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第43話 異変 4 童貞、ちょっと前へ踏み出そうとする

 ててーててて ててーててて

 てててててーて てーててー

 てててててー てててててー

 てててててーてーてー てーてーてーてー

 

 ……手足と顔のようなものが付いた、小さな白いスピーカー。その身から軽やかで親しみやすい電子的音楽が流れ、それに混じり今日の特売商品などを紹介する人間の音声が聞こえてくる。肉や魚、野菜などの生鮮食品、加工食品などなど……


「なに食うかねえ……」


 世間的にはなんの節目でもない、普通の平日午後二時過ぎ。陽は、アパート最寄りのスーパーに買い出しに来ていた。何者も伴うことなく、三十路の男はひとり買い物カートを押す。


 基本的にスーパーへの買い出しは陽の仕事だ。千景も同行することはあるのだが、車を出すことになるのでどちらにしろ運転手である陽は必要であった。一応ここは自宅からは自転車で来ることのできる距離ではあるが、2キロメートルは離れているので陽はいつも車で来ている。


「温かいの食いてえな……」


 秋も深まれば、もう毎日鍋でもいいのではないかという気がしてくる。なにを作るか頭を働かせるのがめんどくさい。だが、色々なものを食したいという自分自身のワガママもある。


「……よし。シチューにするか」


 温かくて調理が比較的簡単なシチューやカレーは、メニューに悩んだときの救いの手である。

 さて、シチューの材料で足りないものは……鶏もも肉だな。陽は鶏肉コーナーへ向かい、もも肉へ手を伸ばそうとし、


「あ、陽さんっ」


 聞き馴染んだ声に動きを止める。花の蜜のような甘い声は、すぐ近くから聞こえてきた。


「えへへ、こんにちわ」


 声の主は、陽と同様に肉を求めていたらしい。買い物かごを携えた、柔らかそうな体付きの……いや、実際柔らかい女性だ。陽はそれを知っている。


 彼女の名は落葉(おちば)。陽と千景の仕事を知っている、唯一の一般人だ。彼女は、この三十路童貞に向けて実に朗らかで可愛らしい笑顔を見せる。


「ああ、落葉も買い物か?」


 陽は平穏そのものといった声で応じるが、彼女と対面したその精神の内側まで無風ではなかった。それを見透かされているかどうかまで、陽の判断は及ばない。


「はい。今日は煮物にしようかなって」


 どちらにしろ、落葉は深い親しみを声に乗せて陽へ送るのだ。

 彼女の声は、常から元々甘い響きを持っている。だが、最近、その甘さが少し増してきたように陽は思う。


「そうだ。もし良かったら、多めに作って陽さんの家に持っていきましょうか? 煮物」


 好意に満ちた笑顔、弾む声。落葉は、間違いなくこの萎れた顔の男に親愛の情を抱いている。


「ああ、ありがたいな。ぜひ食べたい」

「ホントですか? へへ……じゃあ、今晩持っていきますね」

「いや、夜は寒い。俺がそっちに行くよ」

「ふふっ。じゃあ、待ってますね」


 けして陽の勘違いなどではない。

 それは夏のことだが……まあ、なんやかんやで二人は抱き合う形になったのだ。千景の手による強引なモノであったが、そこには確かに自らの意思があった。


 そも、以前から落葉はそれとなく……いや、明確に好意を表していた。だというのに、未だに陽は態度を決めかねている。


 それについて、千景は陽のことを臆病クソ童貞と罵るのだが、陽は反論の材料をなにひとつ見出だせはしなかった。千景自身も経験はないのだがそこを指摘しても不毛である。


「落葉は、今日は自転車か?」

「はい。自転車……あ、車に私を乗せてくれようと? ふふ、ありがとうございます。大丈夫ですよ、これも運動ですから」


 買い物かごを掲げあげ、落葉は微笑む。この華やかな笑顔に、陽はなにも報いることが出来ていない気がする。


「そうか。ああ、もしなんか困ったら言ってくれ」

「はいっ」


 報いるというのは、この場合手助けをすることではない。流石に陽でもそれくらいは理解できる。


 心には心を。


 具体的には何をすればいいのか。何も分からずに、陽は鶏もも肉のパックをカゴに入れ落葉と別れた。

 

───────────────


「で? オチバとどうすればいいかって?」


 買い物から帰り、食料を冷蔵庫や棚にしまい、陽は同居人と向かい合っていた。


「遅いよ、ヨウ……相談するの遅いよ」


 午後三時頃のリビング。テーブルを挟み、二人はそれぞれのソファーに腰かけている。

 銀糸めいた輝く長髪を指先でいじりながら、千景は呆れを主成分とした溜息をつく。


「でも、ヨウの方からそれを言うのなら、進歩かな。そうだねえ……ちょうどオチバの誕生日が近いからねえ」

「え? そうなのか?」

「え、知らなかったの?」


 陽は沈黙をもって回答とする。日常的にSNSでやり取りしたりオンラインゲームで一緒に遊んだりと、千景と落葉の距離はとても近く親密であった。


「……まあいいや。今年は、なにか贈ったらいいんじゃない?」

「贈り物、か」

「単純だけど効果的だよー。プレゼントしてくれるってことは、自分のことを気にかけてコスト支払ってくれるってことだし」

「なんか生々しい言い方だな」

「でも実際そうじゃない? 大人になってプレゼントもらうことなんてあんまりないだろうし、特別感出るよ」

「そうか……」


 実際、いまの陽と千景の間にプレゼントの贈り合いなどはない。プレゼントがないからといって愛が存在しないわけではないのは明白であるが、だからこそ形ある物体で改めて好意を示すことは深い意味を持つのだろう。


「しかし、オチバも気が長いよね。こんだけ放ったらかされてるのに」

「うう……プ、プレゼントは、なに贈ればいいかな」

「んー……無難にチャームとかでいいんじゃない? オチバっていきなり超高級なのもらって無邪気に喜ぶ感じじゃないし、そこそこの値段の」

「……えっと、五万くらい?」

「んんん〜、それくらいだとブランド品になるかな……ん、分かった。明日街に見に行こう!」

「街か」

「そうだよ街だよ。プレゼントだもん、実物ちゃんと見たいでしょ? それにほら、ついでに鏡獣の調査も」

「ついでなのか……ああ、わかった。じゃあ、明日出かけよう」


 とりあえず話はまとまった。陽は腰をあげキッチンへ向かい、マグカップに牛乳を注ぐ。チカゲの分も入れてー、という要請に従い二杯の牛乳入りマグカップを手にソファーへ戻る。


 鏡獣。陽と千景がイレギュラーな鏡獣の存在を認識したのは昨日のことだ。

 結局のところ、昨日の小雪さんたちはこれといった情報を掴む事ができなかった。インターネット上でも目ぼしいモノは見当たらず、それは逆に言えば被害情報がないのだから今のところは驚異ではないということだった。未来については、なにひとつ言及出来ないが。


 とりあえず今、少なくとも表面上、千景の顔に不安の色は浮かんでいない。警戒はしても不要に恐れることはないだろう、陽は自分自身にもそう言い聞かせる。杞憂に日常を曇らせたくはない。


 冷たい牛乳を、一口喉に流し込む。千景の穏やかな視線を受けながら陽はそっと目を閉じ、そのまま少しの間、安らかな惰眠を享受する。 

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