第17話:雨の日のアパート、穏やかな停滞。 ――何もない一日が、一番大切だと気づいた。
土曜日の朝から、雨だった。
窓を叩く音が、ずっと続いていた。
凍牙から「今日は仕事が入った、すまない義弟よ」という連絡が来ていた。蓮は「来なくていい」と返した。凍牙から「冷たい……!!」と返ってきたが、読まなかった。
リビングに、人の声がなかった。
雪菜がソファの端に座って、本を読んでいた。
ココアが蓮の膝の上で丸くなっていた。
小夜がキッチンで、静かにお茶の準備をしていた。
それだけだった。
蓮はテキストを広げていたが、特に読んでいなかった。
雨の音が聞こえる。
ココアの重さが膝にある。
雪菜がページをめくる音がする。
小夜がキッチンで何かを準備する、かすかな音がする。
それだけで、リビングが満ちている気がした。
騒がしくない。凍牙もいない。怪異も来ない。世界最強も、国家最高峰の聖騎士も、伝説のメイドも、今日はただここにいるだけだ。
こういう日があっていい、と思った。
小夜がお茶を持ってきた。蓮の前に、雪菜の前に、静かに置いていく。
「ありがとうございます……」と雪菜が本から目を離さずに言った。
小夜が「どういたしまして」と答えて、またキッチンに戻っていった。
蓮はお茶を一口飲んだ。適温だった。
今週のことを、思い出した。
月曜日、教室が凍って、雪菜が床でごろごろしていた。クラスが爆発して、健吾が青い顔をしていた。新聞部がメモ帳を閉じていた。木曜日には、一条院に詰め寄られた雪菜が「監視」まで口走りかけて、昇降口に人だかりができた。
……あの時は、さすがに肝が冷えた。
手を引いて、その場を離れるしかなかった。
火曜と金曜は、特に何もなかった。それでも、廊下ですれ違うたびにクラスメイトの目線がうるさかった。
……あいつは、本当によく気がつく。
疲れて帰ってきた日、何も言わなくても温かい麦茶を出してくる。ココアの機嫌が悪い日は、誰よりも早く気づいて構ってやる。小夜が根を詰めすぎている時、口には出さずにそっとお茶を差し入れる。誰かのために動くことに、迷いがない。
そのくせ、肝心なところで詰めが甘い。
隠すべきところで隠せず、黙るべきところで喋ってしまう。目付役の小夜が胃を痛める理由もよくわかる。危なっかしくて、目が離せない。
ただ、それを面倒だと思ったことは、一度もなかった。
気づけば、この一ヶ月で、誰かの機嫌に気を配ることも、迂闊な失言に肝を冷やすことも、凍った床を直しながら小言を言うことも――全部、当たり前の日常になっていた。
世界最強と呼ばれた頃には、誰かのために肝を冷やすことなど、なかった。
……それだけじゃない。
雪菜は、誤魔化すということを知らない。好きだと言えば好きだと顔に出るし、寂しいと思えば寂しいと言う。駆け引きも計算もなく、ただまっすぐにぶつけてくる。
蓮様、蓮様と。迂闊なくらい、素直に。
そういう不器用なまっすぐさに、いつの間にか絆されていた。抗う理由も、特に見当たらなかった。
――……まあ、やっぱり好きなんだろうな、蓮も雪菜のこと。
認めてしまうと、拍子抜けするくらい簡単なことだった。
今は、何もない。雨の音だけがある。
ココアがうっすら目を開けて、また閉じた。
昼前、小夜が雑炊を運んできた。雨の日に合っていた。
四人で静かに食べた。
雪菜が「美味しいです……」と小声で言った。小夜が「ありがとうございます」と静かに答えた。ココアが器の前で行儀よく座って、しっぽだけゆっくり振っていた。
「雨、まだ止まなそうですね」と雪菜が窓を見た。
「そうだな」
「……いいですね、こういう日」
蓮は答えなかった。否定もしなかった。
食べ終わって、また元の場所に戻った。雪菜がソファに座って本を開く。ココアが蓮の膝に戻る。小夜がキッチンを片付ける。
同じ場所に、同じ人間がいる。それだけのことが、なぜかずっと続いてほしいと思った。
午後、雪菜がいつの間にかソファで本を胸に抱えたまま、うとうとしていた。
ページが半分で止まっている。寝顔は、学校での氷の聖騎士でも、家での重度のワンコでもない。ただ静かな、年相応の顔だった。
小夜がそっとブランケットを掛けた。物音ひとつ立てずに、完璧な所作で。
それから、蓮の隣に静かに立った。
「……旦那様も、少しお休みになりますか?」
蓮は答えなかった。
小夜が「……そうですね」と言って、キッチンに戻っていった。
一人で完結させていた。
何を「そうですね」と言ったのか、蓮は聞かなかった。聞かなくてもわかる気がした。
ココアが膝の上でもぞりと動いて、また落ち着いた。
「……静かだな」
独り言のつもりだったが、雪菜が薄目を開けた。
「……はい」
また目を閉じた。
これが守りたいものだ、と思った。世界最強だとか、SSS級だとか、そういうことではなく。ただ、この雨の日のリビングが、この場所が、続いてほしいと思った。
夕方になって、雪菜が目を覚ました。
「っ……! す、すみません、寝てしまって……!」
「別にいい」
「でも……!」
「別にいい」
雪菜が「……はい」と言って、耳を赤くした。
それから、少し間があって。
「あの、蓮様」
「なんだ?」
「今週の、学校でのことなんですが……」
雪菜が言いにくそうに視線を逸らした。
「小夜には……その、報告していないので……」
キッチンから、小夜が顔を出した。
「存じております」
雪菜が固まった。
「……っ、な、なんで……!?」
「学校には時折参りますので」
「昨日も来てたんですか……!?」
「はい」
雪菜の顔が青ざめていった。
「全部……? 全部見てたの?」
「ええ、全部です」
雪菜が両手で顔を覆った。しばらく動かなかった。
「……確認なんですが」
「はい」
「……床でごろごろしていたところも?」
「はい」
雪菜の声が、次第に小さくなっていく。
「……蓮様が、まあそうだとおっしゃったところも?」
「はい」
「……私が凍らせながら収まらなかったところも?」
「はい」
小夜は、表情ひとつ変えずに手帳を見つめていた。
「……木曜日の、昇降口のことも……?」
「はい」
雪菜がまた黙った。
「……全部ですね」
「全部です」
小夜がこめかみを押さえた。
「なお、本日の監視報告書ですが……」
雪菜がはっとした。
「……書けましたか?」と蓮が聞いた。
小夜が、雪菜を見た。雪菜が、目を逸らした。
「……本日分は、白紙でございます」
蓮が「そうか」と言った。
「お嬢様が白紙で提出されたのは、同棲開始以来初めてのことです」
「……すみません」
「何をどう書けばよいかわからなかったのでしょうか?」
「……はい」
「では」と小夜が静かに言った。「それが答えではないでしょうか?」
雪菜が「……っ」と声を詰まらせた。
小夜がエプロンのポケットから頭痛薬を取り出した。一錠、口に含んだ。
「本日は以上です」
キッチンに戻っていった。
ココアがソファの上で、ふわりと伸びをした。
雨の音が、窓を叩き続けていた。
蓮は「……床を凍らせるなよ」と言った。
「……凍らせませんわ」と雪菜が言った。声が、かすかに震えていた。
霜は、走らなかった。
それだけの、土曜日だった。




