「初めての海水浴は水責めの拷問ですか!?〜旦那様が海を蒸発させようとしています!〜」
私が生存戦略のつもりで作った「おにぎり」が、ユリウス様の中で『魂を捧げる愛の契約書』という激重アイテムにすり替わってしまった、あの悲劇の午後から。
私は丸二日間、絶海の孤島のヴィラのベッドから、一歩も出ることができなかった。
「……あいたた……腰が砕けそう……」
朝の柔らかな日差しが差し込む寝室。
私はシルクのシーツにくるまりながら、生まれたての子鹿のようにプルプルと震える足で、なんとかベッドの端に座り込んだ。
隣では、私を骨の髄まで愛し尽くして(※文字通り)大満足の宰相閣下――ユリウス様が、美しすぎる寝顔で健やかに眠っている。
(おにぎり、絶対に二度と作らないわ……!)
料理で「無害な妻」をアピールする作戦は、大失敗どころか自爆テロだった。
私のスパイ脳が導き出した結論はこうだ。
『ただの塩結びであそこまで感動するフリをして、私をベッドに縛り付けるなんて。間違いなく、私の気力を根こそぎ奪って抵抗できなくするための、高度な体力削り作戦よ!』
いくら私がお米好きでも、おにぎり一つで三日三晩の体力テスト(拷問)を科されるのは割に合わない。
「ん……リリア。おはよう」
「ひゃっ!?」
私が逃げ出そうとした気配を察知したのか、ユリウス様の逞しい腕が背後から伸びてきて、私の腰をガッチリとホールドした。
そのままベッドへと引きずり戻され、広い胸板に閉じ込められる。
「どうしたんだい? 朝からそんなに元気に動いて。まだ体力が有り余っているのかな? なら、もう一巡……」
「な、ないです!! 一ミリも残ってないです!!」
本気で寝巻きの紐に手をかけようとするユリウス様を、私は涙目で必死に止めた。
ユリウス様はクスリと笑い、私の銀色の髪にチュッとキスを落とした。
「冗談だよ。君の体が悲鳴を上げているのはわかっている。私としたことが、君の『オニギリ』のあまりの愛おしさに、少し理性が吹き飛んでしまってね」
「少しじゃなかったですけどね……」
「さて。今日は体調も良さそうだし、せっかくの絶海の孤島だ。外に出て、海のレジャーと洒落込もうか」
ユリウス様の言葉に、私の肩がビクッと跳ねた。
「う、海の、レジャー……?」
「ああ。君の故郷である『ニホン』の知識を借りて、水浴び用の特別な衣装を仕立てさせておいたんだ。君を誰もいない海で独り占めできるなんて、最高のハネムーンだろう?」
甘く微笑むユリウス様。
しかし、私の頭の中では、恐ろしい警報がガンガンと鳴り響いていた。
(誰もいない海……水浴び……違う、これは絶対に罠よ!!)
昨日まで私をベッドに縛り付け、体力を極限まで削り取ったのは、このための布石だったのだ!
海という『絶対に逃げられない、足の着かない場所』に私を連れ出し、弱り切ったところで尋問を再開する気なのだ!
つまり、これは――『水責め』の拷問に他ならない!!
「ひ、ひいいぃっ……! わ、私、海なんて怖くて入れません! 泳げないですし!」
「泳げなくていい。私がずっと君を抱きしめているからね。万が一波に飲まれそうになっても、私が一瞬で海ごと凍らせて君を救い出す。だから、安心して水責め……じゃなかった、水浴びを楽しもう」
(今、言い間違えそうになったわよね!? 絶対に水責めって言おうとしたわよね!?)
私の悲鳴は「初めての海にはしゃぐ妻の歓声」として処理され、私はメイドのマリーたちによって、強制的に着替えの部屋へと連行されてしまった。
「さあ、リリア奥様。旦那様が奥様のために、王国の魔導技師たちを徹夜させて作り上げた、特注の『ミズギ』でございます!」
マリーが誇らしげに掲げたその布きれを見て、私は言葉を失った。
それは、私の前世の記憶にあるような可愛らしいビキニやワンピースの水着ではなかった。
色は可愛らしいパステルパープルだが……なんだか分厚い。
異様に分厚い。
そして、首の付け根から手首、足首まで、一ミリの肌も露出しない『全身タイツ(あるいは潜水服)』のような形状だったのだ。
「あ、あの……マリー。これ、本当に水着なの?」
「はい! ミスリル繊維を特殊な方法で編み込み、深海一万メートルの水圧にも耐えうる究極の防護服……いえ、水着です! これなら、海の中で巨大なサメに噛みつかれても、奥様の美しいお肌には傷一つ、歯型一つ付きません!」
「サメ!? 巨大なサメがいる海で泳がせる気なの!?」
完全に『死の海域(処刑場)』での水責めを想定しているじゃないか!
