第4話:学校での氷の視線、悪友は俺の遺言を聞こうとする。 ――家の外では、彼女は完璧に『氷の聖騎士』だった。
日曜の朝。
昨日の特売肉の出番はとっくに終わり、今朝は普通に食パンを焼いた。蓮とココアがのんびりしていた頃だった。
雪菜は昨日から住み込んでいる。土曜一日でそれなりに落ち着いた――と言いたいところだが、実際のところは色々あった。詳細は省く。
「……お嬢様」
月曜の朝。
土日で、色々あった。
詳細を説明しようとすると一冊本が書けそうなので省くが、要点だけ言えば――小夜が「旦那様の生活導線を把握する必要があります」と言い出してから歯止めが利かなくなり、気づいたら日曜の夜に四者四様が揃ってリビングでたこ焼きを食べていた。
なぜたこ焼きになったのかは蓮にもよくわからない。ココアが途中でタコを強奪しようとして小夜に阻止されたことだけは覚えている。
……まあ、悪くない週末だった。
登校の準備をしていると、キッチンで一悶着あった。
「旦那様、お弁当は私がお作りします」
「いい、俺が作る」
「メイドとして――」
「俺が作るから」
小夜が一瞬沈黙した。
「……では、お嬢様のお弁当は私が!」
「それは頼む」
「畏まりました」
小夜がすっと引いた。ただし三秒後に「旦那様のお弁当の中身だけ、確認させていただいてもよろしいですか?」と戻ってきたのには参った。
雪菜はというと、蓮が弁当箱に詰めているのをリビングからじっと見つめていた。
「……あの、蓮様」
「なんだ?」
「私のも……蓮様に作っていただけたら、その、嬉しかったな、と……」
最後の方が消え入りそうな声になった。
「小夜に作ってもらえ」
「……はい」
しゅんとした。やれやれ……。
「……明日のは、考えるから」
言うつもりじゃなかったが、あの顔を見たら仕方なかった。
「っ……! ほ、本当ですか……!?」
「今日は間に合わないからな」
「はい……! 明日、楽しみにしています……っ! これで明日まで生きられます!!」
サファイアの瞳がきらきらしていた。ソファの上でそれを見ていたココアが、ふんと鼻を鳴らした。
「蓮様……! 今日もご一緒できて、光栄です……っ!」
玄関先で、雪菜がブレザーの袖をぎゅっと握りながら上目遣いで言ってきた。
「……行先、学校だぞ」
「わかっています……! でも登校前のこの時間は家の延長ですから……!」
「玄関出たら外だ」
「うぅ……」
渋々といった顔で、雪菜がドアを開ける。
そして……。表情が、すっと消えた。
玄関のドアが開いた瞬間、まるでスイッチが切り替わるように。ふにゃふにゃに崩れていた頬が引き締まり、潤んでいた瞳が凪いで、背筋がすっと伸びる。
気温が二度くらい下がった気がした。
「……行きましょう、烏丸くん」
声まで変わった。さっきまでの「蓮様」はどこにも存在しない。周囲の空気を三度下げるような、冷ややかで完璧な、氷の聖騎士の声だった。
蓮は少し感心した。
……切り替え、はやいな。
「ああ」
二人並んで歩き始める。登校中、雪菜は一度も蓮の方を見なかった。表情は無い。視線は前。完璧な無関心を装った、完璧な演技だ。
ただ、歩幅だけがほんの少し、蓮に合わせてあった。
気づかないふりをした。
◇
教室に入ると、すぐに気配を感じた。
視線だ。
「烏丸!」
隣の席から、低い声。
織田健吾。蓮のクラスメイトで、数少ない気心の知れた悪友だ。ハンター志望で、一般人としては頭も度胸もある。ただ今は、心底心配そうな顔で蓮を見ていた。
「神代さんが、お前のことめちゃくちゃ睨んでるぞ」
「……そうか」
「そうかじゃなくて……」
健吾が声をひそめ、身を乗り出してくる。
「あの人、今学期来たばっかりだろ。なんでもう烏丸に目ぇつけてんだ? お前何かやったのか?」
