第20話:日本最高峰の結界、デコピンで破滅する。 ――ノックの代わりに、結界が消えた。
神代家本邸。
遠くからでも、それとわかる建物だった。
広大な敷地を、青白い光の膜がドーム状に覆っている。神代の氷結大結界。国家が管理するSSS級ダンジョンの防衛設備と、ほぼ同等の強度を持つとされる代物だ。
蓮は門の前で足を止めた。
小脇に抱えたココアが、鼻をひくつかせた。
「わふ……」
「わかってる。それにしても、デカい結界だな」
見上げるほどの規模だった。門の左右に立つ警備の兵が、こちらに気づいて槍を構える。
「何者だ! 神代家の許可なく――」
言い終わる前に、蓮は結界に指先を向けた。
――【極小火力:点滅消去】。
魔神を消し飛ばした最上位魔術を、爪の先ほどに絞る。
範囲だけを、結界の展開領域全体に合わせる。
出力はほぼゼロ。ただし、対象が「氷結大結界」という一点だけに絞られている。
一秒とかからなかった。
青白い光の膜が、燃えるでも砕けるでもなく――ふっと、存在ごと消えた。
「……は?」
警備の兵が、槍を構えたまま固まった。
「な、何が……結界が……!?」
「今、何をした!?」
「知らん。結界もなくなったし通らせてもらっていいか?」
答えを待たずに、蓮は門をくぐった。
警備の兵二人が、槍を構えたまま動けずにいた。反応が追いついていないらしい。
◇
本邸の奥。
大広間で、当主――神代家現当主・神代冬夜は、腕を組んで座っていた。
雪菜がこの部屋にたどり着くまで、実に半日かかっていた。
父は多忙だった。聖騎士団の統括、他家との折衝、国家会議への出席。屋敷にいる時間の方が短い。「実家へ帰る」と啖呵を切って飛び出したはいいものの、当の相手を捕まえるまでに丸半日、廊下で待ち、秘書に頭を下げ、ようやくこの対面に漕ぎ着けたのだった。
これを逃せば、次はいつになるかわからない。
雪菜は、その前に正座していた。
「私は、烏丸蓮様以外と結婚する気はありません……!」
半日分の緊張と覚悟を、全部そこに込めた声だった。
「お見合いなど、絶対に受けません……! たとえ勘当されても構いません……!」
当主は、しばらく黙って娘を見ていた。
表情を変えずに座っている。ただ、組んだ腕の指先が、ほんのわずかに揺れていた。
「……雪菜」
「なんですか?」
「お前、いつからそんなに――」
当主の声が、一瞬詰まった。
言葉を選んでいるようにも、続きをどう出すべきか迷っているようにも見えた。長年、娘とまともに顔を合わせる時間さえ取れなかった父親の、不慣れな間だった。
雪菜の肩から、少しだけ力が抜けた。
強張っていた表情が、ほんのわずかに緩む。父の言葉が途切れたことに、何か感じ取ったらしかった。
その時だった。
ズン、と地面が揺れた。
「……っ、何事だ」
当主が立ち上がった。
窓の外で、警備兵たちの怒声が響いていた。「侵入者だ! 結界が――」「なぜ、結界が消えて――」
雪菜の顔が、さっと青ざめた。
「まさか……この屋敷に敵襲……!?」
違う、と誰も訂正しなかった。ある意味敵襲に近いことだった。
大広間の扉が、開いた。
「よお、雪菜。帰るぞ」
小脇にトイプードルを抱えた男が、平然と立っていた。
「……蓮様!?」
雪菜が跳び上がった。
一瞬前まで張り詰めていた顔が、ぱっと安堵に緩んだ。かと思うと、視線が父と蓮の間を往復した瞬間、今度は青ざめた。
「な、なんで……! ここ、神代の氷結大結界のはず……! SSS級ハンターでも突破は不可能なはずじゃ……!」
「知らん。ちょっと触ったら、結界がなくなったから歩いてきた」
「まさか消したんですか!? 消えたんじゃなくて、消したんですか!?」
「たぶん、そうだな」
「たぶんって……!」
雪菜の顔が、青ざめたり赤くなったりを忙しく繰り返していた。父の反応をうかがい、蓮の様子をうかがい、また父を見る。落ち着かない視線だった。
当主が、蓮を見据えた。
指先が、肘掛けをきつく握っていた。声だけは、なんとか平静を保っている。
「……貴様が、烏丸蓮か?」
「そうだ」
「神代家の結界を、無断で破壊したこと、わかっているのか?」
「壊す気はなかった。ちょっと消しただけだ」
「同じことだ!」
当主の声が、思ったより大きく響いた。言ってから、自分でもそれに気づいたのか、一拍置いて咳払いをした。周囲の空気が、一段冷えた。娘と同じ属性らしい。
雪菜は、その一喝にびくりと肩を震わせた。それから、心配そうに蓮の方をちらりと見た。
「雪菜を迎えに来た、ということか?」
「そうだ」
蓮は、それ以上何も付け加えなかった。理由も説明も、特に用意していなかった。
当主が、蓮をじっと見た。値踏みするような、値踏み以上の何かを含んだ目だった。
「……ふん」
しばらくの沈黙のあと、当主は言った。
「今すぐこの場で、話を――」
「お父様! おやめください!」
雪菜が、蓮と父の間に割って入るように立った。表情は必死そのものだった。
「蓮様は、私が無理を言って巻き込んだだけです! この方に非はありません!」
「……無理を言った、とは?」
「実家からの連絡を、私が勝手に早とちりして……!」
当主の眉が、動いた。
「早とちり……とは、どういうことだ?」
雪菜が言葉に詰まった。説明しようとして、うまく言葉にならないらしかった。目が泳ぎ、顔が赤くなっていく。うまく説明できる自信がまるでない、という顔だった。
小脇のココアが、当主に向かって「わふっ」と一声鳴いた。挨拶なのか威嚇なのか、判断がつかない声だった。
当主の視線が、ココアに移った。
「……その犬は?」
「ただの犬だ」
「ただの犬、にしては覇気がー――」
「気のせいだ」
当主はしばらくココアを見ていたが、それ以上は追及しなかった。何かを察したのか、あるいは深入りしないことを選んだのか。
大広間に、しんとした空気が流れた。
雪菜が、蓮と父親を交互に見た。
「あの……お父様。単刀直入にお聞きします」
雪菜が、深呼吸した。緊張で声が震えていた。
「私に、お見合いをセッティングしたというのは、本当ですか?」
当主が、静かに答えた。目を合わせるのを、一瞬だけ避けた。
「それは本当だ」
雪菜の顔から、血の気が引いた。
さっきまでかろうじて繋ぎ止めていた望みが、音を立てて崩れていく。
「……っ、やはり……!」
「相手についても、話しておきたかったのだがな」
当主が、そこで初めて、蓮の方をちらりと見た。目が合うと、気まずそうにまた逸らした。
「先に暴れられては、話が進まん」
蓮は、何も答えなかった。
ただ、何かが噛み合っていない気がした。
雪菜は涙目のまま、まだ気づいていなかった。絶望と混乱が同時に押し寄せて、他のことを考える余裕がなくなっていた。
「お父様……! 相手が誰であろうと、私は……!」
「雪菜!」
当主が、ため息まじりに言った。
「少し、落ち着け」
大広間の外で、警備兵たちがまだ「結界が……結界が……」と騒いでいた。
その声だけが、しばらく響いていた。




