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竜骸の国  作者: 宵野 綴
本編
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2/4

落盤

 三つ目を叩いた拳の節を壁から離して、耳を寄せた。


 坑道の壁は白っぽく、燭台に近いところだけが黄ばんで見える。ガルムの坑夫はこの壁を骨と呼ぶ。岩と呼ぶのはよその州から来た役人くらいのものだ。どれほど深く掘っても、どこかの骨の中を掘っている。叩いた音は骨の奥へ入っていき、奥のどこかで何かに当たって、こちらへ戻ってくる。返りの速さと高さで、骨の中に何があるかが分かる。灯骨の筋があれば澄んで高く返る。空洞があれば濁って遅い。脆くなった層があれば、二つに割れて返る。


 そのとき返ってきた音は、そのどれとも違う返り方をした。


 低かった。腹の底に溜まるような低さで、一度返ってきて、終わったと思ったところで、もう一度、少し遅れて返ってきた。二度目は一度目より低く、長かった。その音のあいだだけ、坑道の空気が少し重くなって、燭台の炎が背を縮めた。


 父が教えた音だった。


 坑夫の数え歌には七つの節がある。一つ掘っては家のため、二つ掘っては子のため、と続いて、七つ目の節だけが他と違う。七つ鳴ったら帰れ、帰れ。父は私が十になった年から、木槌で坑道の壁を叩いて、返ってくる音を一つずつ数え歌の節に当てはめて覚えさせた。父は歌えば節を外す人なのに、木槌で叩く拍だけは、一つも外さずに叩いた。この音は一の節、この音は三の節。七つ目の節の音だけは叩いて聴かせようがなかった。父も、生まれてから一度しか聴いたことがないと言っていた。返りが二度来る。二度目のほうが低い。そういう音だ、と口で言っただけだった。


 もう一度叩こうとして、手を止めた。


 隣で、父が歌っていた。


 冬至の祭りの晩に女たちが歌う恋の歌を、坑夫の数え歌の節で歌っていた。合っているところが一つもないのに、父は機嫌がよかった。前の日に、ハルが初めて一人で井戸の釣瓶を上げたからだ。九つの子が桶一杯の水を一度もこぼさずに上げた。ハルは夕飯のあいだじゅうその話をして、父は三度、同じ話に感心してみせた。


「父さん」


「なんだ、ミラ」


 父は鶴嘴を肩に担いだまま振り向いた。燭台の明かりが父の髭の白いところを光らせていた。四十五になって、父の髭は半分白くなっていた。


「七つ目」


 父は笑った。


「七つ目なんか、そう鳴るもんか。俺だって一度しか」


「二度返った。二度目が低かった」


 父の笑い顔が、途中で止まった。


 父は鶴嘴を肩から下ろして、私が叩いたところに自分の拳を当てた。節で三つ。私よりずっと太い指の節で、ずっと重い音で叩いた。それから壁に耳を寄せた。父の目は燭台の明かりの中で、坑道の壁のずっと奥のどこかに据わったまま動かずにいた。


 坑道の奥から、ドーガの組の鶴嘴の音が聞こえていた。奥の切羽まで、曲がり角を二つ越えて百歩ほどある。前の日に見つけた灯骨の筋を、六人で掘っている。鶴嘴の音は六つ重なって、ずれて、また重なって、坑道を伝ってここまで届いていた。


「上がれ」


 父が言った。壁から耳を離さずに。


「縦坑へ。梯子を上がれ。上で鐘を鳴らせ」


「ドーガさんたちは」


「俺が行く」


 父は鶴嘴を拾い上げた。拾い上げる手が少しだけ遅かった。父は去年の秋、落ちてきた岩で左の膝を割っていた。坑道の中を歩くぶんには、今まで通りに歩けた。走ろうとすると、右足ばかりで跳ぶような走り方になる。その走り方で、父は先月、坑口の前の雪の坂で二度転んで、ハルに笑われていた。


 縦坑は、ここから入口の側へ五十歩。梯子の脇に、鐘を鳴らす綱が垂れている。奥の切羽は百歩。


 父の膝を見た。それから、坑道の奥の暗がりを見た。


 父の走り方で百歩行って、六人に知らせて、六人を連れて戻ってくる。その間に七つ目の音が何を連れてくるのか、十七の私には見当もつかずにいた。それでも、二度目の返りのあの低さを、私はまだ腹の底に抱えていた。


