラスの向こう側では、王国の重鎮たちや文官たちが、ピリピリとした緊張感の中で隣国の使節団を待ち構えていた。
そして、その中心にある宰相の席には、漆黒の最高級礼服に身を包んだ私の夫、ユリウス様が座っている。
ふと、ユリウス様がマジックミラーの方(つまり私の方)を振り向いた。
外からは私の姿は見えないはずなのに、彼は正確に私と視線を合わせ、フッと甘く、蕩けるような微笑みを浮かべた。
そして、彼自身の左手の薬指を、右手でそっと撫でる。
――トクンッ。
その瞬間、私の左手の薬指にはめられた『星屑の指輪』が、ほんのりと熱を持った。
(ひっ……! い、今の、絶対に『君の心拍数はちゃんと伝わっているよ』っていう合図よね!?)
昨日、私の指に強制装備された、生体モニター兼GPS機能付きの指輪。
私が緊張して心拍数が上がると、それがリアルタイムでユリウス様に伝わってしまうのだ。
『嘘発見器』を常に指に巻きつけられているようなプレッシャーに、私は震える手で紅茶をすするしかなかった。
「――隣国、ザハ帝国の使節団、ご到着!!」
大広間の重厚な扉が開かれ、案内役の声が高らかに響いた。
入ってきたのは、派手な金糸の刺繍が入った軍服を着た、恰幅の良い中年男性と、その護衛の騎士たちだった。
彼が今回の交渉相手である、ザハ帝国の特命全権大使らしい。
「待たせたな、クライス公爵! いやはや、氷の宰相殿がご不在とのことで、我々もいつ進軍の号令をかけようかとウズウズしていたところなのだよ! がっはっは!」
大使は傲慢な態度で笑いながら、ユリウス様の対面の席にドカッと腰を下ろした。
王国の文官たちが「無礼な……」と歯ぎしりをする中、ユリウス様は氷のように冷たい――私に向ける甘さなど微塵もない、絶対零度の視線を大使に突き刺した。
「……随分と口が減らないようだな。私が妻とのバカンスを一日切り上げてやったのだ。その命拾いに感謝し、さっさとこの不利な条約書にサインをして自国へ帰れ」
冷酷。無慈悲。
これぞ、前世の記憶にある『氷の公爵』そのものの姿だった。
マジックミラー越しに見る彼の横顔は、彫刻のように美しいが、血の通った人間とは思えないほどの威圧感を放っている。
(ああ、やっぱりあの人は怖い……! 私の前で優しくしているのは、全部スパイ(私)を油断させて情報を引き出すための『完璧な演技』なんだわ!)
彼の本来の冷徹な姿を目の当たりにして、私の心臓の鼓動が早くなる。
「不利な条約だと? 冗談ではない!」
大使は机をバンッと叩いた。
「我が帝国は、今回の国境貿易において関税の五十パーセント引き下げを要求する! 拒否するなら、いつでも国境に配備した十万の軍勢を動かす用意があるぞ!」
「十万の軍勢? ……ふん、ゴミが十万集まったところで、私が魔法で一掃すれば五分で終わる。その程度の脅しで、この私の貴重な時間(妻とのデートの時間)を奪うつもりか?」
「な、なんだと! 貴様、一人の魔法で軍隊を止められると本気で思っているのか!」
火花を散らすような、国家間の激しい外交戦(物理的脅迫の応酬)。
大広間の空気は張り詰め、王国の国王陛下すら冷や汗を流して見守っている。
そんな中、大使はニヤリといやらしい笑みを浮かべた。
「……まあよい。我が帝国も、無益な血は流したくない。そこで、今日は宰相殿に素晴らしい『贈り物』を持参したのだ」
「贈り物?」
「左様。東の砂漠地帯でしか採れない、幻の香木『紫宵の華』だ。これを焚けば、どんな疲れも吹き飛び、極上の夢を見ることができる……。我々の友好の証として、ぜひ受け取っていただきたい」
大使が指を鳴らすと、部下が仰々しい木箱を運んできた。
箱が開かれると、中から紫色の奇妙な植物が現れ、同時に、大広間にかすかに甘ったるい香りが漂い始めた。
(……甘い、香り……?)
