第11話:突撃、お前の妹を監視する男(シスコン義兄)。 ――怒鳴り込んできた男は、ブレザーだけ焦げて帰った。
木曜の夕方。
平和な時間だった。
蓮がリビングでテキストを広げ、ココアが膝の上で丸まり、雪菜がダイニングで小夜の作ったお茶を飲みながら「次の目玉焼きは半熟を目指します……!」と静かに宣言していた。小夜が「目標は常温からです」と一言で返していた。
そこへ。
ドンッ。
「「「……」」」
全員の動きが止まった。
ドンッ。ドンドンッ。
「開けろ!! 神代凍牙だ!! 雪菜がいるのはわかってるぞ!!」
玄関ドアが、物理的に揺れていた。
ココアがひとつ耳を動かした。それだけだ。
雪菜の顔が、みるみる青ざめた。
「……お兄様」
「知り合いか?」
「……兄です。聖騎士団の副団長で……す、すみません蓮様、私から連絡が――!」
「開けろ、このドアを!! 中にいるのはわかってるぞ!! 雪菜と同棲している馬の骨はどいつだ!!」
小夜がすっとエプロンを正した。
「……来ると思っておりました」
「なんで止めなかった?」
「止める手段がございませんでした。神代のお坊ちゃまは、決意されると周囲の声が聞こえなくなる性質がおありで」
「蓮様、本当に申し訳ありません……! お兄様は悪い人ではないんですが、ちょっと過保護で……!!」
「……ちょっとどころじゃないな」
ドアが、また揺れた。
蓮はテキストを閉じ、ソファから立ち上がった。
玄関に向かい、ドアを開けた。
「どこの馬の骨だ貴様ぁぁああ――」
声が、止まった。
ドアの前に立っていたのは、雪菜と同じ白銀の髪を持つ長身の青年だった。整った顔立ちに、雪菜とよく似た鋭い目。聖騎士団の制服を着こなし、右手には既に氷槍を生成していた。
神代凍牙。二十歳。聖騎士団副団長。高速戦闘特化の氷属性使い、国内でもトップクラスの実力者だ。雪菜の兄で、妹溺愛の筋金入りのシスコンとして聖騎士団内でも有名らしい。小夜から聞いた話だ。
そしてその凍牙が今、蓮の顔を見て固まっていた。
「……貴様が、烏丸蓮か?」
「そうだ」
「雪菜と同棲しているという……?」
「してる」
凍牙の声が、わずかに震えた。
「……っ、聞いてはいたが、ずいぶん落ち着いているな。俺が怖くないのか!?」
「別に……」
凍牙の眉がぴくりと動いた。
「舐めた口を……! いいだろう、実力でわからせてやる! 雪菜は渡さん!!」
氷槍が、三本に増えた。鋭く光る氷の刃が、蓮の眼前に突きつけられる。
廊下の奥から「お兄様!! やめてください!!」と雪菜の声がした。
「雪菜は引っ込んでいろ! これは男と男の話だ!!」
「そもそも男と男の話になってません!!」
蓮は氷槍を眺めた。
三本。氷属性の最上位に近い練度。凍牙の実力は確かだ。このアパートの廊下で全力を出されたら、建物が半壊するかもしれない。
面倒だ。
それに、ドアのへこみだけで小夜がすでに頭痛薬を二錠飲んでいる。これ以上の被害は避けたい。
人差し指を、ほんの少しだけ前に向けた。
――【極小火力:接触気化】。
氷槍に触れる空気だけを、ミリ単位で加熱する。
三本の氷槍が、音もなく蒸発した。
「……っ!?」
凍牙が目を見開いた。
ついでに、凍牙のブレザーの右袖だけが、じわりと焦げた。本人には傷一つない。ブレザーだけだ。
「な……なんだ今のは……!? 俺の氷槍が一瞬で……!?」
「廊下が狭い。中に入るか?」
蓮は言って、リビングに戻った。
しばらく、廊下が静かになった。
それから凍牙が、茫然とした顔でリビングに入ってきた。焦げたブレザーの袖を見ながら、自分の手を見ながら、蓮を見ながら。
「……今の、何をした?」
「特に何もしてないぞ」
「いや氷槍が消えた……?」
「そうだな」
凍牙の顔が、みるみる青ざめていった。