 足が先に動いた。父の脇を抜けた。


「ミラ!」


「父さんが上がって。鐘を」


 振り返らずにそう言って、それから一度だけ振り返った。


 父は鶴嘴を持ったまま、坑道の真ん中に立ってこちらを見ていた。口が動いていた。何かを言っていた。その声は、奥から届くドーガの組の鶴嘴の音に紛れて、私の耳の手前で消えた。唇の形だけが見えた。口を少し横に引いて、それから丸く閉じる形だった。


 何と言ったのかを、私は今も知らない。


 あれから五十三年、その唇の形を何度も思い出してきた。思い出すたびに、ひどく痛む右手の節を左手で包んで、窓の外の暗い湖のほうを向いて、いろいろな言葉をその形に当てはめてみる。どれも少しずつずれる。父は言葉を選ぶ人とは程遠かったから、ずれるのは、私がうまい言葉を当てはめようとしすぎるせいかもしれない。


 前を向いて走った。


 最初の燭台の明かりの輪の中に、壁の窪みに載せた布の包みが一つあった。父の昼の弁当だった。黒麦のパンと、塩をした干し魚と、ハルが前の晩に、父さんの分だと言って包みに押し込んだ炒り豆がひと握り。その包みの脇を、私は止まらずに走り抜けた。


 坑道の床には荷車の轍で二本の溝ができている。溝の間の盛り上がったところを走ると、足が滑りにくい。父がそう教えた。坑道の冷えた空気が喉に刺さって、息が白く千切れて後ろへ流れていった。燭台は二十歩おきに壁の窪みに据えてあって、その明かりの輪から輪へ、私は跳ぶように走った。灯りの匂いは奥へ行くほど濃くなった。


 最初の曲がり角を越えたとき、背中のほうで、父がまた歌い始めた。でたらめの恋の歌だった。父が縦坑へ向かって歩きながら歌っているのだと、私は思うことにした。歌っていれば、自分が無事だと、走っていく娘に聞かせられる。父はそういうことを考える人だった。


 二つ目の曲がり角の手前で、その歌が途切れた。


=== 投稿区切り(第一章 その1 ここまで)===


 歌のあとを追うように、坑道じゅうの音が一度に引いた。ドーガの組の鶴嘴の音も、自分の足音も、燭台の灯骨がかすかに爆ぜる音も。耳の奥が詰まったように静かになって、その静けさの底から、さっき壁が返した音と同じ低さの唸りが、足の裏を通って上がってきた。


 それから、坑道が鳴った。


 骨が軋む音だった。湿った太い枝をゆっくり折るときの音に似ていた。天井から白い粉が細い筋になって降ってきた。足元の床が一度、横に滑るように動いた。壁に手をついて、曲がり角を越えた。


 切羽の明かりが見えた。六人が鶴嘴を持ったまま天井を見上げていた。ドーガが一番手前にいた。太い腕に鶴嘴をぶら下げて、口を開けていた。


「七つ目!」


 叫んだ。


 坑道の中で大声を出すなと、坑夫の子は物心つく前から教えられる。岩が声を返して、返った声が岩を緩める、と。そのときの私には、そんな教えはどこか遠い、他人の家の決まりごとのように思えた。


 ドーガは私の顔を見て、それから切羽の右手の壁を見た。そこに、人の背丈ほどの低い穴が開いている。掘りかけて放ってある退避坑だった。


 ドーガは鶴嘴を放り出して、私の腕を掴んだ。


「入れ」


 囁き声だった。ドーガは地上では町の端まで届く声を出す男で、坑道に入ると、どんなときでも囁き声になる。その囁き声が、今まで聞いたどの声よりも速かった。


「全員入れ。頭を下げろ。灯りを持て」


 六人と私が、退避坑に転がり込んだ。最後の一人が足を引き込んだとき、背後で坑道が落ちた。


 耳が内側から押されて、何も聞こえなくなった。退避坑の入口から白い粉が渦を巻いて吹き込んできて、燭台の明かりを一度だけ揺らした。灯骨の灯りはそれでも点いていた。消えずにいるのが灯骨だった。粉がおさまると、退避坑の入口は、天井から崩れた骨の塊で、人の腕一本ぶんの隙間を残して塞がっていた。