「……別に何もしてない」
「じゃあなんであんな目で------」
「知らん」
「知らんって……お前、怖くないのか!? 神代雪菜だぞ? 氷の聖騎士だぞ? あの人が本気で怒ったらクラスごと凍るって話だぞ?」
蓮はそっと雪菜の方を見た。
雪菜は窓際の席で、教科書を開いて静かに座っていた。表情はない。視線は手元。完璧に「蓮のことなど存在しない」という態度だ。
――蓮様の制服姿、今日も尊すぎます……。
当然、そんなことは聞こえない。
「……大丈夫だ」
「全然大丈夫に見えないんだが?」
健吾が頭を抱えた。
「お前さ、転校してきた日から神代さんに目ぇつけられてるよな。何が原因かわかんないけど、俺、正直ヒヤヒヤしてるぞ。なあ、遺言とか、ある?」
「ない。必要ない」
「書いといた方がいいと思うぞ。万が一のために……」
「……お前は俺を何だと思ってるんだ?」
健吾が真剣な目で蓮を見た。
「俺はただ心配してるお前の友達だよ」
……こいつ、本当にいい奴だな。
「ありがとな」
「礼はいらんから遺言書け」
◇
三時間目。
数学の授業中、教師がプリントを配り始めた。列ごとに後ろへ回していく、よくある光景だ。
蓮の前の席の女子が振り返り、プリントを差し出してきた。
「烏丸くん、はい」
「ああ、ありがとう」
それだけだ。それだけのやり取りだった。
――……っ。
雪菜の視線が、一瞬だけ鋭くなった。
――今の子、誰ですか……? 烏丸くんに笑いかけましたよね……? 確認が必要ですね……。足元だけちょっと……ほんのちょっとだけ……。
廊下側の窓ガラスに、うっすらと霜が走った。
隣の席の生徒が「あれ、なんか寒くない?」と首をかしげる。
雪菜はすでに教科書に視線を戻していた。表情はない。完璧な無関心だった。
――蓮様の隣の席の人、今日も羨ましいです。代わっていただけませんか。
誰にも聞こえない声で、氷の聖騎士は思った。
◇
昼休み。
健吾が弁当を持って蓮の席に来た。
「なあ、烏丸」
「なんだ?」
「神代さん、お前のこと睨んでるのに、なんか……たまに見る目が変じゃないか?」
「……変?」
「なんか、こう……うまく言えないけど」
健吾が腕を組んで考え込んだ。
「睨んでるのに、嬉しそう、というか」
「……気のせいだろ」
「そうかなあ……」
健吾はしばらく首をかしげて、それから「まあいいや」と弁当を開いた。
「とりあえず遺言は書いとけよ。お前の第一発見者にはなりたくないから」
「……物騒なこと言うな」
蓮は自分の弁当を開いた。
白米、卵焼き、鶏の照り焼き。今朝、登校前に作ったものだ。
健吾が覗き込んで目を丸くした。
「……お前それ、自分で作ったのか?」
「ああ」
「卵焼き、綺麗すぎないか?」
「焼いただけだ」
健吾が箸を止めた。
「俺の母ちゃんより上手いぞ」
「……すまん」
健吾が遠い目をした。
その時、廊下から冷気が一瞬漂ってきた気がした。
振り返ると、雪菜が廊下を歩いていくところだった。こちらには一瞥もくれない。完璧な無関心だ。
手元には、小夜が作った弁当箱がある。
――蓮様のお弁当と、中身が全然違います……。小夜のも美味しいですけど……でも……蓮様に作っていただきたかったです……。明日は作っていただけるんですよね……? 楽しみすぎて今朝から三回確認しそうになりました……でも引かれたら嫌なので我慢しました……えらいです私……。
廊下の床に、足跡の形の霜がうっすら残っていた。
誰も気づかなかった。
「……なあ、烏丸」
健吾が真剣な顔で言った。
「お前、神代さんの一族に、何か弱みでも握られてるのか?」
「……別に」
「正直に言っていいぞ。俺、友達だから」
「……何もない」
「そうか」
健吾は納得していない顔で弁当の卵焼きを口に入れ、しみじみと言った。