「俺の氷槍だぞ? 国内でSランク相当の出力の……!」
「そうなのか?」
凍牙がゆっくりと、その場に膝をついた。
雪菜が「お兄様……!!」と駆け寄った。
「……怪我はないか、雪菜」
「私は怪我などしていませんが……! お兄様こそ、怪我は……!?」
「俺も……大丈夫だ」
凍牙がゆっくりと蓮を見上げた。
「……お前、本当に一般ランクか?」
「登録上はそうだな」
「……なるほど」
何かを理解したような顔だった。何を理解したのかは、本人にしかわからない。
凍牙はしばらく、焦げたブレザーの袖を眺めていた。それから蓮を見た。蓮のブレザーは、無傷だった。
ため息をついた。
「……雪菜が心配で来たんだが」
「そうか」
「雪菜は……ちゃんと大事にされているか?」
蓮は少し考えた。
「本人に聞いてくれ」
凍牙が雪菜を見た。雪菜が「は、はい……! とても大事にしていただいています……!」と答えた。
「……具体的には?」
小夜が「お嬢様」と一歩前に出た。
雪菜は止まらなかった。
「毎朝お弁当を作ってくださいますし、遅く帰った夜もスープを作って待っていてくださいましたし、お風呂も追い焚きしてくださっていましたし、目玉焼きが凍っても怒らずに直してくださいますし、ここアちゃんのブラッシングもしてくださいますし、それから――」
小夜がエプロンのポケットに手を入れた。頭痛薬を三錠、まとめて取り出した。
「……お嬢様」
雪菜は止まらなかった。
「先週はスーパーで半額のお肉を一緒に選んでくださって、おにぎりを凍らせてしまった時も分子レベルで温め直してくださって、学校でも……あ、学校では関係ないですね、でも帰り道は――」
小夜は三錠を口に含んだ。
なにも言わなかった。
ソファの上で、ココアが目を閉じた。最初から目を閉じていたのかもしれない。
「……あ」
雪菜がようやく口を閉じた。
遅かった。非常に遅かった。
凍牙の顔が、みるみる変わっていた。最初の怒りとは全然違う色の、なんとも言えない複雑な表情だった。
「……弁当を……スープを……風呂まで……」
「お兄様、あの、これは……!」
「待て待て待て……! 整理させてくれ……!」
凍牙が額に手を当てた。
「雪菜が深夜に帰っても、こいつが待っていたのか?」
「……はい」
「弁当も毎日作ってるのか?」
「……はい」
凍牙が額を押さえた。
「風呂も?」
「……はい」
凍牙が蓮を見た。蓮は「……」と黙っていた。
「神代家で、誰かが雪菜の帰りを待っていたことはあったか?」
今度は雪菜が黙った。
凍牙も黙った。
しばらく、リビングが静かになった。
凍牙がもう一度、蓮を見た。何かを諦めたような、あるいは何かを認めたような顔だった。
小夜が静かにリビングに入ってきた。エプロンのポケットから頭痛薬の小瓶を取り出し、一錠を口に含んだ。
「神代のお坊ちゃま、玄関ドアにへこみが三箇所ございます」
「……すまない」
「これは坊ちゃまの失態ですから、弁償していただけますか?」
「……する」
小夜の静かな声に凍牙は異常に素直だった。この二人の間にどんな過去があったのだろうか。さすが伝説のメイドだ。
ココアがソファの上で、凍牙をじっと見ていた。
凍牙が視線に気づいた。
「……犬か。可愛いな……!」
ココアが、鼻を鳴らした。
興味なし、という顔だった。
小夜が静かに蓮の隣に立った。
「旦那様」
「なんだ?」
「本日の頭痛薬は、先ほどで六錠になりました」
「……それは。多いな……」
「お嬢様が口を開かれた瞬間に三錠飲みましたので」
蓮は何も言わなかった。
「なお」と小夜が続けた。「ココア様は最初から最後まで一切関与されませんでした」
「そうだな」
「賢明だと思います」
ソファの上で、ココアが静かに眠っていた。




