第8話:遅い帰宅と、温かい概念のスープ。 ――帰る場所があるということを、彼女はまだ慣れていなかった。
夕方、雪菜から連絡が来た。
『急な任務が入りました。帰りが遅くなります。夕食は結構ですので、蓮様はお先にどうぞ……申し訳ありません』
それだけだった。
蓮はスマホを置いて、ココアを見た。ココアはソファの上で丸まったまま、片目だけ開けてこちらを見ていた。
「……雪菜、今日遅いらしい」
「わふ」
そうか、という顔だった。
夕飯を一人で食べた。ココアの分も出した。いつも通りの時間に、いつも通りの食事だった。
ただ、なんとなくリビングが広かった。
雪菜が来る前も、ずっとこの広さだったはずだ。ひと月前まで、これが当たり前だった。
「……静かだな」
独り言が、リビングに散っていった。
ココアが「わふ……」と低く鳴いた。同意しているのか、夕飯の肉が少ないと言っているのかは判断がつかなかった。たぶん両方だ。
食器を洗って、ソファに戻る。テレビをつけた。ココアが膝に乗ってくる。いつも通りだ。
ただ、雪菜がいないとリビングの温度が少し低い気がした。物理的な話ではない。あいつがいると、照れ隠しで下げる気温よりも、全体的な空気の温度の方が上がっている。不思議な話だ。
テレビの音だけが流れている。ココアが目を閉じている。いつも通りの夜だ。ただ、雪菜が来る前の「いつも通り」と、今の「いつも通り」が、同じ景色のはずなのに少し違う。何かが欠けている感じがする。
……慣れるのが早すぎた。
時計を見た。夜の十時だった。
任務の内容は聞いていない。聖騎士団の仕事だから詳細は話せないのだろう。ただ、「急な」とあったから、想定外の討伐が発生したはずだ。国家最高峰の聖騎士が「急な任務」と言うレベルの怪異がどのくらいのものか、だいたい想像はつく。
小夜が廊下から顔を出した。
「旦那様、お嬢様から連絡がありました。任務は完了したとのことです。帰宅まで二時間ほどかかるようです」
「……わかった」
「旦那様は就寝されますか?」
「……起きてる」
小夜が少し間を置いた。
「……承知しました」
それだけ言って引っ込んだ。
その背中を見ながら、蓮はキッチンに立った。
冷蔵庫を開ける。鶏肉、玉ねぎ、人参。生姜が少し残っていた。
深夜に帰ってきたら、温かいものがあった方がいい。それだけだ。
鍋に火を入れながら、風呂も足しておくかと思った。深夜まで任務をこなして帰ってきて、冷えた風呂では体が休まらない。追い焚きしておけばいい。それだけだ。
廊下の向こうで、小夜が静かに立ち止まった気配がした。
何も言わなかった。
◇
深夜零時を過ぎた頃。
玄関の鍵が開く音がした。
ココアが顔を上げた。蓮も顔を上げた。
「……ただいま、帰りました」
声が、かすれていた。
雪菜が玄関から入ってきた。聖騎士の戦闘装束だ。白を基調とした外套は土と何かの汚れで薄く汚れており、髪がわずかに乱れていた。顔色は悪くない。怪我もない。ただ、ひどく疲れた顔をしていた。
「……おかえり」
「あ、起きていてくださったんですか……?」
「ああ……」
「……申し訳ありません、こんな時間に……」
蓮はソファから立ち上がった。
「怪我は?」
「ありませんわ。任務は完了しました……A級の怪異が三体、想定より数が多くて……」
A級が三体。国家レベルの討伐部隊が総出で当たる規模だ。それを雪菜が一人で処理してきた。
国家最高峰の聖騎士というのは伊達ではない。ただ、この家にいると霞むだけで、実力は本物だ。
「そっか。……ご飯、食べてきたか?」
「いえ、任務中だったので……」
「そっか。じゃ、座れ」
雪菜が言われた通りソファに座った。ココアがとことこ歩み寄り、雪菜の隣に腰を下ろした。
雪菜が「ココアちゃん……」と小さく呟いた。ココアは何も言わずにそこにいた。
蓮はキッチンでスープを温めた。鶏と野菜を煮込んだ、生姜の入った一番シンプルなやつだ。器に注いで、雪菜の前に置く。
「食べろ。あと、風呂も入れてあるから」
「……え?」
「追い焚きしてある。冷えてるだろ?」
「……お風呂まで……っ」
雪菜の顔が、ぐにゃりと崩れた。疲れ切った顔に、なんとも言えない表情が混ざった。
「……蓮様が作ってくださったんですか、これ」
「待ってたからな」
「……待って、た」
「ああ」
雪菜が湯気の匂いを嗅いだ。
「……お風呂も、私のために……?」
「冷えるだろ、普通に」
雪菜がスープを手に取った。両手で包むように器を持ち、湯気を顔の前に受けている。疲れ切った顔が、じわりとほぐれていく。
一口飲んだ。
また、飲んだ。
「……美味しいです」
「そうか」
「生姜が……温かくて……」
声が、少しだけ揺れた。
蓮はテレビに視線を戻した。雪菜が静かにスープを飲んでいる気配がある。ココアが雪菜の隣で、じっとそこにいる。
しばらくして、雪菜が「あの、蓮様」と言った。
「なんだ?」
「……神代家では、遅くなっても誰も待っていませんでした」
蓮は答えなかった。
「任務から帰ってきても、誰もいなくて……それが普通だと思っていたんですけど」
「……そっか」
「今日、帰ってきたら電気がついていて……蓮様がいて……ココアちゃんがいて……スープがあって……お風呂まで……」
声が、また揺れた。
「……なんか、すみません。急に変なことを……」
「変じゃない」
雪菜が黙った。
少し間があって、「ありがとうございます」という声が聞こえた。
こもった声だった。たぶん、泣いていた。
蓮はテレビを見ながら「スープ、冷めないうちに飲め」とだけ言った。
「……はい」
しばらくして、雪菜が「蓮様」とまた呼んだ。
「なんだ?」
「……明日も、帰ってきたらここにいますか?」
蓮はしばらく考えた。
「いるだろ、普通に」
雪菜が「……そうですよね」と小さく笑った。安心したような声だった。
◇
廊下で、小夜は気配を消して立っていた。
聞くつもりはなかった。ただ、お嬢様が帰宅した際に何かあればと思って控えていたところ、うっかり一部始終を耳にしてしまった。
……旦那様は。
夕方の時点でスープを仕込み、追い焚きの準備をし、深夜まで起きて待っていた。
「冷えるだろ、普通に」と言っていたが。
「待ってたからな」と言っていたが。
……そうですか。
小夜はエプロンのポケットに手を入れた。頭痛薬の小瓶を取り出し、一錠を口に含んだ。
本家への監視報告書には、何をどこまで書くべきか。
お嬢様の恋文を毎夜添削してきたが、これは少し、毛色が違う。
もう一錠飲んだ。
……胃の調子が、よくない。