「……俺の母ちゃんより絶対うまい」
蓮は何も言わなかった。
廊下の霜は、昼休みが終わる頃には跡形もなく消えていた。
声がした。
リビングの隅から。
「っ!?」
雪菜が跳び上がった。蓮は振り返った。
その黒影は窓際にいた。
いつからそこにいたのか、まったくわからなかった。完璧なメイド服を隙なく着こなした女性が、背筋をぴんと伸ばし、両手を前で重ねて、まるで最初からそこに存在していたかのように佇んでいた。
「小夜っ! いつからいたんですか!?」
「昨日の朝から、ですが?」
「き、昨日の朝!?」
「はい。お嬢様がドアを叩き破る勢いで押し入られた際に、一緒に」
さらりと言ってのけた。
蓮は少し考えた。
「……昨日から一言も声をかけなかったのか?」
「状況を見極めておりました」
「一日かけて……?」
「想定より、見極めに時間がかかりました」
微塵も反省していなかった。
蓮はその女性の顔を、改めて見た。
「……荒木小夜、か」
女性の眉が、ほんの僅かに動いた。
「あら、ご存知でしたか、旦那様?」
「名前くらいは、な」
それ以上は言わなかった。
荒木小夜。戦闘メイド協会を首席で卒業し、現役時代は単独で複数のSSS級ダンジョン攻略隊の護衛を務めた、裏の世界では知らない者がいない伝説のエリート。風の属性使いとして、気配遮断と諜報活動において世界最高峰と謳われる存在だ。
そいつが今、雪菜のお目付役として蓮の六畳のリビングに立っている。
「……なんで神代家のメイドやってんだ、お前」
「旦那様に申し上げる義務はございません」
「……そうか」
まあ、人それぞれ事情はある。
その間、ソファの上のココアは小夜をじっと見ていた。いつもなら新参者に向ける威嚇の気配も、地属性の覇気もない。ただ静かに、品定めするように。
やがてトタトタと歩み寄り、小夜の足元で前足を揃えてちょこんと座った。
「わふっ」
「……可愛らしいですね」
小夜が自然に腰をかがめ、ココアの頭を撫でた。ココアが気持ちよさそうに目を細める。
「え……ちょっと待って……なんで……!? ずっと私には威嚇してたのに!?」
雪菜が心底驚いた顔をした。気持ちはわかる。昨日一日、雪菜を牽制しっぱなしだったのに。
ただ、ある意味では納得だった。
ただ者じゃない相手を見抜く目は、魔獣の方が正確だ。
「さて」
小夜が背筋を戻した。
「旦那様、コーヒーをお淹れしてもよろしいでしょうか。メイドとして、客人への手ぶらは本意ではございません」
「いい、俺が淹れる」
「いえ、それはメイドである私が――」
「俺が淹れる」
小夜が静止した。一瞬だけ、何かを測るような間があった。
「……では、拝見させていただきます」
引いた。ただし目は引いていなかった。
コーヒー豆を挽いて、ドリップの準備をする。湯温は83度。指先でじわりと熱を通し、一定の細さで注いでいく。全部で四分かからない。
カップを小夜の前に置いた。
小夜は一口飲んだ。
また、黙った。今度は少し長かった。
「……戦闘メイド協会の研修で、世界最高峰のバリスタにコーヒーの淹れ方を叩き込まれました」
「そうか」
「その方のコーヒーと、同じ味がします……」
「……それはよかった」
小夜はカップを静かに置き、こめかみを押さえた。エプロンのポケットから小瓶を取り出し、頭痛薬を一錠、コーヒーで流し込む。
「お嬢様」
「は、はい……!」
「本家への監視報告書の件ですが……」
雪菜の顔が、みるみる引きつった。
「昨日一日分、確認させていただきました。全文、読み上げてよろしいですか?」
「で、できれば……やめていただけると……!」
「では要点だけ」
小夜は懐から手帳を開いた。
