第9話:戦闘メイドの風ルンバVS世界最強のクイックルワイパー。 ――しょうもない理由で、最強が本気を出した。
土曜の朝。
昨夜の夕食は四人だった。
金曜の学校での出来事を話しながら食べる、というのがいつの間にか習慣になっていた。雪菜が「今日、蓮様の席の近くを通ったら、隣の女子生徒の方が話しかけていて……」と少しだけ眉を寄せ、小夜が「お嬢様、それは監視報告ですか団欒ですか?」と静かに突っ込み、ココアが肉を狙い、蓮が「食え」と言う。そういう夕食だ。
ちなみに最近、雪菜は目玉焼きに挑戦している。
先週は黄身が半凍結した。今週は白身の端が薄く霜に覆われた。小夜が「進歩しています」と言ったが、目が笑っていなかった。
そんな金曜の夜が終わり、土曜の朝になった。
小夜がリビングに入ってきた時、蓮はすでにクイックルワイパーを持って立っていた。
小夜が止まった。
「……旦那様」
「なんだ?」
「それは私の仕事です」
「俺がやるから」
小夜が食い下がった。
「戦闘メイドとして――」
「俺がやる!」
静かな攻防だった。声を荒げる気配は両者にない。ただ、空気だけがじりじりと張り詰めていく。
ココアがソファの上から、のんびりとその様子を眺めていた。
朝食の片付けをしていた雪菜が、キッチンの入り口で固まった。
「……あの、どうしたんですか……?」
「掃除権の問題だ」
「掃除権……?」
小夜が「旦那様の家事能力については、以前から申し上げております」と静かに言った。「戦闘メイドである私が清掃もできない家というのは、存在してはならないのです」
「だから俺がやると言っている」
「それは私の領分です」
「その前に、ここは俺の家だ」
「……」
小夜がすっとクイックルワイパーに手を伸ばした。
蓮はそれを一歩横に動いてかわした。
「……なるほど」
小夜が一歩引いた。
「では」
エプロンの袖をわずかに捲った。
「基礎をお見せします」
風の魔力が、静かに部屋に広がった。
見た目には何も変わらない。ただ、空気の流れが変わった。小夜の指先から、風の刃が無数に発生し、部屋の隅々を縫うように走っていく。
ホコリが、動いた。
テレビ台の裏、ソファの足元、カーテンの折り目、天井の隅。あらゆる場所に潜んでいたホコリが一斉に剥がれ、見えない流れに乗って、玄関脇のゴミ袋の中へ吸い込まれていった。
三秒だった。空気が、さらりと入れ替わった。
「以上です。戦闘メイド協会では、これが清掃の基礎水準です」
雪菜が「……すごい……!」と声を上げた。ココアが鼻をひくつかせ、ホコリのなくなった空気を確認するように一度だけ深く息を吸った。
「……なるほど」
蓮はクイックルワイパーを持ち直した。
身体強化の魔力を、全身に均一に流す。ダンジョンで千体の魔物を相手にする時の、五百分の一程度の出力で十分だ。
動いた。
残像が出た。
クイックルワイパーが、フローリングの上を音もなく走る。板の目に沿って、繊維一本一本に圧をかけながら汚れを絡め取っていく。五往復で完了した。
全部で二秒かかった。
床が、鏡のようになっていた。自分の顔が映るどころか、天井の照明の輪郭まではっきりと見える。
「……」
小夜が、床に映った自分の顔を見た。
「旦那様」
「なんだ?」
「戦闘メイド協会実技教本、第二十三条」
「知らんぞ、そんなもの」
「『いかなる清掃においても、残像を生じさせてはならない』。……残像が出るほどの速度は、ホコリが舞い上がる可能性がございます。そのため、教本が想定していない領域です」
小夜がこめかみを押さえた。
「ただ、それでも床掃除のクオリティについては、旦那様の方が上です」
認めるのが相当つらそうだった。
「ただし、ホコリの除去については私の方が上です。旦那様のクイックルワイパーでは届かない場所があります」
「天井の隅はそうだな」
「ですので」
小夜がすっと頭を下げた。
「提案があります。床は旦那様が、ホコリの除去は私が担当する分業はいかがでしょうか?」
「……まあ、それでいい」
小夜が「承知しました」と頭を上げた。頭痛薬を取り出すかと思ったが、今日は出さなかった。
これはこれで、小夜なりの折り合いのつけ方なのかもしれない。
雪菜が恐る恐る手を挙げた。
「……あの、私も何かお手伝いできますか……?」
二人同時に振り向いた。
「「結構です」」
綺麗に揃った。
雪菜が「……はい」としゅんとした。ココアが「わふっ」と一声鳴いた。慰めているのか笑っているのかは判断がつかなかった。
「お嬢様には」と小夜が言った。「目玉焼きの研究に専念していただければと思います」
「目玉焼き……」
「今週は白身の端が霜に覆われていました。来週は常温の目玉焼きを目標にしましょう」
「……善処します」
雪菜が神妙な顔で頷いた。
「ところで」と小夜が続けた。「来週の学校ですが」
「はい?」
「お嬢様、今週は蓮様の席の近くを通る際に、三度ほど歩みが遅くなっていました」
「み、見ていたんですか……!?」
「監視報告の精度向上のため、学校にも時折参ります」
雪菜の顔が真っ赤になった。
「それは……その……だって蓮様の横顔が……!」
「存じております」と小夜は静かに言った。「ただ、クラスメイトの数名もお気づきのようです」
「え……っ?」
「一番後ろの席の女子生徒二名が、お嬢様の様子を確認していました。『神代さん、烏丸くんのそばだとたまに表情が変わる気がする』という趣旨の会話をしていたようです」
雪菜が「っ……!」と固まった。
「氷の聖騎士のイメージが、少しずつ変わってきているようですね」
「そ、それは困ります……! 学校では完璧に……!」
「来週は少し気をつけられた方がよろしいかと」
小夜がそう言いながら、ほんのわずかだが口の端が動いた気がした。
蓮はクイックルワイパーを片付けながら、「まあ、バレるのは時間の問題だろ」と言った。
「れ、蓮様まで……!!」
雪菜の足元に、薄く霜が広がった。
ココアがソファの上で大きく伸びをして、また丸まった。
土曜の朝の、静かなリビングだった。




