第13話:炙りカルビの和解、そして義弟への昇格。 ――手のひらを返す速度だけは、国内最速だった。
リビングの床に、凍牙はまだいた。
頭が下がりきった姿勢で、何も言わない。雪菜が「お兄様……?」と覗き込んでも「……少し待ってくれ」と手で制するだけだ。
蓮は冷蔵庫を開けた。
今週の特売カルビが残っていた。金曜の夜に買ってきた分の、最後の一パックだ。
「飯でも食うか?」
凍牙が顔を上げた。
「……食う気分ではない」
「そうか、残念だ」
蓮はフライパンを出した。
「……なんで出すんだ?」
「作るからだ」
「だから食わないと言って――」
凍牙の腹が、鳴った。
リビングが静かになった。
雪菜が「……お兄様」と言った。
凍牙が「……黙っててくれ」と言った。
小夜がエプロンのポケットに手を入れた。頭痛薬ではなく、手帳だった。何かを書き足している。
蓮はカルビをフライパンに並べた。
指先を向ける。
――【極小火力:均一照射】。
肉の繊維一本一本に、最適な熱を通していく。表面に完璧な焼き色をつけながら、内側はとろけるジューシーさで止める。余分な脂だけを飛ばし、旨味を閉じ込める。
四十秒。
「……なんか、いい匂いがするんだが」
凍牙が床から半身を起こした。
「気のせいだ」
「気のせいじゃない……! あからさまにいい匂いがしている……!」
「そうか」
皿に盛って、テーブルに置いた。
凍牙が「……食わないからな」と言いながら、テーブルの椅子に座った。
「食わなくていい、ってことでいいんだな。じゃぁ、雪菜、ご飯にしよう」
隣に雪菜が座った。
「はい、いただきます……!」
躊躇がなかった。
一口食べた瞬間、雪菜の顔がとろけた。
「……っ、美味しい……! 蓮様のカルビ、やっぱり世界で一番美味しいです……!!」
ココアがソファからトタトタと降りてきた。テーブルの横で前足を揃えて座り、上目遣いで蓮を見た。
「わふっ」
蓮が小さく切った肉片を置いてやった。ココアがぱくりと食べ、尻尾が高速回転した。
凍牙が皿を見た。湯気の立つカルビが、完璧な焼き色で並んでいる。
幸せそうに食べる雪菜がいる。満足そうに尻尾を振る魔獣がいる。
「……食わないからな」
誰も聞いていなかった。目がなぜか泳いでいる。
「いい加減、我慢はよしたほうがいいぞ」
差し出された肉を前に、ついに凍牙は箸を取った。
一口、食べた。
「っ……!」
凍牙の目が、見開かれた。
もう一口。また一口。
テーブルの上に、雫が落ちた。
「……なんで、泣いてるんだ、俺……」
雪菜が「お兄様……!」と息を呑んだ。
「違う、これは……美味すぎて、思わず……! なんだこの肉は……! 外はしっかり焼けているのに、中がとろけて……こんな炙り方、見たことがない……!」
「炎の火力調整だ」
「炎で……!? 魔術で肉を焼いたのか……!? どこの高級店の技術だ……!?」
蓮がフライパンを片付けながら、特売カルビのパッケージをゴミ箱に捨てた。
凍牙の目が、それを追った。
「……今の、何と書いてあった?」
「特売カルビ。冷凍品だ。金曜の半額セールで買った」
凍牙が固まった。
「……半額?」
「ああ」
「……冷凍?」
「ああ」
凍牙が、放心した様子で呟いた。
「……それで俺は今、泣いていたのか!?」
「そうだな」
雪菜が「蓮様の腕前があれば、どんなお肉も最高になりますので……!!」と誇らしそうに言った。
ココアが「わふっ」と鳴いた。全面同意、という顔だった。
凍牙がまた遠い目をした。
それからもう一口食べた。
また泣いた。
「……神代家の料理人が十人いても、これは作れない」
「そうか」
「半額の冷凍肉で、なぜこうなる……」
「炎の使い方だ、といっただろう」
