灯りのない町
窓の桟に氷が張っていて、押すと、薄い膜が割れるような音がした。
隙間は指二本ほど開いたところで止まった。それで足りる。夜の湖から吹いてくる風が隙間から細く入ってきて、机の上の油の灯りを一度だけ横に倒した。魚の脂を燃やす灯りだから、炎は低く、煙は黒くて、少しだけ生臭い。五十年使ってきて、この匂いには今も鼻の奥が少し縮む。
まだ起きていますか、とあなたに訊いた。
湖は凍っていて、月の光を返していた。氷の上を、風が雪を少しずつ運んで、岸のほうへ寄せていく。返事のないのはいつものことで、私はそれを、まだ寝ていないという意味に取ることにしている。寝ているなら、湖はもっと静かなはずだから。
外套を羽織って、戸の閂を外した。閂は古い木の柄で、端のほうが手の脂で黒く光っている。もとは何かの道具の柄だった。何の柄だったのかを、私は覚えている。覚えていることのほうが少なくなったこの頃、それを覚えているのは、悪くない気分だ。
岸まで、二十歩ほど歩く。
膝が鳴る。去年までは十八歩だった。雪の上に足跡をつけて、氷の縁でしゃがんで、右の手を外套から出した。
拳の節で、氷を叩いた。
三つ叩いて、耳を寄せた。氷の下の水が音を遠くへ運んでいって、返ってくるまでに少しかかる。返ってきた音は低く、少し濁っていた。去年の冬より低い。眠りが浅くなっているときの音だった。
もう一度、三つ叩いた。同じ音が返ってきた。
この湖のほとりに越してきた最初の冬、氷を叩いて返ってきた音は、もっと高く、澄んでいた。張りつめた弦を指で弾いたような音で、返ってくるまでの間も短かった。私はその音を聴いて、ようやく眠れるようになった。それまでの何年か、私は夜になるとろくに眠れずにいた。
それから毎冬、最初に氷が張った夜と、一番寒い夜と、氷が緩み始める夜に、三つずつ叩いて、返ってきた音の高さと長さを、引き出しの紙に書きつけてきた。書き方は、坑道の壁の音を父に教わったやり方で書き表すことにした。高い、低い、澄んでいる、濁っている、返りが早い、遅い。父は私に、岩の音を坑夫の数え歌の節に当てはめて覚えさせた。数え歌の節は七つあって、七つ目の節の音が返ってきたら、すぐに坑道を出ろ、と父は言った。五十年分並べると、音は、ゆっくりと、低いほうへ下りてきている。
あなたは、私の声より、氷を叩く音のほうをよく聞いている気がする。だから私は、話を始める前に、いつも先に叩く。
手を外套に戻した。指の節が熱を持っていた。私の右手の節は、四つとも太く、少し外側に曲がっている。どの指も、伸ばそうとすると途中で止まる。町の医者は年寄りの手はそういうものだと言った。私は医者に、そうですね、と言った。
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小屋に戻ると、油の灯りがまた倒れかけていた。窓の隙間を、指一本分だけ狭めた。これ以上閉めると、あなたの声が聞こえにくくなる。聞こえたためしは一度もないのだけれど。
椅子に座って、膝に毛布をかけた。
話をしようと思う、とあなたに言った。
ずっと前から、そう言ってきた気がする。言って、話さずに朝になった夜が何度もあった。今夜は話す。理由を訊かれたら、こう答える。あなたが、近頃、忘れっぽくなったからだ。
氷の音で分かる。あなたは前より浅く眠っていて、浅い眠りは、覚えていたはずのものを少しずつ落としていく。私も同じだから、よく分かる。落としたものは、誰かが拾って、もう一度渡してやるものだ。
私が渡せるのは話くらいのものだ。
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この国の夜が明るかった頃の話を、若い人たちは笑って聞く。
五十三年前まで、王都の通りには灯りが並んでいた。ガラスの筒の中で、白い骨の欠片が、煙をほとんど立てずに、昼のように明るく燃えていた。灯骨と呼んでいた。腹のほうの州の坑道から掘り出して、荷車で運んで、街灯にも、家の竈にも、学者の机の灯りにも使った。冬は家の床下で焚いて、部屋を温めた。灯骨が一欠片あれば一冬を越せる、と言われていた。
その灯骨の灯りには匂いがあった。皆、灯りの匂い、と呼んでいた。甘いような、乾いた草のような匂いで、王都の誰の服にも髪にも、少しずつ染みついていた。坑道の中ではその匂いがもっと濃かった。私の生まれた町では、赤ん坊は皆その匂いの中で生まれて、その匂いの中で死んだ。灯りの匂いの中にいると、嫌なことを早く忘れられる、と大人たちはよく言っていた。葬式の晩には、いつもより多く灯骨を焚いた。
今の灯りは、魚の脂の匂いがする。
王都の通りの街灯は、今は油の皿を載せる台になっている。灯りが照らすのは足元の水たまりほどの広さで、王都の子供たちは、今は灯りの数より先に星の名前を覚える。
若い人たちに灯骨の話をすると、骨が燃えるものかと笑われる。笑われたら、私も笑い返すことにしている。燃えたのだ。白く、静かに、昼のように。
弟が五つか六つのとき、坑夫長屋の燭台の灯骨を、長いことじっと見ていたことがある。それから私の袖を引いて、訊いた。
それ、食べられる?
