39 袋麺その2
「それでは九番の露草色の扉をお使いください」
露草色って、これで良いんだよね。
シアタールームに来た私は、指定された扉の前に立っている。
祖母に初めて教わった事、その中で私が盗んだことがあれば、強調して分かるようにしたものが見たい、と告げたら、直ぐに扉が指定されたので、難しいオーダーではなかったようだ。
覚えていない事を見るってどんな感じなのかな。
少しだけ緊張しながら扉を開いた。
***
「……ます。放っておけば大人しい子なので」
「はいはい、気を付けて出かけておいで」
背中を押されて、今、住んでいる店と同じ店の、入り口に入る。
母が祖母に私を預けて出かける、といったシチュエーションの様だ。
入り口でまだ少し話をする二人を置いて、私は店内に入り、四角い背もたれの無い椅子に座って、店内を見まわしている。全部が大きく見える。これ、何歳位だろう? カウンターより少し高い位だから、五~六歳位かな。
その割には、私はまだ口を開いていない。挨拶も、祖母の顔を見るでもなく、ただ座って、キョロキョロとしている。
そう言えば思考は再生されないね。
「和香、奥にトイレがあるから、手を洗っておいで、それから何か飲むかい? ジュースか、お茶か」
祖母が入り口を締めながら言う。
私は椅子から飛び降りて、
「おちゃー」
と言いながらトイレの洗面台で手を洗う。幼稚園だか小学校で教わった洗い方なのだろうか、かなり熱心に、石鹸で手を洗っていた。
お茶を準備し終えて、タオルを持った祖母が後ろで待っていた。
「随分ゆっくり手を洗うんだねぇ! 日が暮れちまうよ」
笑って言うと、椅子に誘導するように肩に手を置いて、向かい側に祖母も座る。
「あたしはこれから夜の仕込みをしなくちゃならないから、そこに座っててくれるかい?」
「わかった。すわってる」
「好きにしてていいからね」
そう言って、祖母は厨房に向かった。カタカタとなにかをする音を聞き、カウンター越しに行き来する祖母の頭部を暫くぼんやりと眺めていると、手ぶらで、テレビもラジオもかかっていなかったので、退屈したのだろう。突然掛け算九九を暗唱し始める。
「もう掛け算九九を覚えたのかい? 随分早いねぇ」
「おにいちゃ、が、ゆってた」
「ああ、一は今、三年生かい? それじゃあ和香、あんた、意味が分からないで暗唱しているんじゃないかい?」
「あんしょう?」
「声に出してるだろう?」
「しゃべっれるよ!」
笑いながら私は言う。
ああ、意味不明。兄の一が三年生という事は私は一年生だろう。六歳児というにはちょっと発言が怪しいような気がする。こんなもんだっけ? 六歳児。
「そうじゃないよ。あんたが今、声に出してた、しはさんじゅうに、ってのはね、算数の時間に習う掛け算九九っていうものなんだ。そういう表があって、その表を声に出して読むのを暗唱っていうんだよ。大したもんだね」
気を良くした私はまた一の段から掛け算九九を暗唱し始める。七の段は活舌が怪しく、どこかたどたどしい。
しちっちしちゅうく、とか言っている。
恥ずかしいから人前で暇つぶしに暗唱するのは止めた方が良いと思う。
そう言えば昔は良く母に、うるさいから黙りなさいと言われていたけれど、音量だけの問題でもなかったのかもしれない。
しばらくそうしていたら、祖母が厨房から玉ねぎとまな板と包丁、ボウルを持ってきた。
「足し算は習ったんだろう?」
玉ねぎを半分に切って、祖母が言う。
「一足す一は二」
私はふるふると首をふる。
「いっこのたまねぎをふたつにきっただけだからいっこだよ」
クソガキの屁理屈である。祖母の身にもなりなさい、私。
祖母はふん、と鼻で笑った。
「じゃあ、一欠片と一欠片で二欠片、これでいいだろう?」
