チャプター71
〜竜の紅玉亭〜
男爵は、先ほどと同じようにグラスに注がれた白ワインを少し口に含んでテイスティングする。みんなが注目する中、それを意に介さず、目を閉じてマイペースに味わう。
「……どう?」
ごくりと喉が鳴ったのを確認すると、心配そうに確認する。ゆっくりと目を開けた男爵が、静かに口を開く。
「うん、美味しい。軽やかな口当たりに少しだけ舌を刺す酸味があって、でも、その隣にはぶどう由来の甘みがあって、香りも爽やかだ。これもいいね」
「じゃあ、僕らも飲もうか」
「そうですね。どれどれ?」
男爵も認めた味とあっては期待が高まる。二人も、早速口をつけた。
「ん、なるほど!」
「これはまずいね。これだけ飲みやすいと飲みすぎちゃいそうだ。三人でボトル一本くらいでちょうどいいのかもな」
「今度もみんなの舌に合ってよかった。毎回毎回こんな心配するのも変だけど、やっぱりどうしてもこの辺は気にしちゃうから……」
「もー、それは心配しすぎじゃない? 料理だって美味しいし、お酒は高級なだけが価値じゃないんだし。庶民のあたしが言うのも変だけどさ。そこは堂々とすればいいんだよ。さっきの赤ワインの時だってそうでしょ?」
わかっていてもついつい心配になる。男爵たちは自分たちのことを下級貴族と言っているからまだ肩肘張らない世界のことも知っているのかもしれないが、フランツは違う。右から左から、全てにおいて彼は王子なのである。今こうしているだけでも奇跡のような出来事だ。
「気にしちゃダメなんだよそういうのは。それより、水のお代わりをくださいな」
「え? あぁ、うん、待っててね」
エルリッヒがその場から離れると、三人は見計らうように息を吐いた。
「え、どうしたんですか?」
「いや、やっぱ彼女がいると少し緊張しちゃって。食堂の店主なんだけど、戦闘方面でも凄い人ってことを身を持って知ってるからね」
悟ったような子爵の言葉を聞いて、フォルクローレは三人が手合わせをしてこっぴどくやられた話を聞かされていたことを思い出した。おそらく、それが頭にあるのだろう。
エルリッヒと三人がそれぞれお互いに気を使っていたのだ。こんな滑稽なことがあるだろうか。間に立つフォルクローレはおかしくなってしまった。
お酒は一滴も飲んでいないのに、笑いが止まらない。
「あーおかしい! みんな気にしすぎだよ〜! そんなに気にしてたら心底楽しめないでしょ。エルちゃんにはさっき言ったけど、三人にも言わせてもらいますよ。すぐエルちゃん戻ってくると思うから手短に。エルちゃんが凄いのは知ってるけど、その手合わせの件は、魔物に向けられる刃の話でしょ? だったら、むしろ誇らしげにしてればいいんです! それを考えたら、手合わせしたってだけでも凄い事だと思えばいいんです!」
「そうやって綺麗に割り切れればいいんだけどね。僕たちはついあれこれ考えちゃうんだよ。お酒が入っていてもこれなんだから、そんな性分だよね」
「本当に。美味しく飲んではいるんだけど、酔いきれないというかなんというか」
「それそれ。負けた記憶って、染み付いちゃうんだなーって実感したよね」
二人は頷きあう。あれは確かに明確な負けだった。魔物との実戦を経験したこともないので、戦いの中で死を覚悟したのはあの時が初めてだった。それが強烈な経験でなくてなんだというのだろうか。
「なるほどなぁ。あたしも、それくらい手酷く負けたら苦手意識が芽生えるのかなぁ。相手が誰であれ」
「それはあると思うよ? 僕も、あんなに負けたのは初めてだったし」
「訓練でもあそこまで恐怖を覚えたことはなかったし」
「ほんの短い時間だったんだけどね」
それでも、三人の脳裏には今でも強く焼きついている恐怖。それはなかなか払拭されるものではなかった。
「はい、お水おまちどう。何の話をしてたの?」
