第19話:お留守番のココアと、連れ戻しを決意する炎。 ――静かな部屋が、こんなに落ち着かないとは思わなかった。
月曜の朝。
雪菜のいない部屋は、静かだった。
静かすぎた。
蓮は台所に立って、いつも通り朝食の準備をしていた。パンを焼き、卵を焼き、お茶を淹れる。手順は昨日までと変わらない。
ただ、いつもならここで「蓮様、おはようございますっ……!」という声が飛んでくる。
飛んでこなかった。
ソファの上で、ココアが丸まったまま、まったく動かなかった。
「……ココア、飯だぞ」
顔だけ上げた。目に生気がなかった。
「わぅ……」
短く鳴いて、また顔を伏せた。
「……食べないのか?」
「わぅ……」
いつもなら真っ先に飛んでくる。今日は皿を差し出しても、匂いを嗅ぐだけで動かなかった。
小夜がキッチンの隅で、静かにそれを見ていた。
「……ココア様も、寂しいのだと思います」
「そうか……」
「旦那様は違うのですか?」
「……別に」
小夜が何も言わずに、こめかみを押さえた。たぶん、蓮の嘘に気が付いているのだ。
テーブルの上に、あの置き手紙がまだ置いてあった。
『実家のお見合いを、ぶっ壊してきます。私は蓮様のものだと、証明してきます。』
何度読んでも、内容が意味不明だった。
登校の準備をしながら、蓮はふと玄関を見た。
いつもなら、そこに雪菜がいる。ブレザーの袖を握って、「蓮様、今日もご一緒できて光栄です……!」とやる。
誰もいなかった。
靴を履いて、ドアを開けた。
外の空気が、いつもより少しだけ、冷たく感じた気がした。
◇
学校でも、それは続いた。
「……烏丸、今日静かだな」
健吾が、隣の席から声をかけてきた。
「そうか?」
「いつもより輪をかけて静かっていうか……テンション低いっていうか」
「元々低いぞ」
「いや、いつもの低いのとは種類が違う気がする」
健吾が窓際の席を見た。
「そういや、神代さんもいないな。休みか?」
「……ああ」
「珍しいな。あの人、皆勤賞キープしてそうなのに。なんかあったのか?」
「……風邪」
咄嗟に出た言葉だった。実家に殴り込んでます、とは言えない。
「風邪ぇ? あの神代さんが?」
健吾が本気で驚いた顔をした。周りの席からも、ちらほらと視線が集まってくる。誰もが「監視(同棲)」の件をすでに知っているクラスだ。神代さんの体調は、もう他人事ではなかった。
「……大丈夫なのか、神代さん」
前の席の女子が振り返った。
「熱とか出てるの?」
「……まあ」
「え、それお見舞い行った方が良くない?」
「ひ、必要ない、と思うぞ」
「でも同じ家に住んでるんでしょ? 看病してあげなくていいの?」
蓮は少し詰まった。
「……看病はしてる」
「本当に? 何食べさせてるの?」
「……お粥とか。優秀なメイドさんが付いているんだ」
咄嗟に答えた。完全に嘘ではないが、我ながら苦しい説明だった。
新聞部が、いつの間にか近くまで来ていた。
「烏丸くん、神代さんの容態、詳しく聞かせてもらえますか?」
「……大したことない」
「大したことないなら、私たちがお見舞いに行っても平気ってことですよね?」
「っ……」
一気に不味くなった。実家に本人はいない。行かれたら終わりだ。
「……今日は、休ませた方がいい」
「じゃあ明日は?」
「……明日も」
「明後日は?」
健吾まで会話に加わってきた。
「烏丸、お前、神代さんの部屋にみんなで押しかけたら困るのか?」
「……困る」
「即答だな……なんか隠してないか?」
「……。隠してない」
健吾が目を細めた。
「今、間があったよな?」
「気のせいだろ」
女子生徒たちが顔を見合わせた。
「……ねえ、なんか変だよね」
「うん、烏丸くんの様子、いつもと違う」
「もしかして神代さんの方が、烏丸くんに会いたくないくらい重症なんじゃ……」
「そ、そういうことではない。でもゆっくりさせてあげたいんだ」
会話が、勝手に望ましい方向へ転がっていった。渡りに船だった。
「そっか……それなら仕方ないね」
