第12話:トイプードルの瞳に、義兄が凍りつく。 ――世界最強の魔獣は、うるさいから仕方なく起きた。
リビングの床に、凍牙はまだ座り込んでいた。
蓮に完封されてから、もう十分近く経つ。焦げたブレザーの右袖を眺め、膝に手を当て、天井を見上げ、また床を見る。それを繰り返している。
精神的なダメージが大きいらしかった。
雪菜が「お兄様、お茶でもいかがですか……?」と持ってきた麦茶を、凍牙は受け取ったまま飲んでいない。
小夜が手帳を開きながら廊下から戻ってきた。
「ドアのへこみ三箇所、修繕費の見積もりが出ました」
凍牙が「……俺が払う」と虚ろな目で言った。
「ありがとうございます。なお」と小夜は続けた。「本日お出しした麦茶と茶菓子の費用もこちらに含めさせていただきました」
「それは……か、関係なくないか……?」
「お坊ちゃまがいらっしゃってからの経費でございます」
凍牙は何も言わなかった。
そこへ。
ソファの奥から、もぞもぞと動く気配がした。
ブラウンのトイプードルが、半眼のまま顔を出した。
伸びをした。欠伸をした。
起きるつもりはなかったのだろう。ただ、さっきからリビングがうるさいから、仕方なく、といった顔だった。
「……あの犬、この騒ぎの中、寝てたのか?」
「ああ」
「俺が来る前から?」
「そうだな」
凍牙が少し傷ついた顔をした。
ココアがトタトタと歩み寄った。凍牙の前まで、三歩。
玄関先での戦いの間、ココアはずっと寝ていた。蓮がいるから、出るまでもない。そういうことだ。
そのココアが今、のそのそと起きてきた。
「……ふん、ただの犬か」
ココアがじっと見上げた。凍牙が表情を緩めた。
その瞬間。
ココアの影が、動いた。
床に落ちていた影が、ゆっくりと、ゆっくりと広がっていく。トイプードルの丸い輪郭が、別の何かに変わっていく。四本の太い脚。巨大な頭。広げれば家一軒を覆うような翼の輪郭。
大地の覇気が、音もなく解放された。
部屋の気圧が、変わった。
テーブルのコップが揺れた。窓ガラスがびりびりと鳴った。フローリングに、ひびとも震えともつかない細かい亀裂が走り始めた。
「ぐ……るる……」
ココアの喉から、低い音が鳴った。
訳すなら「うるさくて起こされた、という話だ」といったところだろうか。
「っ……な……!?」
凍牙の顔から、血の気が引いた。
「な、なんだ……この覇気……!?」
立ち上がろうとした。足が動かなかった。
ココアの影が、天井まで届いた。四本の太い脚。広げれば家一軒を覆うような翼の輪郭。巨大な頭が、ゆっくりと凍牙の方へ向いた。
「こんな……こんなの、ただの犬じゃ……!? さ、災害級……!? 災害級魔獣がなぜこんなところに……!? しかもさっきまでトイプードルの顔で……!?」
凍牙の声が、裏返った。
凍牙の顔に、別の色が混じった。
さっき玄関先で蓮にやられている間、ココアはずっと寝ていた。出るまでもない、そういう判断だったはずだ。
それが今、凍牙の顔を見ただけで本気を出している。
どういう順序だ、と凍牙の目が言っていた。
聖騎士団副団長。Sランク相当の実力者。国内でトップクラスの氷属性使い。
その凍牙が今、床に張り付いたまま、ガタガタと震えていた。
「雪菜……! 雪菜、助けてくれ……!!」
凍牙が妹に縋った。
雪菜がココアをそっと撫でた。
「ココアちゃん、もういいですよ……」
ココアがちらりと雪菜を見た。
少し間があった。
「……わふ」
影が、するすると縮んだ。覇気が、すっと引いた。
ココアが雪菜の手に頭を押し付け、目を細めた。