マジックミラーの部屋の中は完全に外気を遮断されているため、私にはその香りは届かない。
しかし、その紫色の植物を見た瞬間。
私の脳裏に、前世の忌まわしい記憶がフラッシュバックした。
――『飲め。これを飲めば、お前は楽になれる』
前世で、私を暗殺しに来た実家の毒使いが、最後に私に嗅がせた毒薬の匂い。
それも、あんな風な甘ったるい香りがしていた気がする。
(ま、まさか……あれ、毒じゃないの!? 空気感染するタイプの、遅効性の毒薬!?)
私のスパイ脳が、瞬時に最悪の可能性を弾き出した。
もしあれが暗殺用の毒香木で、ユリウス様が倒れでもしたらどうなる?
間違いなく、「やっぱりお前が手引きしたスパイだったんだな!」と、私にすべての責任が擦りつけられ、拷問の末に処刑されてしまう!
「ひっ……!」
恐怖で、一気に心臓が早鐘を打ち始めた。
ドクン、ドクン、ドクンッ!!
全身から嫌な汗が噴き出し、私は左手の薬指をギュッと握りしめた。
「お、奥様!? お顔色が真っ青です! いかがなされましたか!?」
「マ、マリー……あれ、駄目よ……あの箱、早く閉じないと……っ」
私が過呼吸気味に息を荒らげた、その瞬間だった。
大広間の宰相の席で。
ユリウス様の左手の薬指が、カッ!と青白い光を放った。
「…………ッ」
ピタリ、と。
大広間を支配していた空気が、一瞬にして『真空』になったかのように錯覚した。
ユリウス様が、ゆっくりと立ち上がったのだ。
「宰相殿? いかがなされた? その香木の素晴らしさに、言葉も出ない――」
「……貴様ら」
地獄の底から響いてくるような、低く、おぞましい声。
ユリウス様の足元から、パキパキパキッ!と音を立てて、大広間の大理石の床が凍りつき始めた。
「ひっ!?」
「な、なんだ!? 急に気温が……っ!」
ザハ帝国の大使たちが悲鳴を上げ、後ずさる。
ユリウス様の青い瞳は、完全に狂気に染まっていた。
彼の視線は、大使が持ち込んだ『紫宵の華』を、親の仇のように睨みつけている。
(ああ! ユリウス様は、私の指輪の反応(心拍数の異常)を感じ取ったんだわ!!)
私はマジックミラーの向こうで震え上がった。
彼には私が「あれは毒だ、怖い!」と怯えていることが、指輪を通じて伝わってしまったのだ。
そして彼は今、「スパイ(私)が怯えるほどの毒を持ち込んだのか! ならば、ここで情報を吐かせてやる!」と、大使たちを容赦なく尋問(物理)する気なのだ!
「私の……私の愛しい妻が……!!」
ユリウス様が、ギリッと奥歯を噛み砕かんばかりの勢いで咆哮した。
「壁の向こうにいる私の妻が、その下劣な香木の気配を感じて、ひどく怯えているではないか!! 貴様ら、私の天使の清らかな肺を、そのようなゴミの放つ瘴気で汚そうというのか!!」
「はあッ!?」
大使だけでなく、王国の国王陛下や文官たちも「えっ、奥様、壁の向こうにいるの!?」という顔で、マジックミラーの壁画を振り返った。
(解釈が違う!! 肺を汚されるのが嫌なんじゃなくて、私が暗殺の濡れ衣を着せられるのが怖いだけ!! そして壁の向こうにいることをバラさないでーーっ!!)
