第30話:氷の聖騎士は、これからも溶かされ続けて。 ――騒がしくて甘い日常は、まだまだ続いていく。
雪菜が転がり込んできたあの朝から、気づけば半年近くが経っていた。
正確な日数は、誰も数えていない。数える必要もなかった。
季節がひとつ、またひとつと過ぎていくうちに、気づけば、この暮らしの方が「普通」になっていた。
朝。
いつも通りの、いつも通りではない朝だった。
「蓮……! おはようございます……!」
寝室から出てきた雪菜が、開口一番、名前を呼んだ。昨夜、ベランダで練習した成果らしい。
「……おはよう、雪菜」
蓮が名前を返すと、雪菜の顔が、みるみる赤くなった。
「っ……朝から、呼び捨てにされると、破壊力が違います……!」
「よ、呼んでくれって言ったのはお前だろ!?」
「言いましたけど……! 心の準備は、まだ全然足りていません……!」
足元に、薄く霜が広がった。
キッチンから、小夜が静かに顔を出した。
「お嬢様、朝から凍らせるのはおやめください。床の耐久性にも限界がございます」
「す、すみません……!」
慌てて霜を消そうとする雪菜を見ながら、蓮はいつも通り朝食の準備を始めた。
パンを焼き、卵を焼き、お茶を淹れる。手順は、変わらない。
ただ、テーブルに着く人数と、交わされる言葉の量だけが、少しずつ増えていた。
◇
朝食を終えて、登校の準備をする。
制服に着替え、鞄を持ち、玄関に向かう。
いつも通りの流れの、最後に。
雪菜が、玄関で足を止めた。
「……あの、蓮」
「なんだ?」
雪菜が、もじもじと両手を合わせた。
「いってらっしゃいの、ハグを、していただけませんか?」
「……ハグ!?」
「はい。婚約者になったので、その、これくらいは……普通、ですよね?」
普通なのかどうかは、微妙なところだった。ただ、断る理由もなかった。
「……まあ、いいけど」
蓮が軽く両腕を広げると、雪菜が勢いよく飛び込んできた。
「っ……」
思ったより強い力だった。しっかりと抱きついてくる。
「……行ってくる」
「はい……! いってらっしゃいませ……!」
雪菜の顔が、離れる頃には真っ赤になっていた。それと同時に、玄関の床に、うっすらと霜が広がっていく。
「……また凍らせてるぞ」
「っ、す、すみません……! 嬉しさが制御できなくて……!」
蓮は、指先を軽く床に向けた。
――【極小火力:均一照射】。
かつて魔神を消し飛ばした炎を、指先ほどに絞る。霜が、音もなく溶けていく。
「凍らせるな、って言っただろ」
「善処します……! でも、蓮がハグしてくださると、どうしても……!」
「そのたびに溶かすのも面倒なんだが……」
「面倒、ですか……」
雪菜が、しゅんとした。
「……いや言い過ぎた。面倒とは思っていない」
蓮は、少しだけ付け加えた。
「面倒だが、悪くはない、くらいだ」
雪菜の顔が、また赤くなった。
「……その言い方、ずるいです」
「褒め言葉のつもりだが……?」
「わかってます……! わかってますけど……! ずるいものはずるいんです……!」
床に、また霜が広がりかけた。
「……おい」
「あっ、す、すみません……!」
蓮は、また指先を向けた。
繰り返しだった。それでも、悪くない繰り返しだった。
◇
玄関で、その様子を見ていたココアが、「わふ」と一声鳴いた。
――行ってくるがいい。ここは私が守っておく。
言葉は通じないが、なんとなく、そういう顔をしていた。
小夜が、玄関先で静かに一礼した。
「いってらっしゃいませ」
「ああ」
「なお、旦那様」
「なんだ?」
小夜が淡々と告げた。
「本日の玄関の霜による床材の劣化について、後日、補修費用のご相談をさせていただきたく」
「……それは仕方ない。補修お願いしたい」
「ありがとうございます」
小夜が、エプロンのポケットから手帳を取り出し、何かを書き足した。日課のようなものだった。
◇
学校への道すがら、雪菜が隣を歩きながら、ふと呟いた。
「……蓮」
「なんだ?」
「名前で呼ぶの、まだ慣れませんが……嫌いじゃないです」
「そうか」
「蓮は、どうですか? 私のことを、名前で呼ぶの?」
蓮は、少し考えた。
「……悪くない」
「それだけですか?」
「……雪菜」
呼んでみせると、雪菜の足が、ぴたりと止まった。
