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「………」


 アルの話に怒りも忘れ圧倒されていたヴァイツェッカー卿。時間は掛かったがどうにか思考を立て直し声を絞り出した。


「…話は分かった。だが今この場で返事は出来ぬ」


「はい」


 正にこの領の興亡を左右する重大な決断だ。ここで即断されるようでは逆にアルは不安に感じてしまうだろう。


「本日、夕食後に場を設けよう。返答はその時に」


「ありがとうございます」


 ヴァイツェッカー卿の返事は分からない。だが少なくとも『考えるに値する』と思ってくれたようだ。

 交渉が一旦終了し、場の空気が弛緩したのを確認したヴァイツェッカー卿はあからさまに話題を変える。


「…時にアルフリート殿、貴殿は本はお読みになられるか」


 口下手なヴァイツェッカー卿らしい、不器用で唐突な話題の転換だったがアルは気にしなかった。と言うよりも気に出来なかった。


「えっ…本?それは紙の本ですか!?それとも羊皮紙ですか!?」


 アルの予想以上の食い付きに話を振ったヴァイツェッカー卿の方が面食らったが、ゴホンッと一度咳払いし話を続ける。


「羊皮紙、のはずですが私には分かりません。実は読むのはもっぱら妻なので…この城には妻の趣味で書庫が有るのです。まぁ大した量ではないですが夕食までの時間潰しにはなるでしょう。ご興味がお有りなら案内させますが、如何ですか」


「ぜひお願いします!」


 アルは椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がる。子供という事を差し引いても礼儀作法としてはよろしくない行動だったが、ヴァイツェッカー卿は笑い飛ばす。


「はは、そう焦らずとも本はどこにも行きませんぞ。…おい、ご案内して差し上げろ」


「…はっ!かしこまりました。アルフリート様、どうぞこちらへ」


「ありがとうございます!」


 退室の礼もそこそこにヴァイツェッカー卿の側近に連れられ部屋を出て行くアル。その頭にはもう本の事しかなかった。


 この世界では物を書くのに羊皮紙を使うのが普通で、草の繊維から作った紙はまだまだ貴重品だった。それに品質も良いとは言えない物が殆どだ。

 質の悪い紙は草の繊維が目で見えるほど残り、ペンがなめらかに滑らない。またインクが染み込み過ぎて滲む事も多い。

 まだまだ製紙の技術が低く、量産には程遠いので自然と値段が高くなっていた。


 一方昔から使われている羊皮紙も『本』に出来るほど薄く、そして強靭に作るには高い技術と費用がかかる。

 しかも印刷技術がまだ無いこの世界では勿論全て手書きだ。1冊書き上げる、もしくは1冊写本するその労力は計り知れない。

 

 そして著作権と言う概念がこの世界には無い。なので本の内容は写そうと思えば写す事が出来る。そのため初めから写されることを前提にした値段で売られる。

 よって『本』として成り立つ物は『紙』だろうと『羊皮紙』だろうと1冊でとんでもない値段がするのだ。

 アルはこの世界に生まれてからまだ一度も本を読んでいなかった。西方辺境領に居た時も、そしてここヘイルムーンでも本が買えるような余裕なんて無い。


「…主が失礼を」


「いや、よい。ようやく年相応の子供らしい面を見れた」


「そう言って頂ければ。…それでは私も失礼致します」


「ご苦労」


 退室していくフィンをヴァイツェッカー卿は静かに見送った。











「ふぅ…」


 執務室に1人残されたヴァイツェッカー卿は深くため息を吐いた。この短い時間ですっかり疲れ果ててしまったが、気を抜くにはまだ早い。


「どう思う」


 明らかに誰かに問いかける口調。

 そうヴァイツェッカー卿が呟くと、部屋の隅に置かれた書棚が重い音を立てて横に滑り、ぽっかりと暗い穴を開けた。どうやら人の隠れるスペースが作られていたようだ。

 そしてその中から30代程の女性と若い兵士、フェルマーが出て来る。


「ふふっ、面白い子ね」


「埃が。ヴァイツェッカー夫人、髪に埃が」


「あらありがとう。…でも貴方に夫人なんて呼ばれると背中が痒くなるわね」


「いや、もういい加減慣れて下さい」


 その隠し扉はしばらく使われていなかったのだろうか、女性の頭や肩には埃が付いていた。しかし本人に気にする様子は無く、代わりにフェルマーが払っている。随分と気安い関係のようだ。