食べられない、と私は言った。弟は、じゃあなんでいい匂いがするの、と訊いた。私が口を開ける前に、弟はもう次のことを訊いていた。坑道の天井はなんで落ちてこないの。父さんはなんで歌が下手なの。姉ちゃんはなんで寝てるとき目が動かないの。
弟は問いの多い子だった。一つ答えると、三つ増えた。
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あなたに話そうとして、毎晩、最初に引っかかるのは母のことだ。
話は、母から始めるのが正しい。母がいたから、私は灯舎へ行き、歌のことを知り、ここに座っている。分かっている。分かっていて、今夜も、母からは始めずにおく。
母について覚えていることを、ここに置いておく。
灰色の袖。肘のところに、繕った跡が二つあった。繕いの糸だけが新しくて、少し白かった。手。指が長く、爪の先がいつも割れていた。坑夫の娘の手とは、指の長さが違った。声。低くて、少し掠れていた。歌うときだけ、掠れが消えた。
顔が、出てこない。
袖も、手も、声も、こうして話していると戻ってくるのに、顔のところにだけ、灯りの匂いのする白い靄のようなものがかかっていて、何度目を凝らしても、その向こうは白いままだ。若い頃はもう少し見えていた。どこかで落としたのだ。いつ落としたのかも、靄の向こうにある。
母の話は、もう少し先で、あなたに渡す。そこまで辿り着けば、たぶん、あなたのほうが先に思い出す。
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窓の隙間から入る風が、少し強くなった。湖の上の雪が月の光の中を斜めに流れていく。
机の引き出しに、紙の束がある。この五十年のあいだに、思い出したことを、思い出したときに書きつけてきたものだ。字はひどい。手の節が曲がってから、もっとひどくなった。読み返すと、同じことを三度書いている頁がある。違うことを書いているのに、同じ日付になっている頁もある。どれが本当なのか、自分でも決めかねている頁が、いくつもある。
十日に一度、町から若い人が油を届けに来る。その人に、紙の束を読ませてほしいと頼まれたことがある。私は断った。紙に書いたことは、紙の形のまま相手に渡る。紙に書けなかったことのほうに、本当に渡したいものがある気がする。
束をほどかずに、引き出しを閉めた。
油の灯りの芯を、指で少しつまんで引き出した。炎が少し高くなって、黒い煙が天井へまっすぐ上った。梁の、煙の当たるところだけが、五十年分、黒く光っている。
風の音が少し変わった。立って、戸の閂の柄を指で一度撫でて、それから椅子に戻った。毛布を膝にかけ直すと、毛布の端に、さっき岸で付いた雪が溶けて、冷たい染みになっていた。
十七の冬から話す。
腹の州の、ガルムという町だ。坑道の町で、町の半分は地面の下にあった。あの冬、坑道で最初の揺れが来た。揺れは、それまでにも何度もあって、坑夫たちは、骨が鳴った、と言って笑っていた。あの冬の揺れは、それまでのどれとも違う揺れ方をした。
父はその日、私の隣で歌っていた。歌詞もでたらめなら、節もでたらめだった。坑道の中では父の歌はいつも少し大きく聞こえた。岩が声を返すからだ。
私は壁を叩いていた。拳の節で、三つ。耳を寄せて、岩の中の音を聴いていた。
あの日、岩は、聴いたことのない音を返した。
窓の外の湖に向かって、私は言った。
どこから話せばいいのか、あなたのほうがよく知っているはずだけれど。