「あ、ありがとー。エルちゃも三人も、お互いに緊張して接してたって話をしてたんだよ。こないだ負けたのが染み付いてるんだってさ」
コップに注がれた水を一口飲みながら、話を続ける。
「相当強烈な経験だったみたいだよ?」
「う〜ん、そうだったのか〜。力を見せる必要があったし、周りで人も見てたから少し派手な方がいいと思ってああしたんだけど、やりすぎちゃいましたかね」
「い、いや、あれはあれで必要なことだったはずだから、気にしなくていいよ。僕たちが勝手に気にしてるだけだし。それはそうと、さっきの話、領地視察に行った時の話、あれが途中だったよね。続きを聞かせてくれないかな」
「そういえば、そうでしたね。じゃあ、僭越ながらその続きを話しましょう」
なんとなく空気が重くなってきたのを感じて、フランツは話題を変えた。それだけでなく、話の続きが気になっていたということもある。だが、話題を振られて男爵は楽しげにグラスの中身をあおった。
「どこの領地でも同じってことじゃないとは思いますけど、うちの場合、領地に行った時は大体宿屋に泊まるんです。てとこまでは話しましたよね。それでですね。宿には酒場が併設されてることが多いんですけど、食事はそこで取るんです。そうすると、服装もみんなと違うし、そもそも俺たちのことを知ってる人も多いんですよね。そうすると、結構歓迎してくれるんですよ。で、みんなで酒盛りが始まって、昔は俺も小さい子供だったんで夕食が済んだら部屋に戻って寝るように言われてたんですけど、さすがに今はもうそんなことを言われないので、父と一緒にみんなで飲み明かすんですよ。そうしてると、身分なんて関係ないんだなぁって感じちゃいますね。もちろん、身分の壁がないわけじゃないんだけど、だからって俺たちは同じ人間なんだなぁって。まあ、そういう時の支払いは全部こっち持ちなんで、その辺もあるんでしょうけどね。でも、そのいくばくかの出費で領民が少しでも楽しく飲めるなら、それが何よりですからね。で、翌日ちゃんとした視察をするんですよ。作物の具合とか、事件は起こってないかとか、そういうのを村長さんに確認して、領地を見て回って」
手酌でグラスにワインを足し、それを一気に飲み干す。ちびちびと味わうのも美味しいが、こうして一気に飲むのも美味しい。そんなことを感じながら話を続けた。
「領地を回っていくと、当然領民が寄ってきますよね。で、人によっては直接不満をぶつけてくることがあるんです。人によってはそんなことをしたら一刀のもとに切り捨てる、なんてこともあったみたいですけど、うちは貴族としては下位だからか、そんなことはしないで話を聞くようにしてて。もちろん、解決できる内容かどうか、みたいな問題はあるんですけどね。でも、できる範囲のことはしてあげたいですよね。そういうのもあって、結構感謝されてましたね。俺もああいう領主になりたいもんです」
「へぇ〜。いや、うちのとこも大体同じですけどね。うちは個別に意見を聞かないで、陳情書みたいなのを出してもらうようにしてますね。それで、まとめて読んで回答した方が、時間が短縮できる気がして。でも、宿でどんちゃん騒ぎは楽しそうだなぁ。大体村長さんの家に泊めてもらうからなぁ」
「面白いね、それぞれの家ごとにやり方があって」
領主による領地の視察は、王都の住人には無縁のイベントだ。だから、周りの客にとっても興味深かった。街場の食堂に若い貴族が来ていることも面白かったが、ワインの蘊蓄といい視察の話といい、普段は聞けない話ばかりである。
「いやー、面白い話を聞かせてもらったよ!」
「本当に! ありがとな!」
いつの間にか、周囲には人だかりができていた。それはまるで、今語った貴族の視察そのものだった。
「もっと色々聞かせてくれよ!」
そんな声があったら、つい語りたくなってしまうのが人情。三人は、貴族社会について、語れる範囲のあれこれを話して聞かせるのだった。
〜つづく〜




