第18話:風の盗聴(悲劇の始まり)。 ――伝説のメイドにも、聞き逃しはある。
日曜の夜。
リビングで、小夜が窓際に立っていた。
目を閉じて、何かに耳を澄ませている。風の膜を薄く広げ、遠く離れた場所の音を拾う――【風】の遠隔盗聴。戦闘メイド協会でも上位数名しか扱えない技術だ。
「……小夜、何してるんだ?」
「本家の定例連絡を傍受しております」
「わざわざ盗聴するものなのか、それ?」
「本家からの連絡は、私宛てより先に、なぜか風の噂で回ってくることが多いのです。ですので、先に把握しておいた方が、後の対応が早くなります」
慣れた作業らしかった。
雪菜はソファで、蓮の隣に体半分寄りかかりながら、うとうとしかけていた。ココアは膝の上で丸まっている。日曜の夜特有の、気の抜けた空気だった。
小夜の眉が、わずかに動いた。
「……」
集中している。風がかすかに揺れる音がした。
「……雪菜……」
「……?」
雪菜がぴくりと反応した。目は開けていない。
「……実家へ、連れ戻し……」
雪菜の肩が、はっきりと強張った。
「お見合い、を……セッティング、した……」
そこで、風がふっと止んだ。
小夜が目を開けた。
「……電波障害でしょうか。ここで途切れました」
リビングが、静まり返った。
雪菜が、目を大きく見開いたまま固まっていた。
「……小夜」
「はい」
「今の、もう一度、お願いできますか……?」
「『雪菜』『実家へ、連れ戻し』『お見合いを、セッティングした』。以上でございます」
雪菜の顔から、すっと色が引いていった。
「……っ」
蓮は特に反応しなかった。
「……主語がないな?」
「はい。何分、電波の状態が悪く」
「誰が誰を連れ戻すのかも書いてないし、お見合いの相手も書いてないぞ?」
「はい」
蓮はこめかみを押さえたくなった。
「情報として成立してるか、それ?」
「本来であれば、追加の通信を待つべきところです」
小夜がこめかみを軽く押さえた。
「ただ、頻度から考えますと、通常業務連絡の類ではなく――」
雪菜が、両手で顔を覆った。
「……っ……お見合い……」
震える声だった。
「……お父様……とうとう、私を蓮様から引き剥がすつもりなんですね……!」
蓮は「いや、待て」と言おうとした。
「わ、わかっていました……いつかこうなるって……! 神代の娘が、一般ランクの人間と……その、こんな暮らしをしているなんて、家として許されるはずが……!」
「雪菜」
「私、決着をつけてきます……!」
雪菜が、勢いよく立ち上がった。ソファの上でココアが「わふっ!?」と驚いて跳ね起きた。
「実家に戻って、お父様に直接お伝えします。私は烏丸蓮様以外と結婚する気はありません、と……! お見合いなんて、絶対に受けません……!」
「いや、そもそも――」
「蓮様に、これ以上ご迷惑はおかけできません……! 神代家の事情に巻き込むわけには……!」
止める間もなかった。
雪菜が寝室に駆け込み、数分後、旅行用のスーツケースを引きずって戻ってきた。準備が速すぎる。おそらく普段からいつでも実家に殴り込める体制を整えていたのだろう。
「小夜、蓮様のことをお願いします……!」
「お嬢様、落ち着いて――」
「無理です! 落ち着いていられません……!」
小夜が珍しく、言葉を挟む隙を与えられずにいた。
雪菜は玄関へ向かいながら、テーブルの上のメモ用紙を一枚取り、何かを走り書きした。
「……」
書き終えた紙を、蓮の前にそっと置いた。
『実家のお見合いを、ぶっ壊してきます。私は蓮様のものだと、証明してきます。』
「……いや、ちょっと待て」
蓮が口を開いたときには、もう玄関のドアが閉まる音がしていた。
リビングに、蓮とココアと小夜だけが残された。
ココアが、閉まったドアを見つめて「わぅ……」と小さく鳴いた。
蓮は、テーブルの上の置き手紙を、もう一度読んだ。
「……証明、って何をするつもりだ?」
「私にもわかりかねます」
小夜が静かに答えた。
「なお、旦那様」
「なんだ?」
「先ほどの通信ですが……」
小夜がエプロンのポケットから頭痛薬を取り出した。一錠、口に含む。
「風の魔力による長距離盗聴は、私の技術の中でも精度が高い部類です。聞き逃しは、まず起こりません」
「……つまり?」
「主語が本当に存在しなかった可能性が、高いということです」
蓮は、しばらく黙っていた。
「……つまり、あれだけの情報で実家に帰ったのか、あいつ?」
「はい」
「主語もない、断片だけの情報で?」
「はい。お嬢様は昔から、そういうところがございます」
小夜がもう一錠、頭痛薬を追加した。その言葉、なんだかすごく納得感と説得力があった。
ココアが蓮の膝に飛び乗り、心配そうに見上げてきた。
「わふ……」
「……ああ、わかってる」
蓮はメモを見た。
『私は蓮様のものだと、証明してきます。』
……何をどう証明する気なのか、まったく想像がつかなかった。
窓の外は、もう夜だった。
リビングに、静かな時間が戻っていた。ただし今日は、いつもよりずっと広く感じられた。
「……小夜」
「はい」
「本家の連絡先、わかるか?」
「もちろんです」
小夜が、静かに手帳を開いた。
「明日にでも、確認のご連絡を差し上げますか?」
「いや」
蓮は、置き手紙を折りたたんで、ポケットにしまった。
「本人が向かったなら、それでいい」
ただし。
「……それにしても、あいつ、一人で何を仕掛ける気だ?」
小夜が答えなかった。答えられなかったのかもしれない。
ココアが「わぅ」ともう一度鳴いて、蓮の膝の上でぐるぐると丸くなった。いつもより、心なしか小さく見えた。
土曜からの穏やかな空気は、日曜の夜にあっさりと崩れていった。
リビングの明かりだけが、いつもより静かに点いていた。




