第16話:知らぬが仏、特待生の最終アタック。 ――手を引かれた瞬間、氷の聖騎士は完全に沈黙した。
木曜の放課後。
クラスには箝口令が敷かれて、もう三日が経っていた。新聞部がメモ帳を閉じたあの日から、誰も口を割っていない。廊下ですれ違うたびに向けられるクラスメイトの生温かい視線だけが、唯一の後遺症だった。
だから、その男が何も知らないのは、当然といえば当然だった。
「神代さん」
昇降口の前で、爽やかな声が響いた。
一条院だ。値踏みするような目はいつも通りで、今日はやけに自信ありげだった。
「今度の週末、特待生合同の演習があるんだけど。僕と組まないか?」
雪菜が振り返る。学校での顔だ。完璧な無表情。
「お断りします」
「相変わらず冷たいな。……でも今日はしつこく聞くよ。理由を教えてくれないか?」
いつもならここで終わる。一条院も、これ以上は踏み込まない男だった。
けれど今日は違った。
「蓮様と同棲していますので、無理です」
雪菜の口から、あまりにも自然に、それが出た。
「……蓮様?」
一条院が首をかしげた。
聞き覚えのない名前だった。彼の中で「烏丸蓮」という一般ランクの生徒は、そもそも意識の外にいる。存在すら数えていない相手だ。だから「蓮様」と言われても、まったく結びつかなかった。
「誰だそれ。……いや、それより同棲って言ったよな、今」
一条院の声から、余裕が抜け落ちていく。
「誰かと、住んでるってことか? なんで、いつから――」
「そ、それは……その……」
雪菜の視線が泳いだ。まずいと思っているのが誰の目にも明らかだった。だが止まらなかった。
「か……監視、で……」
「監視?」
一条院が眉をひそめた。
「意味がわからない。誰を、なんで監視してるんだ」
雪菜が答えに詰まった。当然だ。答えられるはずがない。
その頃には、周囲に人だかりができ始めていた。
「……なあ、今の聞いた?」
「神代さんが同棲って……」
「誰と?」
「一条院くんも本気で聞いてるし……」
昇降口を通りかかった生徒たちが、足を止めて輪を作っていく。箝口令を守っていたクラスメイトたちまでもが、遠巻きにハラハラした顔で成り行きを見守っていた。
蓮は少し離れた場所で、その空気を見ていた。
……人が増えてる。これ以上長引かせるとまずい。
「蓮様」呼びの正体に、誰かが気づくのは時間の問題だ。判断は早かった。雪菜の手を掴む。
「行くぞ」
「っ……!?」
一条院の言葉が途切れた。雪菜が、その場で完全に固まった。
蓮はそのまま歩き出した。人だかりの間を割るように。
「あ、あの……ちょっと待って、話が――」
一条院の声は、届かなかった。届く距離ではなくなっていた。
「っ……っ……て、手……手が……!」
雪菜の声が裏返っていた。
「監視の話はもういい」
「そ、そうじゃなくて……! 手が、手を、繋がれて……!」
「握っただけだ」
「わ、私にとっては同じことです……!!」
足元から、白いものが広がり始めた。
「……つ、次は何を聞かれても、何も答えられなくなりそうです……っ」
「じゃあ黙ってろ」
「無理です……! 頭が……蓮様の手の感触しか考えられなくて……!」
昇降口のタイルが、じわじわと凍っていく。
残された人だかりの中で、一条院はしばらく立ち尽くしていた。
手を引かれて連れ去られる雪菜。取り残される自分。何が起きたのか、理屈では追いつくのに、感覚がまだ拒否していた。
「……同棲」
呟いてみる。実感が湧かない。
「……監視」
もう一度呟いてみる。もっと実感が湧かない。
そして、決定的だったのは……。
手を引かれた瞬間の、雪菜の顔だった。
いつもの氷の無表情ではなかった。作られた冷たさでもなかった。ただ、完全に、何もかもを持っていかれた顔だった。
一条院は、それが何なのか、理屈より先に理解してしまった。
「……ああ」
誰に言うでもなく、声が漏れた。
「……勝ち負けの話じゃ、なかったのか?」
昇降口に、しばらく立ち尽くしていた。
「一条院、よ」
肩を叩かれて振り返ると、健吾が立っていた。気の毒そうな顔をしている。
「見てたのか?」
「まあ、な」
健吾はしばらく言葉を選ぶような間を置いてから、静かに言った。
「……お前が気づくの、遅いんだよ」
一条院は何も言い返せなかった。
「監視……危険分子……とか言ってたけど」
「ああ、それも聞こえた」
「なんだったんだ、あれは?」
健吾が首を横に振った。その後ろには何人かのクラスの女子生徒が同じように首を振っている。
「知らん。俺らも詳しいことは知らない」
「お前は平気なのか、それで」
「平気じゃないから遺言のことを本気で考えてる」
一条院はその答えの意味がまったくわからなかったが、これ以上聞く気力もなかった。
昇降口の床には、二人が去った方向に向かって、うっすらと霜の足跡が残っていた。
――――
少し離れた渡り廊下の窓際。
その一部始終を、気配もなく見ていた者がいた。
荒木小夜。
手帳を取り出し、何かを書き留める。
「……『監視』というワードが、人だかりの前で漏れた、と」
ページをめくる手が、一瞬止まった。
「本日分の報告書に、新たな項目を追加する必要がありますね」
こめかみを軽く押さえた。
「お嬢様……もう少し、慎重さというものを……」
エプロンのポケットから、頭痛薬の小瓶を取り出す。すでに残りが少なかった。
一粒を口に含みかけて、しかし。
手が、ふと止まった。
小夜の視線の先には、蓮に手を引かれながら、それでも赤い顔のまま懸命についていく雪菜の背中があった。
家では見せたことのない、けれど確かに幸せそうな背中だった。
「……」
小夜はしばらくそれを見ていた。
頭痛薬を、結局飲まずにポケットへ戻した。
「……まあ、よろしいでしょう」
口の端が、ほんのわずかに緩んだ。
それも一瞬で、すぐにいつもの無表情に戻る。
「常備薬の増量申請だけは、しておきますが」
静かに呟き、小夜は誰にも気づかれないまま、その場を後にした。