「……そう、なのか? 信じがたい……」
凍牙が深呼吸した。それから部屋を見回した。
蓮がソファに戻っている。その隣に、雪菜が当然のように寄り添っている。
雪菜の肩に、じんわりとした温かさが漂っていた。炎の魔力だ。蓮が、雪菜の周囲の温度をわずかに上げている。雪菜は冷え性で、冬場は手先が冷たくなりやすい。
雪菜がそれに気づいているのかいないのか、ただ幸せそうに目を細めていた。
凍牙が、箸を置いた。
しばらく、黙って雪菜を見ていた。
凍牙の目に、何か違う色が混じった。
雪菜は小さい頃から剣を磨き続けてきた。SS級になったのは才能だけじゃない。凍牙はそれを知っている。あいつがずっと、誰かのために強くなろうとしてきたことを。
雪菜が視線に気づいた。
「……お兄様、それ以上は言わないでください」
声に、かすかに刃が混じっていた。
凍牙はそれ以上言わなかった。
「……烏丸」
「なんだ?」
「お前、雪菜のことを、ちゃんと好きか?」
テーブルの向こうで、雪菜の動きが止まった。
「……まあ」
「まあ、って何だ、まあって」
「そういうことだ」
「っ……っっっ……!!」
雪菜が両手で顔を覆った。足元のフローリングに霜が一気に広がった。耳まで赤い。
「れ、蓮様が……っ、まあって……っ、私のことを……!!」
小夜が「あらあら」と言った。
「まあまあ」
それだけだった。それ以上は何も言わなかった。手帳に何かを書き足していた。
凍牙がため息をついた。
「……義弟よ」
蓮が「は?」と言った。
「妹をよろしく頼む……!!」
凍牙が深々と頭を下げた。
「……まだ義弟じゃない」
「いずれそうなる! 俺にはわかる!!」
「根拠は?」
「雪菜の顔だ! あの顔は本物だ!!」
雪菜の顔が真っ赤になった。
「っ……お兄様……っ! 余計なことを言わないでください……!!」
「余計じゃない! これは兄として当然の――」
雪菜の目が、すっと凪いだ。
家の中の温度が、一瞬で変わった。
リビングの空気が白くなった。吐く息が見えた。テーブルの上の麦茶が、表面から薄く凍り始めた。
「お兄様……」
声が、完全に別人だった。
学校での「氷の聖騎士」でも、家での「蓮様ワンコ」でもない。もっと底の方にある、純粋な氷の声だった。
「……次、余計なことを言ったら、首から上だけ凍らせます」
凍牙が、硬直した。
氷槍を三本生成して蓮に挑んだ男が、今、妹の視線だけで動けなくなっていた。
「……雪菜、お前、本気か……?」
「本気です」
「……わかった、黙る」
蓮は少し考えた。
……SS級、というのは伊達ではない。そして、同じSS級の中でも雪菜の実力は飛びぬけているのだ。
「……雪菜」
「はい、蓮様……!」
「解除しろ。麦茶が凍ってるから」
「あっ……す、すみません……!!」
雪菜が慌てて魔力を引いた。麦茶の氷が溶け、室温が戻っていく。
蓮が指先を麦茶のコップに向け、一瞬で適温に戻した。
凍牙が「……お前ら、息が合いすぎだろ」と呟いた。
蓮は答えなかった。否定しなかった。
小夜が手帳を差し出した。
「神代のお坊ちゃま、お食事代を追加させていただきます」
「な、なんで、食事代まで……!?」
「カルビは特売品とはいえ、旦那様の食材でございます。何か申し開きはございますか?」
「……はい、払います」
それにしても小夜のこの迫力は何なんだろう……。
ココアがソファの上で、凍牙をじっと見た。
凍牙が「……なんだ?」と身構えた。
ココアは何もしなかった。ただじっと見て、それから目を細めた。
「……今のは何だ?」と凍牙が蓮に聞いた。
「さあ」
「……審査でもされた気がするんだが」
「そうかもしれない」
「合格したのか……?」
「さあ」
ココアはもう目を閉じていた。




