第22話:胃が痛いメイドと、婚約内定パーティー。 ――こんなに騒がしい実家は、想定していなかった。
神代家本邸、大広間。
夜になる頃には、部屋の様相がすっかり変わっていた。
長テーブルに、次々と料理が並んでいく。神代家お抱えの料理人たちが、次から次へと皿を運んでくる。慌ただしいが、どこか楽しそうな空気だった。
「義弟の婚約祝いだぞ! 出し惜しみするな!」
凍牙が、厨房に向かって叫んでいた。
「お、お兄様、まだ婚約とは決まって……」
雪菜が慌てて訂正しようとしたが、誰も聞いていなかった。
当主が、上座で悠然と座っていた。先ほどまでの張り詰めた空気は消え、どこか機嫌の良さそうな顔をしている。
「烏丸蓮」
「なんだ?」
「今夜は無礼講だ。好きに飲み食いしろ」
「俺は未成年だぞ」
「……そうだったな。では茶で構わん」
当主が、片手を挙げると、すぐに茶が用意された。手際が良すぎる。おそらく、屋敷中の人間がこの婚約話を待ち構えていたのだろう。
小夜が、部屋の隅で静かに控えていた。
「小夜、お前も座れ」
蓮が声をかけると、小夜は珍しく一瞬だけ迷う素振りを見せた。
「……よろしいのですか?」
「いいだろ、別に」
「では、失礼して」
小夜が席についた。控えめに一礼してから、静かにお茶を口にした。
「……美味しゅうございます」
「お前が淹れたんじゃないのか?」
「本邸の茶葉は、いつも少し渋いのです。旦那様の淹れ方の方が、断然」
言ってから、小夜は少しだけ言葉を止めた。
「……申し訳ありません。本邸の茶葉の品評をする立場ではございませんでした」
「別にいいだろ」
小夜が、こめかみを軽く押さえた。頭痛薬を出そうとして、ポケットを探り、途中で手を止めた。蓮は思わず小さく笑ってしまった。
「……本日は、まだ服用しておりませんでした」
「珍しいな」
「はい。実は、珍しく」
小夜が、少しだけ目を細めた。
「今日は、頭が痛くなる出来事がございませんでした」
蓮は特に何も言わなかった。
そういうこともあるらしい。
◇
「義弟よ! 俺のグラスに付き合ってくれ!」
凍牙が、酒瓶片手に迫ってきていた。
「未成年だと言っているのだが……」
「そうだった! すまん、感極まって忘れていた!」
凍牙は代わりに自分のグラスを一気に呷り、蓮の肩をがっしりと掴んだ。
「本当に、良かった……! 雪菜が、あんな顔で笑うのを、俺は初めて見た……!」
雪菜が「お兄様、酔いすぎです……」と顔を赤くした。
「酔ってなどいない! 素面でも同じことを言う!」
凍牙の目に、うっすら涙が浮かんでいた。
蓮は何も言わず、ただ頷いた。それだけで十分だったらしい。
◇
テーブルの下では、ココアが本邸の使用人たちに囲まれていた。
「あら、可愛いワンちゃん……」
「粗相をしてはいけませんよ、ここのお肉、少しあげましょうね」
高級な赤身肉が、次々とココアの前に差し出されていた。ここが世界最高位の魔獣だと、誰も気づいていない。
「わふっ、わふっ!」
すっかり普通のトイプードルとして愛でられている。ソースを口の周りにつけたまま、尻尾が高速で回転していた。
当主が、それを見て小さく笑った。
「良い犬だな」
「……まあ、良い犬だ」
蓮はそれ以上、詳しくは説明しなかった。
◇
大広間の隅、給仕の合間に、本邸の使用人たちが小夜を取り囲んでいた。
「小夜さん、本当にお疲れ様でした……」
年配の女中頭が、しみじみと言った。
「お嬢様のお目付役なんて、うちでも一番の激務だって、みんな言ってたんですよ」
「そこまでではございません」
「いやいや、聞いてますよ。毎日の監視報告書が、その、なんというか……」
若い使用人が、言いにくそうに口ごもった。
「……独特な内容だと」
「ご想像にお任せします」
小夜が、静かにお茶をすすった。
「私も昔、本邸でお嬢様付きをしたことがあるんですけど……」
別の使用人が、遠い目をして言った。
「お嬢様、幼い頃から何でも完璧にこなされる分、ご自分の気持ちを表に出すのが、本当に苦手な方で……」
「存じております」
「それが、あんな顔で笑うようになるなんて」
女中頭が、目元を拭った。
「小夜さんの苦労、報われましたね」
小夜は、少しの間、何も言わなかった。
「……苦労は、今後も続くかと存じます」
「あらあら、そうなの?」
「お嬢様の監視報告書は、今後さらに内容が過激化することが予想されます。私の胃の平穏は、まだ当分訪れません」
一同が、揃って笑った。