私は面倒になったのか、考えていないのか、分かったのか、分からないのか、とにかく頷いた。
祖母も屁理屈で応戦か、血は争えない。
そのまま半分をまた半分にして四つに切り分けて、左右に二つづつ並べて、
「二足す二は四だけど、掛け算九九だと、“ににんがし”」
そう言って、玉ねぎを指さしていく。
あ、この先はちょっと記憶にあるかも。
祖母はさらに半分に切って、八等分の玉ねぎを、“しにがはち”で説明した後、手伝っておくれ、と言って、一緒に玉ねぎをバラバラにして、ほら、これだけあると数えるのが面倒だろう? と笑ったのだ。
その場面だけは覚えていたが、そこから先の記憶はない。
祖母がぱっぱと縦横五個ずつ二十五個並べて、五の段まで説明すると、
「あんたがさっき声に出していたのはこれだよ、凄いねぇ」
と誇らしげに笑う。
せめてここまでは覚えていたかったな、と思う程には魅力的な笑顔だった。
感傷に浸りそうになっていた私に祖母が言う。
「生の玉ねぎは食べた事あるかい? 食べてごらん」
鬼畜。
案の定、私は辛い辛いと泣きだした。
祖母はげらげらと笑いながら、
「そのままだと辛いだろう? 後でよーく煮た甘い玉ねぎを食べさせてやろう。同じものでもやり方を考えれば全然違うものになるからね」
と、玉ねぎや包丁を持って厨房に移動する。
「和香。言われた事だけやってりゃいいってわけじゃないよ。やりたい事は口に出しな」
こくり、と頷いた私は、
「ねる!」
と宣言して地べたに寝転がった。
マジか私!
「そこで寝るんじゃないよ」
祖母が慌てて厨房から出てきたので、私は起き上がって首を傾げている。
「ああ、そういうことか。はぁ。やりたい事は口に出して相談してから行動に移しな。眠いなら二階に寝れる場所を作ってやろう。おいで」
やはり母になにか言われていたのだろう、祖母はため息を付いた。
二階の、なにも無いスペースに毛布と枕を出してくれて、起きたら一階に降りておいで、と、優しく頭を撫でて、祖母は一階に降りていく。
祖母が向かう方に横を向いていた体を仰向けに直して、天井に手を伸ばす。
「ねる。おきたらいっかいにおりる」
呟いて私は目を閉じた。
***
『再生を終了します。再度再生する場合はテーブルにあるリモートコントローラーをお使いください』
はっと我に返って、ソファーに座る。
結局最初に教わったのは掛け算九九だったのかな。私の記憶としては、玉ねぎはバラすと数えるのが面倒と教わった感じだったけれど。
盗みの記憶は無かったみたいだし、私はリモコンを手に、
「冒頭だけ第三者目線で再生」
と呟いてから再生ボタンを押してみた。
***
「……ます。放っておけば大人しい子なので」
「はいはい、気を付けて出かけておいで」
背中を押されて店に入っていく小さな私を見ているのは、どうやら祖母の様だ。
視界の端で私をとらえながら、
「構うと五月蠅いのかい?」
と母に尋ねる。
「…………」
どうやら実際に私の耳に届いていない音声は再生されない様だ。
小さな声で母が答え、
「鵜呑みにするってことかい?」
と祖母が返すと、
「違いま…………」
と、少し音量が上がったのか、喋りはじめだけ聞こえる。
「そうかい、まぁ気を付けるよ。店が始まる前に迎えに来なよ」
「はい、よろしくお願いします」
***
『再生を終了します。再度再生する場合はテーブルにあるリモートコントローラーをお使いください』
パッと視界が元に戻る。
そういうことか、という祖母の納得した部分が気になって、母になにか言われたのかと思ったんだけれど、あんまり意味はなかったな。
でも、思った通りには再生出来るみたいだ。
コスがノスタルジーではなくインデックスって言ってたのはなんとなく理解できた。