凍牙が固まった。
「……雪菜」
「はい……?」
「お前、今あの魔獣を……なだめたのか……?」
雪菜が少し考えた。
「ココアちゃんとは、もう仲良しですので……!」
「……仲良し」
「はい……! 最初は威嚇されていたんですが、蓮様のおそばにいるうちに……!」
凍牙が蓮を見た。蓮が「……まあ」と答えた。
それだけだった。
凍牙の頭が、ゆっくりと床に向かって下がっていった。
「ココア」
蓮が、静かに呼んだ。
ココアがちらりと蓮を見た。
「お手」
一拍の間があった。
ココアが、前足をそっと持ち上げた。
影が、するすると縮んだ。覇気が、すっと引いた。気圧が、元に戻った。
残ったのは、ふわふわのブラウントイプードルだけだ。前足を蓮の手の上に乗せて、きゅっと目を細めている。
「わふっ」
「よし」
蓮がココアの頭を一撫でした。ココアが満足そうに尻尾を振った。
蓮が、小さくため息をついた。
小夜が、小さくため息をついた。
雪菜が、小さくため息をついた。
それぞれ理由は違うだろうが、三人揃ってため息をついた。
「っ……っっっ……!!」
凍牙が、声にならない声を上げた。
膝をついていた。いつの間にか、また膝をついていた。今度は蓮にやられたからではなく、純粋に足に力が入らなくなったからだった。
「さっきまで大地の覇気を……今は「お手」をして……尻尾を……!?」
「うちのペットだ」
「ペッ……ト……!?」
凍牙の目が、虚ろになった。しばらく、何も言わなかった。
雪菜が「お兄様……?」と顔を覗き込んだ。凍牙は焦点の合わない目のまま、ココアを見て、蓮を見て、またココアを見た。
「……俺は今日、この家で何を見たんだ……」
「色々だな」
「色々……」
凍牙が額に手を当てた。
「一般ランクの高校生が最上位魔術を使い、災害級の魔獣がトイプードルとして暮らしており、伝説のエリートメイドが頭痛薬を六錠飲んでいる……」
「だいたい合ってる」
「合ってるのか……」
「あのー」
雪菜が口を開いた。
小夜が「お嬢様」と一歩前に出た。
雪菜は止まらなかった。
「お兄様、蓮様はもっとすごいんですよ……! 以前、私が深夜に任務から帰った時も起きて待っていてくださいましたし、SSS級の結界だって指一本で――」
「雪菜、そこまでだ」
蓮が静かに言った。
「はい……!」
「それ以上は言わなくていい」
「……はい」
雪菜がしゅんとした。ただし、顔は嬉しそうだった。
小夜がこめかみを押さえながら、手帳に何かを書き足した。
凍牙がぼんやりと「……SSS級、という言葉が聞こえた気がするが」と呟いた。
蓮は答えなかった。
「……お前、本当は何者なんだ?」
「登録上は、一般ランクの高校生だ」
凍牙がため息をついた。長いため息だった。
「……雪菜」
「はい……!」
「この家……お前、本当に大丈夫なのか?」
雪菜が迷わず答えた。
「はい……! 蓮様がいてくださるので、何も心配ありません……!!」
凍牙がまた天井を見上げた。
小夜が手帳を差し出した。
「神代のお坊ちゃま、追加の見積もりが出ました。先ほどの経費に本日の頭痛薬代と、ココアさまの緊急覚醒によるソファクリーニング費用を加えたものでございます」
「ソファのクリーニングはなぜ俺が……」
「お坊ちゃまがうるさかったので、ココアさまが起きていらっしゃいました。お坊ちゃまの責任でしょう?」
「……払います」
使用人のほうが強いようだった。
ココアがソファに戻り、ふわりと丸まった。
何事もなかった顔で、目を閉じた。
今度こそ、本当に寝た。




