第3話:戦闘メイドの小夜さんは、頭痛薬が手放せない。 ――伝説のエリートが雇われ先を間違えたのか、蓮の家が間違っているのか。
日曜の朝。
昨日の特売肉の出番はとっくに終わり、今朝は普通に食パンを焼いた。蓮とココアがのんびりしていた頃だった。
雪菜は昨日から住み込んでいる。土曜一日でそれなりに落ち着いた――と言いたいところだが、実際のところは色々あった。詳細は省く。
「……お嬢様」
声がした。
リビングの隅から。
「っ!?」
雪菜が跳び上がった。蓮は振り返った。
その黒影は窓際にいた。
いつからそこにいたのか、まったくわからなかった。完璧なメイド服を隙なく着こなした女性が、背筋をぴんと伸ばし、両手を前で重ねて、まるで最初からそこに存在していたかのように佇んでいた。
「小夜っ! いつからいたんですか!?」
「昨日の朝から、ですが?」
「き、昨日の朝!?」
「はい。お嬢様がドアを叩き破る勢いで押し入られた際に、一緒に」
さらりと言ってのけた。
蓮は少し考えた。
「……昨日から一言も声をかけなかったのか?」
「状況を見極めておりました」
「一日かけて……?」
「想定より、見極めに時間がかかりました」
微塵も反省していなかった。
蓮はその女性の顔を、改めて見た。
「……荒木小夜、か」
女性の眉が、ほんの僅かに動いた。
「あら、ご存知でしたか、旦那様?」
「名前くらいは、な」
それ以上は言わなかった。
荒木小夜。戦闘メイド協会を首席で卒業し、現役時代は単独で複数のSSS級ダンジョン攻略隊の護衛を務めた、裏の世界では知らない者がいない伝説のエリート。風の属性使いとして、気配遮断と諜報活動において世界最高峰と謳われる存在だ。
そいつが今、雪菜のお目付役として蓮の六畳のリビングに立っている。
「……なんで神代家のメイドやってんだ、お前」
「旦那様に申し上げる義務はございません」
「……そうか」
まあ、人それぞれ事情はある。
その間、ソファの上のココアは小夜をじっと見ていた。いつもなら新参者に向ける威嚇の気配も、地属性の覇気もない。ただ静かに、品定めするように。
やがてトタトタと歩み寄り、小夜の足元で前足を揃えてちょこんと座った。
「わふっ」
「……可愛らしいですね」
小夜が自然に腰をかがめ、ココアの頭を撫でた。ココアが気持ちよさそうに目を細める。
「え……ちょっと待って……なんで……!? ずっと私には威嚇してたのに!?」
雪菜が心底驚いた顔をした。気持ちはわかる。昨日一日、雪菜を牽制しっぱなしだったのに。
ただ、ある意味では納得だった。
ただ者じゃない相手を見抜く目は、魔獣の方が正確だ。
「さて」
小夜が背筋を戻した。
「旦那様、コーヒーをお淹れしてもよろしいでしょうか。メイドとして、客人への手ぶらは本意ではございません」
「いい、俺が淹れる」
「いえ、それはメイドである私が――」
「俺が淹れる」
小夜が静止した。一瞬だけ、何かを測るような間があった。
「……では、拝見させていただきます」
引いた。ただし目は引いていなかった。
コーヒー豆を挽いて、ドリップの準備をする。湯温は83度。指先でじわりと熱を通し、一定の細さで注いでいく。全部で四分かからない。
カップを小夜の前に置いた。
小夜は一口飲んだ。
また、黙った。今度は少し長かった。
「……戦闘メイド協会の研修で、世界最高峰のバリスタにコーヒーの淹れ方を叩き込まれました」
「そうか」
「その方のコーヒーと、同じ味がします……」
「……それはよかった」
小夜はカップを静かに置き、こめかみを押さえた。エプロンのポケットから小瓶を取り出し、頭痛薬を一錠、コーヒーで流し込む。
「お嬢様」
「は、はい……!」
「本家への監視報告書の件ですが……」
雪菜の顔が、みるみる引きつった。
「昨日一日分、確認させていただきました。全文、読み上げてよろしいですか?」
「で、できれば……やめていただけると……!」
「では要点だけ」