しかも、この服の重さたるや、着るだけで鉛を背負っているようなずっしりとした重量感がある。
こんなの着て海に入ったら、絶対に沈んでしまう!
「マリー、これ、重すぎて浮かない気がするんだけど……」
「ご安心を。旦那様の魔力が込められた浮遊石が組み込まれておりますので、奥様が『沈みたい』と強く念じない限り、絶対に水没することはありません」
「念じたら沈む仕様はやめて!」
抵抗も虚しく、私はその全身タイツ(ミスリル製)に押し込まれた。
鏡を見ると、首から下を完全にガードされた、謎の紫色のてるてる坊主が立っている。
色気もへったくれもない。
しかし、これを見たユリウス様は、大絶賛だった。
「おお……素晴らしい! 完璧だ、リリア!」
ビーチに出た私の姿を見るなり、ユリウス様は感動したように手を叩いた。
彼自身は、軍服のズボンを少し短くしたような、比較的軽装の水着(それでも上半身はしっかり着込んでいる)姿だ。
濡れた黒髪と、チラリと見える鍛え上げられた胸元が、狂おしいほどの色気を放っている。
「本当は、誰もいないこの島で、君の美しい肌を日の光に晒してもいいかと思ったんだが……やはり駄目だった」
「だ、駄目だったとは?」
「太陽の光だ。たとえ無機物であろうと、私以外の『光』や『風』が、君の素肌を舐め回すように触れることが、どうしても許せなかったんだ……!」
ユリウス様はギリッと奥歯を噛み締め、空に輝く太陽を物凄い殺気で睨みつけた。
(太陽に嫉妬してるーーっ!? ヤンデレのスケールが天体にまで及んでる!!)
「だから、君の肌をすべて隠し、さらに私の魔力で紫外線と風を遮断する結界を張った。これで、君の美しさは完全に守られた!」
「ユリウス様、それじゃあ外にいる意味が……」
「さあ、行こう! 私の腕の中で、海の冷たさを少しだけ楽しんでおくれ」
私のツッコミは無視され、ユリウス様にヒョイッと抱き上げられた私は、そのまま波打ち際へと連行されていった。
チャプン、と。
ユリウス様が海に入り、私の足先(もちろん防護服越し)が海水に触れた。
「ひゃっ!」
「冷たいかい? 大丈夫、私の体温で温めてあげるからね」
ユリウス様は私の体を海に入れないまま、自分の腕の中で私を抱っこし続けた。
結局、私が海水に浸かったのは、膝下までだった。
彼に抱っこされた状態で、波打ち際をチャプチャプと揺れるだけ。
(……あれ? これ、水責め……?)
私は首を傾げた。
てっきり、この重い潜水服を着せられて、海の底まで沈められて「さあ、スパイの黒幕を吐け!」と拷問されるのだと思っていた。
しかし、ユリウス様はただ私を抱きしめ、時折私の額や頬にキスを落としながら、波の音を聞いて微笑んでいるだけだ。
「気持ちいいかい、リリア。君とこうして、世界から隔絶された場所で過ごせるなんて、夢のようだよ」
「あ、はい……」
拍子抜けした私は、少しだけ肩の力を抜いた。
もしかして、本当にただの海水浴(過保護バージョン)だったのだろうか。だとしたら、ただ波に揺られているのは、確かに少し気持ちがいいかもしれない。
そう油断した、その時だった。
チョキッ。
「……あいたっ!」
波打ち際の砂の中から現れた一匹の小さな『カニ』が、私の防護服の足首の辺りを、小さなハサミで挟んだのだ。
ミスリル繊維なので怪我など一切ない。ただ、少し「ツン」とされた程度の感覚だった。
しかし――その私の「あいたっ」という小さな悲鳴が。
ユリウス様の中の、最も触れてはいけない『逆鱗』を完全に押し切ってしまったのだ。
「……リリア。今、痛いと言ったか?」
空気が、一瞬にして凍りついた。
夏の強い日差しが照りつけているはずなのに、周囲の温度が急激に下がり、私の吐く息が白くなる。
見上げると、ユリウス様の美しい顔から一切の表情が抜け落ち、氷の青い瞳が、暗い狂気と凄まじい殺意で染まっていた。
「え、あ、いえ! ただの小さなカニさんが、ちょっと服を挟んだだけで……」
「……カニ、だと?」
ユリウス様は私を片腕でしっかりと抱きかかえ、波打ち際の砂浜を睨みつけた。
そこには、横歩きで逃げようとしている、私の手のひらサイズの小さなカニの姿があった。
「私の……私の妻を……私がこの命に代えても守ると誓った、私の唯一の光を……!!」
ゴゴゴゴゴゴッ……!!