「早く良くなるといいですね」
「……ああ」
危機は去った。健吾だけが、まだ何か言いたそうな顔で蓮を見ていたが、それ以上は追及してこなかった。
窓際の席が、ぽっかり空いていた。
昼休み。弁当を開いても、いつもの半分の速さで箸が進んだ。
「……お前、ほんとにどうした?」
健吾が心配そうに顔を覗き込んできた。
「別に何もない」
「絶対何かあるだろ?」
「ない」
健吾は納得していない顔をしていたが、それ以上は聞いてこなかった。あいつなりの気の遣い方だった。
放課後、教室を出るとき、廊下の窓から外を見た。
昨日までなら、正門のあたりで凍牙が待ち構えていることもあった。今日は誰もいなかった。
……静かだ。
静かなのが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。
◇
家に帰ると、ココアがまだソファで丸まっていた。
朝と同じ姿勢だった。皿の中身も、ほとんど減っていない。
「……まだ食ってないのか?」
蓮はソファの前に膝をついた。ココアが薄目を開けて、蓮を見た。
「わぅ……」
甘えるでもなく、ただ小さく鳴いただけだった。
小夜がキッチンから出てきた。
「旦那様。ココア様は昨夜からずっとこの調子です」
「……そうか」
「お食事も、ほとんど召し上がっておりません」
小夜がエプロンのポケットから手帳を取り出した。書き込みながら言う。
「本家からの追加連絡は、いまだございません」
「……何も?」
「はい。通常であれば、あれだけの断片情報の後には、訂正か補足の連絡が入るはずなのですが」
蓮は少し考えた。
ソファの上のココアを見た。皿の中身をもう一度見た。テーブルの上の置き手紙を、もう一度手に取った。
『私は蓮様のものだと、証明してきます。』
……何をどう証明するつもりなのか、いまだにわからない。
わからないが……。
「……小夜」
「はい」
「神代家の本邸は、どこにあるんだ?」
小夜の手が、一瞬止まった。
「……お迎えに行かれますか?」
「まあ……。さすがに、な」
それだけ答えた。
小夜は少しの間、蓮を見ていた。それから、静かに頷いた。
「本邸の場所は、把握しております。ただ、旦那様」
「なんだ?」
「あそこは、神代の氷結大結界に守られております。SSS級ハンターでも、正面から突破するのは容易ではないかと」
蓮は特に反応しなかった。
「……まあ、なんとかなるだろう」
小夜がまたこめかみを押さえた。今度は頭痛薬を出さなかった。すでに慣れたのかもしれない。
ソファの上で、ココアがゆっくりと顔を上げた。
「わふ……?」
蓮が動く気配を察したのか、耳が少しだけ立っていた。
「ココア、行くぞ」
「わふっ!」
一瞬で、さっきまでの死んだ目が嘘のように輝いた。ソファから飛び降り、玄関に向かって全力で駆けていく。
「……現金だな」
「わふわふっ!」
否定しなかった。
小夜が玄関先まで見送りに来た。
「旦那様」
「なんだ?」
「お嬢様は、きっと喜ばれると思います」
「……そうか」
小夜がわずかに――本当にわずかに、口の端を緩めた。
「ただし、神代家の当主は、それなりに頑固な方です。娘を溺愛する一方で、家としての体面を重んじるところがございますので」
「そうか」
「向こうでの粗相は、あまりお勧めできません」
「粗相はしないつもりだ」
小夜が静かに続けた。
「結界を壊すのは粗相に含まれませんか?」
「……状況によるだろ」
小夜は何も言わなかった。ただ、静かに一礼した。
「いってらっしゃいませ」
玄関のドアを開けた。
ココアを小脇に抱えて、蓮は外に出た。
夕暮れの空だった。
「……あいつ、何をどう証明するつもりなんだか?」
独り言のつもりだった。誰も聞いていなかった。
抱えたココアが、「わふっ」と応えるように鳴いた。
蓮は歩き出した。
行き先は、神代家本邸。
日本最高峰の結界に守られた、SSS級ハンターでも突破不可能とされる場所だった。