「でも」と小夜が続けた。「それも含めて、悪くはない仕事です」
女中頭が、そっと小夜の肩に手を置いた。
「頑張ってくださいね。何かあったら、いつでも本邸に言ってください。お嬢様のことも、あなたのことも、ここではみんな気にかけていますから」
小夜が、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その様子を、少し離れた場所から蓮は見ていた。
小夜が、あんな顔をするのは珍しかった。
◇
女中頭が、思い出したように付け加えた。
「そういえば小夜さん、先日の通信の件、原因がわかったんですよ」
「通信?」
「ほら、雪菜お嬢様への定例連絡です。主語が抜けていた、という」
小夜の目が、僅かに鋭くなった。
「……原因が判明したのですか?」
「はい。担当だった若い子が、内容を聞いて驚きと緊張のあまり噛みすぎてしまって……本来は『顔合わせを、セッティングした』だったのを、途中で『お見合いを』と言い間違えて、しかも主語まで飛ばしてしまったそうで」
「……」
「本人、ものすごく落ち込んでいて。旦那様に叱られると思って震えていたんですけど……」
女中頭が、大広間の方をちらりと見た。当主が上機嫌で凍牙と杯を交わしている。
「結果的に、こんなにめでたいことになったので……もう、いいかなと」
小夜は、しばらく黙っていた。
「……その者は、今どこに」
「厨房で、まだ震えています。よろしければ、お声がけしていただけると」
小夜が立ち上がり、厨房の方へ向かった。
数分後、戻ってきた小夜の手には、皿がひとつ増えていた。
厨房から、若い女中が恐る恐るついてきていた。まだ目に涙が浮かんでいる。
「あの……本当に、申し訳ございません……!」
「結果は、悪くありませんでした」
小夜が、静かに言った。
「今回は、これで良しとします。ただし」
「は、はい!」
「次からは、通信を送る前に一度、内容を読み返す癖をつけなさい。主語のない情報は、時に凶器になります」
「肝に、銘じます……!」
若い女中が、深々と頭を下げた。
小夜はそれ以上、何も言わなかった。ただ、皿の上の料理を彼女の前にそっと差し出した。
「宴です。あなたも、少し食べていきなさい」
「……っ、はい……!」
その一部始終を、蓮は少し離れた場所で見ていた。
……あれが、全部の発端だったのか。
深く考えるのはやめた。
宴もたけなわになった頃、雪菜が蓮の隣にそっと座り直した。
「……蓮様」
「なんだ?」
「今日は、本当にありがとうございました」
「……別に、大したことはしてない」
素っ気ない言葉だったが、声は思ったよりも柔らかかった。雪菜には、それで十分伝わったらしい。
「大したことです」
雪菜が、まっすぐ蓮を見た。
「結界を壊して、お父様と向き合ってくださって……それに、あの……」
言葉が、そこで詰まった。頬が赤くなっていく。
「さっきの、その……好き、って、皆さんの前で……」
「……ああ」
「もう一度、言っていただけますか?」
蓮は、少しだけ間を置いた。ぶっきらぼうに流すこともできたが、雪菜の顔を見て、そうする気にはならなかった。
「……今か?」
「ええ、今です」
「今じゃないとダメか?」
「はい、今じゃないとダメです!」
周囲の喧騒の中で、雪菜だけが、じっと蓮を見つめていた。
蓮は少し考えて、口を開いた。
「……好きだ」
雪菜の顔が、真っ赤に染まった。足元に、また薄く霜が広がった。
「っ……三回目でも、破壊力が全然衰えません……」
「数えてたのか?」
「数えます! 一生数えます!」
宴会場の隅で、それを見ていた小夜が、静かに手帳を取り出した。
「本日の報告書、記入いたします」
「小夜、それは本家用の……」
「本家に提出するのが、本日は一番早いかと存じます」
雪菜が、また崩れ落ちる勢いを見せたが、今度は誰も止めなかった。
◇
夜が更けても、大広間の賑わいは続いていた。
凍牙が上機嫌で歌い出し、当主がそれを苦い顔で見ながらも止めず、使用人たちがココアを撫で続け、小夜が静かに手帳を書き足していく。
蓮は、その騒がしさの中で、少しだけ息をついた。
……こんな実家だとは、思っていなかった。
厳格で、冷たくて、雪菜を縛りつけている家だと聞いていた。
実際に見た当主は、不器用で、忙しすぎて、それでも娘のことをずっと気にかけていた男だった。
隣で、雪菜が幸せそうに笑っていた。
それだけで、十分だった。




