第5話:スーパーの特売肉を巡る、ミリ単位の神速。 ――世界最強の能力は、精肉コーナーで輝く。
金曜の放課後。
小夜は留守番だ。「旦那様がいらっしゃらない間に、部屋の仕上げを」と言っていたが、どうせ本家への報告書の添削に追われているはずだ。雪菜の今週分だけで原稿用紙何枚になるのか、考えたくもない。
「蓮様……! スーパー、初めてです……!!」
雪菜が目を輝かせて言った。
「……初めて?」
「はい……! 家では使用人の方々が全て……あ、でもコンビニは一度だけ!」
「コンビニも初めてに近いのか?」
「はい……! おにぎりって自分で選べるんですね……! 感動しました……!」
蓮は何も言わなかった。
スリングバッグの中で、ココアがもぞもぞと動いた。顔だけ出して、興味深そうに周囲を見回している。
「わふっ」
「静かにしろ」
「わふ……」
不満そうに引っ込んだ。
なお、うちの近くのスーパーはペット可だ。昔ながらの地元密着型で、店内にペット用の水飲み場まである。ここ以外に行く理由がない。
自動ドアをくぐった瞬間、雪菜が「おお……!」と小声で感嘆した。
「す、すごいです……! 食べ物がこんなに……!」
「スーパーだからな」
「お肉もお魚も野菜も全部ここで……?」
「そうだ」
「……世界って広いんですね……」
蓮は黙ってカゴを取った。
野菜コーナーから始める。いつも通りの順路だ。人参、玉ねぎ、キャベツ。雪菜がついてくる。
「蓮様、これは何ですか?」
ごぼうを指差していた。
「ごぼうだ」
「食べられるんですか?」
「きんぴらにする」
「きんぴら……!? 作れるんですか!?」
雪菜の目が輝いた。
「作れる」
「蓮様はやはり世界最――」
「次、行くぞ」
◇
惣菜コーナーで、雪菜が固まった。
「……蓮様」
「なんだ?」
「あの、黄色いシールは何ですか……?」
半額シールだ。夕方になると惣菜に貼られる、庶民の友。
「値引きのシールだ。半額になる」
「はん、がく……?」
雪菜の目が、みるみる輝いていった。
「つまり、あのシールが貼ってあると、半分の値段で買えるということですか!?」
「そうだ」
「す、すごい……! なんというシステム……!!」
お嬢様の感動の閾値がよくわからなかった。
「蓮様、あのシールはどのくらいの頻度で……?」
「夕方になると貼られる。閉店近くになるともっと値引きされる」
「っ……! つまり今の時間帯が狙い目……!?」
「まあ、そうだな」
雪菜が神妙な顔で半額の唐揚げをカゴに入れた。それから隣の半額サラダも、半額の煮物も。
「……買いすぎだ」
「でも半額です……!!」
「食べきれない」
「……う」
渋々、煮物を棚に戻した。唐揚げとサラダは死守した。
ところで、今週月曜からの学校生活についての話をしなければならない気がしていた。
「……なあ」
「はい、蓮様……!」
「学校で、お前すごい冷たいよな」
雪菜の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
「っ……そ、それは……! 本当に、申し訳ありませんでした……! 蓮様の前でああいう態度を取るのは、本意では全くなくて……! 烏丸くんって呼んでしまって、本当に……!」
「そっちじゃない」
「え?」
「俺への態度の話じゃなくて」
雪菜が首をかしげた。
「健吾が本気でお前を怖がってるんだ」
「……あの、茶色い髪の方ですか?」
「お前のせいで廊下で会うたびに青ざめてる。なんとかしてやれ」
「そ、そんなに怖い顔してましたか……? でも学校では聖騎士としての立場が……」
「愛想笑いひとつでいい」
雪菜がなんとも言えない顔をした。
「……報告書のことも、小夜が毎晩添削していると思うと……」
「それはお前が解決しろ」
「はい……」
しゅんとした横顔が、なんとなく犬の耳が垂れ下がったみたいに見えた。
「……学校以外ではちゃんとしてるだろ」
言うつもりじゃなかったが、あの顔を見たら仕方なかった。
「っ……は、はい……! 家では全力で蓮様への気持ちを……!」
「それは出しすぎだ」
「うぅ……」
◇
精肉コーナー。
毎週金曜の特売、国産牛カルビ。
蓮は足を止めた。
陳列棚の前に、すでに人が集まっていた。主婦が三人。カゴを構え、それぞれが最後の一パックを視野に収めている。ベテランの目だ。牧場で言えば全員牛を捌いたことがある顔をしている。
残りは一パック。
スリングバッグの中でココアが鼻をひくつかせた。肉の匂いを嗅ぎつけたらしい。「わ」と言いかけたので、バッグの口を少し狭めた。
「……蓮様、あのお肉は?」
雪菜が小声で聞いてきた。
「今週のカルビだ!」
「取れますか……?」
「……まあ」
蓮は周囲の空間を、静かに把握した。
三人の位置。カゴの角度。足の重心。視線の方向。カートの向き。通路の幅。
全部、一瞬でわかる。
かつてSSS級ダンジョンで、数十体の魔物の位置と動線を同時に把握しながら迎撃ルートを組み立てた、空間認識の最上位魔術。
その能力を、今から精肉コーナーで使う。
一人が動いた。同時に、蓮は半歩だけ横にずれた。もう一人が身を乗り出す。蓮はカゴを自然な角度で傾けながら、棚との距離を詰める。三人目が「あら」と声を出した瞬間、蓮の手がパックに触れた。
誰とも接触しない。誰の視線とも交差しない。誰にも気づかれない。
カルビがカゴの中に収まった。
「……え?」
雪菜が固まっていた。
「今、何をしましたか……?」
「カルビ取っただけだぞ」
「そうじゃなくて……! 今、奥様方の間をすり抜けて……あれ、どうやって……?」
「空間を把握しただけだな」
雪菜が目を丸くした。
「空間を把握……!?」
「ダンジョンで複数の魔物を同時に捌くのと原理は同じだ」
雪菜がなんとも言えない顔をした。今日二度目だ。
「……それ、スーパーで使いますか、普通?」
「カルビが取れるなら、な」
「倫理観が……」
バッグの中でココアが「わふっ」と小さく鳴いた。同意しているのか、肉の匂いに反応しているのかは判断がつかなかった。
「とにかく、今夜はカルビだ」
「……はい」
雪菜の目がじわりと緩んだ。聖騎士の仮面がほんの少しだけ溶けた顔で、小さく頷く。
◇
レジに並びながら、雪菜が半額シールのついた唐揚げパックをじっと見ていた。
「……蓮様」
「なんだ?」
「この半額シール、集めると何かいいことがありますか……?」
蓮はしばらく考えた。
「……ない」
「そうですか……」
心底残念そうだった。
スリングバッグの中で、ココアが静かに眠っていた。精肉コーナーの前からずっと、肉の匂いに満足したのか、丸まって目を閉じている。
帰り道、雪菜は半額シールのことをまだ考えていた。
「……でも、仕組みとしては素晴らしいですよね。値引きされた商品を買うことで、お店も損失を減らせて、お客さんもお得で……」
「そうだな」
「……私、来週も来たいです」
「ああ、毎週来るぞ」
「っ……! 毎週……!!」
雪菜の目が、また輝いた。
半額シールひとつで、こんなに喜べるなら安いものだ。
蓮はカゴを提げ直して、帰路についた。