小夜は懐から手帳を開いた。
「午前の部。『蓮様が紅茶を淹れてくださいました。世界最強の炎で淹れた紅茶は、これまでのどんなお茶よりも美味でした。蓮様の指先ひとつで生まれるあの温かさは、まるで蓮様そのものを体現しているようで、飲むたびに胸がいっぱいになります。蓮様はやはり世界最高です。監視対象に危険な動向は特になし』」
「……そ、それの何が問題なのですか!!」
「これは恋文です」
ぴしゃりと言い切った。
「監視報告書に恋文は不要です。続けます」
小夜は頭痛薬をもう一錠取り出した。飲む前に、まだ手帳を閉じていない。
「昼の部。『ご報告が難しい内容のため、詳細は割愛します』」
「……それはどういう意味だ?」
蓮が思わず聞いた。
「私にもわかりかねます。ただ、午後に私が確認した際、お嬢様は顔を真っ赤にしてソファの角に正座されており、ココア様は蓮様の膝の上で勝ち誇った顔をされておりました」
「そ、その件は……! 忘れてください!!」
「ご安心ください。本家への報告は控えました」
「……助かります……」
小夜が、手帳のページをめくった。
「お嬢様のためです。続けます」
「夕方の部。『蓮様が窓の外を眺めていらっしゃいました。夕暮れを背に佇む蓮様のお姿は、まるで物語の主人公のようで、思わず見とれてしまいました。きっと私だけが知る蓮様の横顔です。蓮様は佇んでいるだけでも世界最高です。なおこの時間帯の監視業務については、蓮様を観察することに集中しておりましたため、危険な動向の有無については確認できておりません』」
「……監視報告の体をなしていないな」
「はい。抹消しました」
雪菜が「小夜……!」と震える声を上げた。小夜は視線を手帳に落としたまま動じない。
「夜の部。『蓮様が夕食を作ってくださいました。お肉と野菜の炒め物でしたが、これまで食べたどんな料理よりも美味しかったです。蓮様は料理も世界最高です。食後、蓮様が「美味かったか?」と聞いてくださいました。その一言だけで今日一日が報われた気がして、少し泣きそうになりました。ちなみに今日一日で、蓮様が世界最高だと確信した事案は計七件でした。監視対象に危険な動向は特になし』」
小夜は手帳を閉じた。
「以上です」
リビングがしんと静まり返った。
「……七件」と蓮は言った。
「はい」
「一日で?」
「はい」
「……泣きそうになったのか?」
「旦那様、その箇所は流していただけると私の胃が助かります」
小夜は頭痛薬を、今度は二錠まとめて飲んだ。
雪菜は両手で顔を覆って「……読まないでください……!」とくぐもった声を上げていた。ソファの上でその様子を眺めていたココアが、ふんと鼻を鳴らした。
「戦闘メイド協会実技教本第十二条。『不完全な情報の伝達は主人の信頼を損ねる』。本日の報告書も同様の内容が予想されますが、私の胃の状態と相談しながら適宜修正いたします」
「小夜……これからは自分で提出しますので……!」
「お断りします」
ぴしゃりと言い切った。
「では旦那様」と小夜が向き直った。「改めて、荒木小夜と申します。お嬢様のお目付役として、お世話になります」
「ああ」
「なお旦那様の家事能力については、戦闘メイド協会員として一言申し上げる必要がございます」
「……何がだ?」
小夜が淡々と続けた。
「掃除が行き届きすぎています。一人暮らしの高校生男子の部屋として、あり得ない清潔さです。これでは私の仕事がございません」
「別に仕事しなくていいぞ」
「それはできません」と小夜はきっぱり言った。「メイドである私が何もしない家など、存在してはならないのです……」
またこめかみを押さえた。今度は薬を出さなかった。さすがに本日の上限に達したらしい。
雪菜が、申し訳なさそうにしながらも、どこか誇らしそうに胸を張った。
「蓮様は何でもお出来になるんです……!!」
「それは昨日から存じております……」
小夜の声は、ひどく疲れていた。