海が、鳴動した。
ユリウス様の体から、目に見えるほどの青白い魔力の奔流が天に向かって立ち昇り、空の雲を一瞬で吹き飛ばした。
「傷つける者は、何人たりとも許さない!! たとえそれが、自然の摂理であろうと、海そのものであろうと!! 私の妻に害をなすものは、すべてこの世界から消し去る!!」
「ゆ、ユリウス様!? ただのカニです! カニさんですから!!」
私の必死の制止も虚しく、ユリウス様は空いている方の手を高く掲げた。
「我が魔力よ、すべてを灰燼に帰す太陽の炎となれ! ――『超極大・太陽の鉄槌』!!」
「ぎゃあああああっ!! 海を!! 海を蒸発させる気ですかーーっ!!」
空に、本物の太陽とは別の、もう一つの巨大な火球が生まれようとしていた。
この男は本気だ。
妻が小さなカニにツンとされただけで、「海という環境そのものが妻を害した」と解釈し、この美しい海ごとカニを焼き尽くそうとしているのだ!
(生態系が崩壊する!! これじゃ、私が「海を滅ぼした極悪スパイ」として歴史に名が残ってしまう!!)
「やめて! やめてくださいユリウス様!!」
私はユリウス様の首に両腕を回し、全身で彼にしがみついた。
「カニさんを焼かないで! 海の幸は、私の故郷の心なんです! お刺身で食べられなくなっちゃう!!」
「だが、こいつは君を傷つけた! 私は前世の……あんな後悔はもう二度としないと誓ったんだ! 君を傷つける可能性のあるものは、すべて排除しなければ……っ!」
「傷ついてません! ミスリル繊維のおかげで無傷です! だから、魔法を止めて!」
私が涙ながらに訴えると、ユリウス様は空に浮かべた火球をピタッと止めた。
しかし、その瞳にはまだ、海に対する強い警戒心(殺意)が宿っている。
「……本当に、痛くはないのか?」
「はい! 全然痛くありません! だから、海を燃やすのはやめてください!」
「……わかった。君がそこまで言うなら、この海は許してやろう」
シュゥゥゥン……と、空の火球が消滅し、周囲の気温が元に戻っていく。
私は心底ホッとして、大きく息を吐き出した。
(よかった……。私が身を挺して、この島の生態系を守り抜いたわ……)
しかし、安心したのも束の間だった。
ユリウス様は私を抱きかかえたまま、クルリと踵を返し、ヴィラの方へと猛スピードで歩き始めたのだ。
「えっ? ゆ、ユリウス様? 海水浴は……」
「もうおしまいだ。やはり外の世界は危険すぎる。太陽の光も、潮風も、そして海の生物すらも、私のリリアを狙っていることがよくわかった」
「あの、それはちょっと被害妄想が……」
「リリア。君も、海よりも私と一緒に部屋にいる方がいいのだろう? だから私を力強く抱きしめて、『やめて(外に出ないで)、一緒にいて』と懇願してくれたんだね」
(解釈がおかしい!! 「海を焼くのをやめて」って言ったの!!)
「違います! 私はカニさんを……っ」
「ああ、なんて可愛いんだ。私のリリア。君のその素直な欲望、すべて受け止めよう。さあ、安全なベッドに戻って、私の体温で君の冷えた体を隅々まで温めてあげよう」
「ぎゃああああまっ! またベッドですかーーっ!」
私の悲鳴は、彼への熱烈な愛の叫びとして変換され。
初めての海水浴(滞在時間わずか五分)は、カニ一匹の出現によって幕を閉じた。
海を割ってやってきた完璧な牢獄(リゾート地)。
私のささやかな抵抗はことごとくヤンデレの燃料となり、私はまたしても、甘く息の詰まるような『絶対安全な鳥籠』の奥深くへと、閉じ込められていくのだった。




