第29話:氷を溶かす、温かいぬくもり。 ――見つけてくれて、ありがとうございました。
たこ焼きパーティーの後片付けが終わる頃には、夜も更けていた。
凍牙は「また来る……! 次は絶対、俺が焼く係だ……!」と謎の宣言を残して帰っていった。誰も、任せる約束はしていない。
ココアは満腹すぎて、リビングのソファで丸まったまま、すでに寝息を立てていた。小夜も、後片付けを終えて「本日はこれで失礼します」と、静かに自室へ下がっていった。
リビングに、蓮と雪菜だけが残った。
「……ベランダ、出るか?」
蓮が、ふとそう言った。
「はい」
雪菜が、頷いた。
◇
ベランダに出ると、夜風が少し冷たかった。
空には、星がよく見えた。街灯りから少し離れた場所にあるアパートだからか、都会にしては星の数が多い。
二人並んで、手すりに寄りかかった。
「……綺麗ですね」
雪菜が、星空を見上げながら呟いた。
「ああ」
「今日、楽しかったです。凍牙お兄様のことは、正直、扱いが雑になってしまいましたが……」
「まあ、あいつはあれで喜んでる」
「そうだといいのですが……」
雪菜が、小さく笑った。
夜風が、また吹いた。
雪菜が、小さく身を震わせた。
「……寒いか?」
「少しだけ、です。でも、大丈夫です」
強がりだった。腕に鳥肌が立っているのが見えた。
蓮は、何も言わずに、雪菜の手を握った。
「っ……」
雪菜が、小さく声を漏らした。
蓮の手のひらから、じんわりとした熱が伝わっていく。かつて魔神すら消し飛ばした【炎】の魔力を、限界まで絞った、ただ温かいだけの熱量。
「……温かい、です」
雪菜が、目を細めた。
「風邪引くだろ、このままだと」
「蓮様がいれば、風邪も引きません」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題です!」
雪菜が、繋いだ手を、両手で包み込むように握り直した。
「……蓮様の手、いつも温かいですよね」
「まぁ、炎使いだからな」
「それだけじゃない、気がします」
雪菜が、蓮の方を見た。
サファイアの瞳が、星明かりを映して、いつもよりずっと澄んで見えた。
「……蓮様」
「なんだ?」
「聞いてもいいですか?」
「……なんだ?」
「なんで、私を、拾ってくださったんですか?」
蓮は、少し考えた。
「拾った覚えはない。勝手に押しかけてきたんだろ」
「それはそうですが……あの、覚えていますか。初日に、私、正直に言いましたよね。監視は建前で、本当は一緒に暮らしたかっただけだって」
「……覚えてる」
「あれ、噓じゃなくて、本当にそうだったんです。任務なんて、最初から眼中にありませんでした」
雪菜が、少し気恥ずかしそうに続けた。
「同年代の監視対象として名前が挙がった時点で、他の候補が検討される前に、無理やり立候補しました。職権も、多少……いえ、かなり乱用しました」
「知ってる。初日に聞いた」
「聞きましたね……! 改めて言うと、恥ずかしいものがあります」
「私、ずっと気を張って生きてきました。学業も、剣も、聖騎士としての務めも。誰かに弱いところを見せてはいけない、完璧でいなければいけない、と」
夜風が、また吹いた。
「でも、ここに来てから、初めて……気を張らなくていい場所ができました。おにぎりを凍らせても、床を凍らせても、恥ずかしい失敗をしても、誰も呆れずに、笑って許してくれる場所が」
雪菜の声が、少しだけ震えた。
「私が、蓮様を見つけたから。私、こんなふうに笑えるようになりました」
蓮は、少し眉を上げた。
「……俺が見つけられた側みたいな言い方だな」
「事実です」
雪菜が、きっぱりと言った。
「無理やり立候補までしておいて、初日にいきなり荷物を持って押しかけて、そのまま居座って……今思えば、私、かなり無茶をしました」
「……いきなり過ぎて、正直、断る隙もなかった」
「断らせるつもりが、ありませんでしたので」
雪菜が、悪びれる様子もなく言い切った。
「あの頃の私、自分でも引くくらい行動力がありました。でも、あの一歩がなければ、今、ここにいません」
雪菜が、少し遠い目をした。
「……覚えていますか? もっと前の話です。私がまだ、聖騎士団に入りたてだった頃」
「……崩落のときのことか?」
「はい。ダンジョンの崩落に巻き込まれて、瓦礫の下敷きになって……あの時、蓮様が助けてくださいました」
夜風が、静かに吹いた。
「顔もよく見えていませんでした。声も、一言か二言くらいしか聞いていません。それでも、あの時の温かさだけは、ずっと覚えていました」
雪菜が、少し俯いた。