私の悲痛なツッコミは、分厚い防音ガラスに阻まれて誰にも届かない。
「ち、違う! これはただの香木で……」
「黙れ!! 君たちが持ち込んだそのゴミのせいで、リリアの心拍数が跳ね上がり、呼吸が乱れている! 万が一、妻の身に何かあれば……いや、不安にさせた時点で、貴様らの帝国は今日、地図から消滅する!!」
「ヒィィィィッ!!」
ユリウス様が右手を振り上げると、大広間の天井に、無数の巨大な『氷の剣』が形成された。
数百本の氷の剣が、使節団の頭上にピタリと狙いを定める。
一歩でも動けば、即座に串刺しにされるという絶対的な死のプレッシャー。
「す、すまん! 悪かった!! これは香木ではなく、少しばかり精神を昂らせる怪しい薬草だった! だからどうか、魔法を収めてくれぇぇ!!」
「やはり毒に類するものか! 万死に値する!!」
「ヒィィ!! 条約! 条約はそっちの言い値で結ぶ! 関税はゼロでいい!! だから命だけは助けてくれぇぇぇ!!」
大使は床(凍っている)に額をこすりつけ、涙と鼻水を流しながら土下座した。
完全に、国際問題レベルのオーバーキルである。
しかしユリウス様は、氷の剣を降ろすことなく、冷酷に言い放った。
「……五秒だ。五秒以内にその条約書にサインをして、私の視界から消えろ。
そして二度と、私の妻の半径百キロ以内に近づくな」
「はいぃぃぃ!!」
使節団は震える手で条約書にサインを殴り書きし、荷物を放り出して、転がるようにして大広間から逃げ出していった。
その間、わずか三分。
隣国との数ヶ月に及ぶ難航していた外交交渉が、私の「濡れ衣への恐怖」から来る心拍数異常によって、王国に圧倒的有利な形で強制終了してしまったのだ。
「……終わった」
私はソファーの上で、完全に灰白化していた。
一国の使節団を、あんな容赦ない暴力(魔法)で屈服させるなんて。
あれは間違いなく、マジックミラーの向こうにいる私に対する『見せしめ』だ。
(『お前も下手な真似をすれば、あの大使たちのように氷の剣で串刺しにして、実家の男爵家ごと地図から消し去るぞ』っていう、強烈な無言のメッセージ……!)
恐怖で足の震えが止まらない。
大広間では、国王陛下が「ま、まあ、結果的に有利な条約が結べたから、ヨシとするか……」と引きつった笑いを浮かべ、文官たちが安堵の涙を流している。
すると、ユリウス様が大広間から背を向け、私がいるマジックミラーの部屋へと向かって歩き始めた。
ガチャリ、と隠し扉が開く。
「リリア!」
先ほどまでの絶対零度の魔王の姿はどこへやら。
部屋に入ってくるなり、ユリウス様は尻尾を振る大型犬のような――いや、狂信者のような蕩けた瞳で、私のもとへ駆け寄ってきた。
「ゆ、ユリウス様……っ」
「怖かったね、私のリリア。もう大丈夫だよ。君を不安にさせる下劣な輩は、私がすべて追い払ったからね」
ユリウス様はソファーに座る私の足元に片膝をつき、震える私の左手を取って、星屑の指輪に深く口づけをした。
「君の心拍数が落ち着いてきて、本当によかった。ガラス越しとはいえ、君をあんな不潔な男たちと同じ空間に置いてしまった私のミスだ。やはり、王城などに来るべきではなかった」
「あ、いえ……私は、何も……」
「いいんだ。君はただ、私の腕の中で守られていればいい。私のすべては、君のその美しい笑顔を守るためにあるのだから」
彼が私の銀色の髪を撫でる手つきは、恐ろしいほどに優しかった。
しかし、さっきまで氷の剣で人を脅迫していた男の言葉だと思うと、その優しさが逆にサイコパス的な恐怖を増幅させる。
(あんなに冷酷な拷問(外交)を平然とやってのけるのに、私の前ではこんなに甘い顔を作るなんて……! これが、氷の公爵の真の恐ろしさ……!)
「さあ、仕事は終わった。約束通り、王都の街へデートに行こうか。君の望むものなら、宝石店でもドレスの店でも、すべて買い占めてあげるからね」
「だ、誰もいないお店で買い占めるのは、デートとは言わない気がします……!」
私のささやかな抵抗は、彼の「君の安全が第一だからね」という重すぎる愛の言葉で一蹴された。
星屑の指輪(GPS&生体モニター)という最強の監視アイテムを装備させられ。
一国の使節団への公開処刑(見せしめ)を最前列で見学させられ。
私の「生存のためのぶりっ子作戦(デートの約束)」は、王都の経済を狂わせるレベルの過剰な貸し切りデートへと発展していく。
愛のない政略結婚から始まり、円満離婚を夢見ていた私の二度目の人生。
ヤンデレ公爵様の愛という名の『絶対安全な鳥籠』は、ついに王城のど真ん中にまで建設され、私の逃げ場はどこにも残されていないのだった。