「っ……!」
顔が、一気に赤くなった。
「な、なんですか、急に……! 予告してください、そういうのは……!」
「い、いちいち予告してどうする!?」
「心の準備が……!」
「昨日、同じこと言ってたな」
「毎回、必要なんです……!」
足元に、また薄く霜が広がりかけた。今度は、雪菜が自分で慌てて踏み消した。
「……できました。今、抑えました」
「……成長したな」
「毎日、頑張っていますので」
雪菜が、赤い顔のまま、誇らしげに胸を張った。
学校の門が見えてきた。
門をくぐれば、また「氷の聖騎士」の顔に戻るのだろう。ただ、以前と違って、それを隠す必要はもうなかった。クラス中が知っている。誰もが、もう驚かない。
「じゃあ、また放課後」
「はい……! 今日も、いってらっしゃい」
いってらっしゃいと、いってきますが、一日の中で何度も交わされる。おかしな話だが、それが日常になっていた。
◇
放課後、いつも通りアパートに帰ると、ココアが玄関で待っていた。
「わふっ!」
「ただいま」
小夜が、キッチンから顔を出した。
「おかえりなさいませ。夕食の準備が整っております」
「今日は何だ」
「肉じゃがです。お嬢様が、練習させてほしいと」
キッチンの奥から、雪菜の声が聞こえた。
「今日こそ、じゃがいもを完璧に煮込んでみせます……!」
小夜が、静かに補足した。
「なお、現在、鍋の中身が薄く凍結しております」
「……また凍らせたのか?」
「照れが入ると、どうしても」
蓮は、キッチンに向かった。
鍋を覗くと、確かに、じゃがいもの表面がうっすら白かった。
「……雪菜」
「っ、はい……! すみません、また……!」
「いい。直す」
指先を鍋に向ける。
――【極小火力:浸透均一照射】。
氷の魔力を溶かし、程よい温度に戻す。数秒で、湯気が立ち上り始めた。
「……できた」
「っ……ありがとうございます……!」
雪菜が、ほっとした顔で鍋を覗き込んだ。
「あとは、味付けだけです……! 今度こそ……!」
小夜が、こめかみを軽く押さえながら、静かに見守っていた。
ココアが、テーブルの下でじゃがいもの匂いを嗅ぎながら、期待に満ちた目でこちらを見上げていた。
◇
夕食の後、リビングで、いつも通りの時間が流れた。
雪菜がソファで蓮の肩に寄りかかり、ココアが膝の上で丸まり、小夜がキッチンで洗い物をしている。
窓の外は、もう暗くなっていた。
「……蓮」
「なんだ?」
「今日も、いい一日でした」
「そうか」
雪菜が続けた。
「明日も、こうしていられたら嬉しいです」
「おいおい、毎日聞くのか、それ?」
「そうです! 毎日聞きます!!」
いつかの会話と同じだった。何度目かも分からないくらい、繰り返されている。
それでも、飽きなかった。
蓮は、雪菜の頭に、そっと手を乗せた。
「っ……」
雪菜が、小さく声を漏らした。足元に、また薄く霜が広がりかけたが、今度は自分で慌てて抑え込んでいた。
「……我慢できるようになったな」
「ふふん! 毎日、練習していますので!」
雪菜が、少し誇らしげに言った。
ココアが、膝の上で、小さく寝息を立て始めた。
小夜が、洗い物を終えて、リビングに戻ってきた。
「本日の監視報告書ですが」
「今日はいいのか?」
「いえ、書きます。ただし、本家には送らず、私の手元で保管しておきます」
「……なんでだ?」
「あまりに個人的な記録になってきたため、公的な報告書としての体裁を保てなくなってきました」
小夜が、静かに手帳を開いた。
「『本日、旦那様がお嬢様の頭を撫でられた。お嬢様は幸せそうな顔をされていた。監視対象に、危険な動向は特になし。ただし、この一年で、家中の霜と氷の被害額は看過できない水準に達している。それでも、悪くない眺めだった』」
小夜が、そっと手帳を閉じた。
「以上です」
リビングに、静かな時間が流れた。
蓮は、それを聞きながら、少しだけ思った。
……悪くない眺め、か。
同感だった。
窓の外では、いつも通りの夜が更けていく。
騒がしくて、甘くて、少しだけ凍りついた日常。
それでも、確かに、ここが帰る場所だった。
隠したかった最強の男は、今日も、隠しきれないまま、この場所で生きている。
完