「蓮様は、私のことなんて、きっと覚えていらっしゃらないだろうと思っていました。何百人と助けてきた中の、一人でしかないだろうと」
「いや、覚えてた」
雪菜が、顔を上げた。
「顔も、名前も、あの日のことも、ちゃんと覚えてた。ただ……それだけだった」
蓮は、少し言葉を選んだ。
「積極的に関わるつもりは、なかった。助けたのは、その場にいたからだ。それ以上、何かをするつもりはなかった」
「……はい」
「お前が、勝手にこじ開けてきたんだ。俺が閉じてたものを……」
雪菜が、目を見開いた。
「玄関のドアだけじゃない。俺は、誰にも踏み込まれないように、ずっと閉じてた。お前が来るまで」
蓮は、少し黙った。
……確かに、あの日の勢いは、尋常じゃなかった。
いきなり押しかけてきて、断る間もなく居座られて、気づけば生活の一部になっていた。振り返れば、終始押し切られていただけだった気がする。
「……見つけられたのは、俺の方かもしれないな」
「はい」
雪菜が、満足そうに頷いた。
蓮は、繋いだ手に、少しだけ力を込め返した。
「……本当に、ありがとうございました」
雪菜が、目を潤ませながら、微笑んだ。
星空の下、氷の聖騎士の頬が、ほんの少しだけ緩んでいた。作られた無表情でも、演技でもない、ただの雪菜の顔だった。
蓮は、その顔をしばらく見ていた。
「……礼を言うのは、俺の方だ」
「え……」
「助けたのは、俺の方が先だったかもしれない。だが、こうして、また会いに来てくれたのは、お前だ」
雪菜が、息を呑んだ。
「隠すことばかり考えて生きてきた。誰にも踏み込まれないように、面倒事に巻き込まれないように、それだけを考えてた」
蓮は、星空を見上げた。
「それが、いつの間にか、面倒だと思わなくなった」
「……蓮様」
「ありがとうな」
言葉が、静かに落ちた。
蓮が、自分から誰かに礼を言うのは、これが初めてだった。
「お前が、勝手に押しかけてきたからだ」
雪菜が、小さく笑った。涙が、一筋こぼれた。
「勝手に押しかけて、正解でした」
「まあ、悪くはなかったな」
蓮は、繋いだ手をそのままに、雪菜の頭に、もう片方の手をそっと乗せた。
「……っ」
雪菜が、目を見開いた。
「……このまま、少し、こうしてていいか?」
「……はい」
雪菜が、蓮の肩に、そっと頭を預けた。
夜風は、まだ冷たかった。
けれど、繋いだ手のひらから伝わる熱だけは、ずっと温かかった。
しばらくの静寂のあと、蓮は、ふと思いついたことを口にした。
「……なあ」
「はい」
「そろそろ、『蓮様』ってのは、やめないか?」
雪菜が、肩に預けていた頭を、ゆっくり起こした。
「……え」
「その、なんだ。婚約者になったわけだし……いつまでも様付けっていうのも、変な話だろ」
「で、では、何と……」
「名前で、呼び合えばいいだろ。普通に」
雪菜が、しばらく固まっていた。
「……蓮、と……呼び捨てで、ですか?」
「そうだ」
「わ、私なんかが、蓮様のことを、呼び捨てになんて……!」
「様がついてる時点で、呼び捨てになってない」
「そ、それはそうですが……! 心の準備が……!」
雪菜が、両手で顔を覆った。指の隙間から、耳まで赤くなっているのが見えた。
蓮は、少し考えて、付け加えた。
「無理にとは言わない。ただ、俺も、お前のことを名前で呼ぶ」
「っ……」
雪菜が、顔を覆ったまま固まった。
「……雪菜」
低い声で、名前を呼んだ。
「っ……!」
雪菜が、その場でくずおれそうになった。手すりを掴んで、なんとか持ちこたえる。
「い、いきなりすぎます……! 心の準備が、まだ……!」
「い、いちいち準備してどうする!? こ、こっちだって恥ずかしいんだ!」
「準備が必要なんです……! こういうのは……!」
雪菜が、真っ赤な顔のまま、蓮を見上げた。
「……その、少し、練習してもいいですか?」
「練習?」
「呼び方の、練習です」
雪菜が、深呼吸を一つした。
「……蓮、さん」
「様は取れてるけど、さんは残ってるぞ」
「一気には無理です……! 段階を踏ませてください……!」
「……好きにしろ」
雪菜が、もう一度深呼吸した。
「……れ、蓮……」
消え入りそうな声だった。それでも、確かに、名前だけが呼ばれた。
足元に、薄く霜が広がった。
蓮は、それを見ながら、小さく笑った。声には出さなかったが、口の端が、確かに上がっていた。
「……上出来だ」
「っ……うぅ……! 恥ずかしすぎて、死にそうです……!」
「死ぬな」
「善処します……!」
夜風が、また吹いた。
星空の下、二人はしばらく、何も言わずに、そのままの姿勢でいた。
言葉は、もう必要なかった。