「午前の部。『蓮様が紅茶を淹れてくださいました。世界最強の炎で淹れた紅茶は、これまでのどんなお茶よりも美味でした。蓮様の指先ひとつで生まれるあの温かさは、まるで蓮様そのものを体現しているようで、飲むたびに胸がいっぱいになります。蓮様はやはり世界最高です。監視対象に危険な動向は特になし』」
「……そ、それの何が問題なのですか!!」
「これは恋文です」
ぴしゃりと言い切った。
「監視報告書に恋文は不要です。続けます」
小夜は頭痛薬をもう一錠取り出した。飲む前に、まだ手帳を閉じていない。
「昼の部。『ご報告が難しい内容のため、詳細は割愛します』」
「……それはどういう意味だ?」
蓮が思わず聞いた。
「私にもわかりかねます。ただ、午後に私が確認した際、お嬢様は顔を真っ赤にしてソファの角に正座されており、ココア様は蓮様の膝の上で勝ち誇った顔をされておりました」
「そ、その件は……! 忘れてください!!」
「ご安心ください。本家への報告は控えました」
「……助かります……」
小夜が、手帳のページをめくった。
「お嬢様のためです。続けます」
「夕方の部。『蓮様が窓の外を眺めていらっしゃいました。夕暮れを背に佇む蓮様のお姿は、まるで物語の主人公のようで、思わず見とれてしまいました。きっと私だけが知る蓮様の横顔です。蓮様は佇んでいるだけでも世界最高です。なおこの時間帯の監視業務については、蓮様を観察することに集中しておりましたため、危険な動向の有無については確認できておりません』」
「……監視報告の体をなしていないな」
「はい。抹消しました」
雪菜が「小夜……!」と震える声を上げた。小夜は視線を手帳に落としたまま動じない。
「夜の部。『蓮様が夕食を作ってくださいました。お肉と野菜の炒め物でしたが、これまで食べたどんな料理よりも美味しかったです。蓮様は料理も世界最高です。食後、蓮様が「美味かったか?」と聞いてくださいました。その一言だけで今日一日が報われた気がして、少し泣きそうになりました。ちなみに今日一日で、蓮様が世界最高だと確信した事案は計七件でした。監視対象に危険な動向は特になし』」
小夜は手帳を閉じた。
「以上です」
リビングがしんと静まり返った。
「……七件」と蓮は言った。
「はい」
「一日で?」
「はい」
「……泣きそうになったのか?」
「旦那様、その箇所は流していただけると私の胃が助かります」
小夜は頭痛薬を、今度は二錠まとめて飲んだ。
雪菜は両手で顔を覆って「……読まないでください……!」とくぐもった声を上げていた。ソファの上でその様子を眺めていたココアが、ふんと鼻を鳴らした。
「戦闘メイド協会実技教本第十二条。『不完全な情報の伝達は主人の信頼を損ねる』。本日の報告書も同様の内容が予想されますが、私の胃の状態と相談しながら適宜修正いたします」
「小夜……これからは自分で提出しますので……!」
「お断りします」
ぴしゃりと言い切った。
「では旦那様」と小夜が向き直った。「改めて、荒木小夜と申します。お嬢様のお目付役として、お世話になります」
「ああ」
「なお旦那様の家事能力については、戦闘メイド協会員として一言申し上げる必要がございます」
「……何がだ?」
小夜が淡々と続けた。
「掃除が行き届きすぎています。一人暮らしの高校生男子の部屋として、あり得ない清潔さです。これでは私の仕事がございません」
「別に仕事しなくていいぞ」
「それはできません」と小夜はきっぱり言った。「メイドである私が何もしない家など、存在してはならないのです……」
またこめかみを押さえた。今度は薬を出さなかった。さすがに本日の上限に達したらしい。
雪菜が、申し訳なさそうにしながらも、どこか誇らしそうに胸を張った。
「蓮様は何でもお出来になるんです……!!」
「それは昨日から存じております……」
小夜の声は、ひどく疲れていた。