---


 しばらく、誰も口をきかずにいた。


 燭台の明かりの中で、七人の顔が白い粉にまみれていた。皆、咳をしていた。咳の音が狭い退避坑の壁に当たって、何重にも返ってきた。


 ドーガが一番最初に囁いた。


「数えろ」


 誰かが自分の名を言った。次の者が言った。六人と私で、七つ。ドーガは一つずつ頷いて、最後に私を見た。


「親父は」


「縦坑へ」


 ドーガは塞がった入口の隙間を見た。隙間の向こうは暗かった。


 しばらくして、若い坑夫の一人が、震える声で言った。


「出られるのか、俺たち」


 ドーガは鼻から息を吐いた。それから、その若いのの肩に手を置いて囁いた。


「出られるさ。ここで死んだら、お前の女房の尻を、俺が代わりに触りに行けなくなる」


 若いのは少し間を置いて笑った。笑ってから、泣いた。他の者も笑った。笑い声は囁きくらいの大きさで、それでも退避坑の壁がそれを返して、少しだけ大きくなった。


 退避坑の奥の壁に手を当てた。


 拳の節で、三つ叩いた。耳を寄せた。澄んで、高く返った。左へ二歩寄って叩いた。返りが早く、少し割れていた。脆い層が近い。


「ドーガさん。ここ、薄い」


 ドーガは私の叩いたところに手を当てて、自分でも叩いた。坑夫頭の拳で。それから私の顔を見た。


「親父に教わったのか」


「うん」


「あいつ、歌はあれでも、耳だけはよかったからな」


 ドーガの鶴嘴は切羽に放り出したままで、六人のうち鶴嘴を持って逃げ込めたのは二人だけだった。二本の鶴嘴で、交代で、私が叩いて薄いと言ったところを掘った。私は掘る者の後ろで、少しずつ場所を変えて壁を叩き、返りの割れが大きくなるほうへ、指で印をつけていった。


 どれくらい掘っていたのか、その時の長さだけが、すっぽりと抜け落ちている。灯骨の燭台が半分ほど燃えた。三度、退避坑が揺れて、三度とも、皆が掘る手を止めて天井を見上げた。三度とも、天井は持ちこたえた。そのたびに、ドーガが私のほうを見た。私は壁を叩いて、まだ割れていない、と言った。


 壁に拳ほどの穴が開いた。穴の向こうから、冷たい風が入ってきた。古い坑道の、もう掘り尽くして使わずにいる枝坑だった。そこから縦坑の脇の、古い梯子へ出られる。


 最後に梯子を上がったのはドーガだった。私は先に上がって、坑口の外の雪の上で、ドーガが上がってくるのを待った。


---


 坑口の前に、町の半分が集まっていた。


 女たちが毛布を持って立っていた。縦坑の上の鐘は黙ったまま吊られていた。鳴らすはずの者が、上がってこなかったからだ。それでも町の者は、揺れで坑道が落ちたと分かって集まっていた。


 人垣の中から、ハルが走ってきた。九つで、私の腰ほどの背丈で、裸足だった。雪の上を裸足で走ってきて、私の腰に頭からぶつかった。


「姉ちゃん」


「靴は」


「父さんは?」


 口を開けたまま、言葉が出てこずにいた。ハルはもう一度訊いた。父さんは。それから、私が黙っているので、三つ目を訊いた。父さんは、まだ下にいるの。


 ドーガが私の後ろから、ハルの頭に手を置いた。地上に出たのに、まだ囁き声だった。


「まだ下だ。これから迎えに行く」


 その晩、長屋の寝床で、ハルは私の腕にしがみついて眠った。眠りながら、何度か小さく唸った。私は目を開けたまま、天井の梁の木目を数えていた。ハルの瞼の下で、目がせわしなく動いているのが、薄い明かりの中で見えた。


---


 父が見つかったのは、翌日の昼だった。


 縦坑から本坑へ下りて、入口の側へ五十歩ほど戻ったところだった。縦坑まで、あと十歩もないところだった。天井から落ちた骨の塊の下に、父は鶴嘴を胸に抱えるようにして、うつ伏せになっていた。


 坑夫たちが塊をどけるあいだ、私は少し離れたところに立っていた。ドーガが私の前に立っていた。私に見せないように、太い背中で隠していた。


 鶴嘴は刃のほうが折れて、柄だけが父の腕の中に残っていた。


 ドーガがそれを父の腕から外した。外して、柄の泥を掌で拭って、何も言わずに、自分の背負子の脇に差した。


 父の体が運び出されたあと、父の倒れていたところへ行った。崩れた骨の塊の一番下に、白いものが一つ覗いていた。灯骨の欠片だった。天井が落ちたときに、骨の層の奥から剥がれて出てきたのだろう。拳ほどの大きさで、角が欠けていた。


 しゃがんで、手に取った。


 掘り出したばかりの灯骨は、坑道の冷えをそのまま持っていて、いつも指が痛むほど冷たい。十の年から、それを何百と手に取ってきた。


 その欠片は温かかった。

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