良いも悪いも前後が詳らかだとノスタルジーに浸る間も無い。
なんで地べたに寝ようと思ったんだろう。問いただしたい。
そんな事を思いながら部屋を出て、盗みの記憶が無かったな、と思い出したので、もう一度受付に行こうか、一度家に帰ってお昼にするか、と思案していたら声をかけられた。
「和香ちゃーん」
峰岸さんだった。
にこにこと手を振りながら近づいて来るが、この間とは違う人と一緒にいるようで、一緒にいる人は少し困惑した様な顔をしているから、山田さんではないのだろう。
同じ波長の人って地球全体で一万人位のグループ分けって話だったし、そんな中でどうしてそうポンポン次から次へと違う人を連れ歩いているのか。
「こんにちは」
「こんにちは。うふふ、なにか思い出したい事でもあったの?」
今日も峰岸さんは楽しそうだ。
連れの女性と軽く目礼しあってから、私は肩をすくめて見せた。
「ちょっと次の裁判の予習と思ったんですが、失敗しました」
ああ、と峰岸さんは笑う。
「初めて電車に乗るだけで十は盗んでいるんだもの、嫌になるわよねぇ」
はい? と首を傾げれば連れの女性も同意する。
「先達に教えて貰うか、駅員に教えて貰うのが正解みたいですね。子供の頃なら親が教えてくれますけれど、大人になってからで、大多数が出来ることだと、つい目で盗みますからね」
「あら、貴女も?」
「ええ。真似と盗みは違うのではないかと確認をしましたが、真似して事なきを得たんだけれど間違いがないか、後からでも教えを請わないと、盗み認定になるようですよ」
「まぁ、そうなの? 便利になって当たり前が増えると、教える方もつい手を抜いちゃうのよねぇ。ウチの子は大丈夫かしら」
「そうなんですよ。私も見たら分かるでしょう? なんて、忙しいとつい言っていましたから、こちらの罪だと思うのですけれど」
「お互い様という事なのかもしれないわねぇ」
おばあちゃんの井戸端会議だ。ほっこりする。
ある程度大きくなってから初めてした大多数が出来る事、なら盗みの記憶も見れるのかな。
ちょっとすぐには思い浮かばない。
「どこかでお茶でもしたいところだけど、受付以外の喫茶店にまだ遭遇出来ないのよ。これから和香ちゃんの所にお邪魔してもいいかしら?」
おっとりと峰岸さんが聞いてきたので、ですよね、と思いながら了承する。
シアタールームはまた後でか、明日か、それまでに再生箇所を特定できればいいのだけれど。
***
そして今、私はラーメンを作っている。
何故かって? 峰岸さんが袋麺を見て、懐かしいと、そして食べたいと目で訴えてきたからだ。
お二人ともホテルでアフタヌーンティーでも楽しみそうな雰囲気で、そのまま食べられるこの袋麺について、駄菓子として、砕いてサラダにかけて、お湯をかけるだけで、と大いに盛り上がっている。
流石にそのままってのも、と思い、二袋を袋の記載通りの水量で茹で、レンジで温泉卵を作って、ネギを刻み、かまぼこも切って、三等分して椀に盛り付けた。
「「「いただきます」」」
懐かしい、と、美味しいと、ありがとうをたくさん言ってくれて、それから二時間程お茶やカウンターのおやつを楽しんでいた。
途中で、お店にしてくれると気軽に来れるんだけれど、と言われたけれど、まだピンと来ないです、と言ったので、一応人の家に遊びに来ただけ、という認識ではいるようだ。
全然そんな態度じゃないですよ、峰岸さん、とは心の中で突っ込みを入れたけれど、嫌ではない。
帰ってしまってからお連れさんの名前を聞きそびれた事と、同時に私も名のっていない事に気が付いて、あああああ! っと頭を抱える。だって相変わらず顔を覚えていないのだ。
顔も名前も分からないとか、対人関係において致命傷だと思うんだけど。