「妬ける?」


「………で、どう思う」


 輝くような金髪を翻し、挑発するような流し目を送った夫人だったがヴァイツェッカー卿は敢えて無視した。しかし眉間にシワが寄っている。


「ふっふー、素直じゃないわねー。…ま、冗談はこれくらいにして、あの子会話中に共の者に意見を聞く事も確認する事もしなかった。それどころか振り返る素振りすら見せなかったわね。全部あの子1人で考えた事なのでしょうね」


 そのヴァイツェッカー夫人の言葉にフェルマーも頷き、付け加える。


「恐らく馬車での移動中に考えた物かと。私や兵達との会話、城の周囲の状況を見てここに到着するまでのわずかな時間でです」


「…共の者、確かフィンドルトと言ったか。奴も慌てふためる事も無く任せっきりだった。意見を擦り合わせる時間などほとんど無かった筈なのだがな」


「何かしでかす事は想定済みなのでしょう。問題なのはそれを知った上でこちらに寄越したディルトラント殿の意図です」


「何かしでかす事は分かっていても、それが『何か』は分からない。つまりこの交渉の過程も結果も、全てをあの子に一任しているという事だ。たった5才の子供にだぞ?信じられるか?」


「ヘイルムーンでそれ程の結果を残しているのでしょう。一体今まで何をして来たのか…」


「見当も付かないわね」


 3人は押し黙る。どんな事をしてきたら5歳の子供に交渉を任せようと思えるのか。

 人も金も、今後の領の関係も左右する重要な交渉だ。通常なら互いの意見を一度領主の元に持ち帰って相談するだろう。最高決定権を持つ領主同士の交渉でないならそれが当然だ。

 領主の代理でしかない交渉役は、言ってしまえばただのメッセンジャーに過ぎない。

 しかしアルは1人で内容を考え交渉し、そして決めてしまった。


 つまりこの交渉に関してアルは領主と同等の権限を与えられているという事だ。


「フェルマー…いや、フェルトマイト。今日に限り家名を名乗ることを許す。夕食とその後の話し合いに参加しろ」


「おや、宜しいので?」


「…お前が居なければ全て私が決めてしまうが?」


「おっとそれではヴァイツェッカー家は早晩潰えてしまいますね。了解致しました」


 おどけたように言い返すフェルマーだったが、その目は全く笑っていなかった。


「あら?それならもう貴方に『夫人』なんて呼ばれずに済むのね。もっと甘えて来てもいいのよ?」


「いえ母上、もうそんな歳ではありませんので」


 フェルマー…いやリンクレット・ヴァイツェッカーの嫡男、フェルトマイト・ヴァイツェッカーは手のひらを前に突き出しキッパリと断った。


「素直じゃないわねー、誰に似たのかしら」


「さぁ、誰でしょうね」


 2人の視線がヴァイツェッカー卿に突き刺さり、彼の眉間のシワが更に深くなる。


「…話が進んでいないぞ。それで、この話に乗るのか乗らないのか、どうしたらいいと思う」


 フェルマーとヴァイツェッカー夫人はお互いに苦笑いを浮かべ顔を見合わせる。敢えて言葉にするならば『何を今更』と言ったところか。


「どうしたらいいも何も、あなた自身もう答えは出ているのでしょう?」


 その言葉にフェルマーも追従する。


「街道整備にどれだけ費用が掛かるのか、何年掛かるのか。また街道整備が終わった後に戦が起こった時はどうするのかなど。細かな調整と確認をしっかり詰め、書面に残す事が絶対条件ですが話に乗る以外に選択肢は無いかと」


「それにあの子、アルフリート・ヘイルムーンと縁を結ぶ絶好の機会ね。これを逃すなんて言ったらはっ倒すわよ?現時点であの子自身を『知っている』のは私達だけなんだから。これはとてつもないアドバンテージよ」


「張り倒されるのは怖いな。…しかし、縁を結ぶ…か」


 夫人はやれやれ、といった様子で歯切れの悪いヴァイツェッカー卿に更に追い討ちを掛ける。


「そもそも『私達』が最も魅力を感じたのは交易路の利益や、兵の維持なんかじゃないでしょう?」


 夫人は一度言葉を区切り一呼吸置いた。敢えて『私達』と言ったが、そこに異論がないと確認する為だ。


「それは『あの子自身』よね。あの子は自分にどれ程の価値が有るのかまるで理解していないわ。取り込むのなら早ければ早いほど良い。貴方もそう思ったからこそ『書庫』に向かわせたのでしょう?」


「…不満か?」


「まさか!むしろ安心したわ。貴方の事だから本気でどこにもやらないのかと思っていたもの」


「私は複雑な気分ですね。確かに優秀なのでしょうがその人となりは計りかねます。それに早すぎるのでは…」


 フェルマーがこれだけは言っておかねば、と口を挟む。


「遅いくらいよ。今まで何件も話は有ったのにあなた達2人の所で止めていたでしょう?どうしてうちの男達はこう過保護なのかしら」


「母上、それは違います。父上は分かりませんが私は慎重なだけであって決して過保護という訳では―――」


「おんなじよ」


 いつもより幾分か早口なフェルマーを夫人は一言でバッサリと切り捨てた。


「…先行投資と言っていたな」


 ポツリと呟き、ヴァイツェッカー卿は自分に言い聞かせるように言葉を続ける。


「貴族にとって先行投資と言えば最も一般的で古典的、そして効果的な物がある。それは………」









「うわぁ…」


 書庫の扉を開けたアルは思わず感嘆の声を上げた。


 薄暗い書庫内は床から天井まで、ぎっしりと隙間なく本の収まった本棚が所狭しと並べられていた。ざっと見ただけでも数百冊、いや千冊は有るかもしれない。


「すごい…」


 あまりの本の量に語彙力を失ったアル。

 熱いため息を漏らしながらふらふらと近づき、手近な本を一冊本棚から抜いてみる。

 それはズシリと重く、しっとりとした立派な革の装丁がされた本だった。


 しばらく表紙の手触りを確認していたアルだが、何を思ったのか突然顔を本に近づけ、その匂いを嗅いだ。


「良い匂い…」


 アルは恍惚の表情でそう呟く。

 紙と言うよりも革の匂いだ。しかしその奥にわずかにインクの香りがする。アルの知っている本とは匂いが大分違うが、それでも本は本だ。


 すーはーすーはーと深呼吸を繰り返し、本の匂いを堪能していたアルはようやく満足したのか題名を確認しようと目を凝らす。文字が薄くなっていたが、そこには『歴史 III』と書かれていた。


「歴史…」


 本棚に目を戻すと本の抜けた穴の横には歴史の1巻と2巻が有った。どうやら全3巻のようだ。アルは躊躇無くその2冊も引き抜く。

 幼い腕に3冊の本は重い。しかし本の事で頭がいっぱいになっているアルにはその重さすら愛おしい。


 ちなみにこっそりアルの様子を伺っていたヴァイツェッカー卿の側近はその一連の行動にドン引きしていた。幸いアルの目には入らなかったようだが。


 アルは本を抱えたままどこか座れる場所が無いかときょろきょろと首を巡らせる。正直今すぐ床に座り込んで本を読みたいのだが、ヴァイツェッカー卿の側近が入り口に控えているので流石に思いとどまる。それに薄暗いので何か灯りが欲しい。

 そうやって室内を歩いていると不意にひんやりとした風を感じた。


 換気のために窓が開いているのだろうか。

 特に不審に思うこと無くアルがそちらに目を向けると、本棚の角を曲がった先から光が漏れていた。






「貴族にとって先行投資と言えば最も一般的で古典的、そして効果的な物がある。それは………」


 ヴァイツェッカー卿が執務室でそう言葉を続けた時、書庫にいたアルは光に誘われる様に本棚の角を曲がった。するとその先では思った通り窓が開いていて、外の光と風が入って来ていた。


 しかしそれだけでは無い。そこには―――






「それは?」


「それは?」


 妻と息子からの『さっさと言ってしまえ』という視線に耐え切れなくなったヴァイツェッカー卿は、不承不承といった様子で言葉を紡ぐ。


「………婚姻だ」






「…だれ?」


 ―――そこには窓からの陽を浴びて佇む、輝くような少女がいた。











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[一言] アルの浮気者~~~~~!!(アイネイアの叫び)
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