第6話 僕の婚約者は、今日もかわいい
また、ランクインできるように頑張ります
「お兄様」
執務の勉強をしていた僕は、不意に声をかけられて本から顔を上げた。部屋の扉を開けて入ってきたのは、妹のエリカだった。
「どうした?」
「セラのところへ今日は遊びに行ってきたのですけれど」
その言葉を聞いた瞬間、自分でも分かるほど自然と頬が緩んだ。
「そうか」
正式な婚約者になってからも交流は続いているけれど、最近は僕自身が侯爵嫡男として学ぶことも増え、バルディア伯爵家を訪れて彼女とゆっくりお茶をする時間は、月に一度か二度ほどになっていた。
それでも、彼女の邸を訪れるたびに、セラは花が咲いたような笑顔で僕を迎えてくれる。その笑顔を見るだけで「また頑張ろう」と思えるのだから、我ながら現金なものだ。
(セラは、本当に……かわいいな)
妹の前だというのに、だらしなく顔が緩んでいる自覚はある。けれど、仕方がない。好きな人の話を聞いて、平静でいられるほど僕は器用ではないのだから。
「それでね、お兄様」
エリカがくすくすと笑いながら、手にしていた一冊のノートを机の上へ置いた。
「これを見てほしいのだけど」
「?」
見慣れないノートだった。怪訝に思いながら表紙へ視線を落とすと、そこには丁寧な文字でこう書かれていた。
――『小説の中である証拠のノート』
「…………」
思考が一瞬停止した。あまりにも予想外な題名だったからだ。
「セラが作ったのよ。私も一緒に探すのを手伝う約束をして、今日だけ特別に借りてきちゃった」
「……何のために?」
「この世界が小説の中っていう証拠を集めるためですって。しかも恋愛小説なんですってよ」
エリカは肩を揺らして笑った。
「セラね、本気でこの世界が本の中の世界だと思っているのよ」
「…………」
僕は言葉を失った。彼女の考えることは、ときどき僕の想像を遥かに超えてくる。いや、もちろん、それも彼女らしいと言えば彼女らしいのだが。
「ほら、中身はこんな感じよ」
エリカが楽しそうにページをめくり、僕はそれをのぞき込んだ。そこには、見事な字で箇条書きが並んでいる。
『証拠①:王侯貴族がいる』
『証拠②:冒険者ギルドがある』
(……ここまでは、まあ分かる。僕自身、侯爵家の人間なのだから)
この国に王侯貴族が存在することも、冒険者ギルドがあることも厳然たる事実だ。ただ、それをなぜ「小説の証拠」と呼ぶのかは、僕の頭では到底理解できない。
そして、次の項目を見た瞬間、僕は思わず固まった。
『証拠③:婚約者が冷徹。初対面で盛大に塩対応された』
「…………」
「どう? お兄様」
エリカが楽しそうに尋ねてくる。
「いや……どうと言われても困る」
思わず右手で額を押さえた。胃のあたりもキリキリと痛み出す。
冷徹?
塩対応?
……僕が?
「セラは本気なのよ。ここは前世で読んだ恋愛小説の世界で、自分は悪役令嬢っていう役割なんですって」
「……悪役、令嬢……?」
聞いたこともない言葉だった。彼女のどこを見れば、悪役なんて物騒な言葉を思いつくのだろうか。
「あとね、お兄様はセラを嫌っている「設定」なんだそうよ」
「……は?」
思わず声が裏返った。勢いよく椅子から立ち上がりそうになるのを必死で抑え、妹を睨みつける。
「嫌ってなどいない! むしろ、僕はセラのことが――」
「うん、知ってる」
妹は呆れたように、けれど楽しそうに笑っている。
「お兄様がセラを大好きなことなんて、見ていれば誰でも分かるわよ」
「……じゃあ、なぜそんな誤解を」
「一応ね、私もお兄様のためにフォローはしたのよ?」
エリカは肩をすくめた。
「『そんなことないと思う。お兄様はセラのことが好きよ』って。でも、全然信じてもらえなかったわ」
「なぜだ……」
「それどころかね」
エリカは楽しそうに続ける。
「『悪役令嬢モノにおいては、婚約破棄を告げられるその瞬間までは、ヒーローは義務として優しく接してくる設定なんですわ!』ですって」
必死で弁解しようとする僕を、エリカは少しだけ哀れむような目で見てきた。けれど、セラのぶっ飛んだ斜め上の理論を思い出したのか、すぐにまた堪えきれずに吹き出している。完全に面白がられている。
「…………」
僕は深いため息をつき、再び椅子に深く腰掛けた。
僕がセラに優しくしているのは、義務でも演技でもない。ただ、彼女を心から大切に思っているからだ。
(それは設定じゃない。僕の素の感情だ……)
初めて会った日のことを思い出す。
あの日、僕はただ、彼女のあまりの可愛らしさに完全に言葉を失っていただけだった。透き通るような瞳。柔らかな笑顔。初めて会った相手だというのに、なぜか目を離すことができなかった。
心臓がうるさいほど鳴っていて、それを悟られないように必死で平静を装った結果――不愛想な態度のまま耳まで真っ赤にするという、今思えば最悪の対応をしてしまったのだ。
その結果が「冷徹」「塩対応」……どうしてそうなるんだ。
「お兄様。それからここ。読んでみて」
エリカの声に意識を戻す。指差された先を見ると、そこにはまた理解不能な文字が並んでいた。
『証拠④:学院に立派な噴水広場がある(断罪イベント用)』
「……断罪イベントって、何?」
「セラ曰く、ヒロインとヒーローが運命の出会いを果たす場所で、悪役令嬢が大勢の前で婚約破棄を告げられるんですって」
「……ヒーローとヒロインの運命の出会い?」
ますます意味が分からない。
「さあ? 私もよく分からないわ。でも、言っている内容は悲しいはずなのに、セラってばすごく楽しそうだったの」
「…………」
「楽しそうだった」その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。セラは、本当に自分がそんな未来を迎えると思っているのだろうか。僕が彼女との婚約を破棄するなど、あり得ないというのに。
「だいたい、僕はセラとの婚約破棄なんて、絶対しない」
思わず口に出ていた。するとエリカは、当然のことのように頷いた。
「うん。知ってる」
「……」
「でも、セラってばそこも本気で信じているみたいだから。お兄様、頑張って?」
「……絶対、しない」
もう一度、自分に言い聞かせるように強く言い切る。
僕は彼女を手放すつもりなど、最初から一度もない。それなのに、彼女だけが違う未来を信じている。本当に、彼女の盛大な勘違いだ。
◇◇◇
数日後。僕はバルディア伯爵家を訪れていた。
庭園へ向かうと、セラが花を眺めながら歩いている姿が見えた。エリカから密かにノートを返してもらったらしく、手には曰くつきの、あのノート――『小説の中である証拠のノート』がしっかりと握られていた。
「こんにちは、クロード様」
僕に気づいた彼女が、嬉しそうに微笑んでくれる。その瞬間、胸の奥が大きく跳ねた。
(――っ! 僕の婚約者は、今日もかわいい!)
何度会っても慣れることはない。むしろ、会うたびに好きになる気がする。そんな溢れそうな気持ちを隠しながら、僕は彼女の隣へ並んだ。
それからガゼボへ誘い、一緒にお茶を飲むことにした。いくつか他愛ない会話を交わしたあと、僕は意を決して口を開いた。
「セラ」
「はい?」
「…… 僕は、君のこと、嫌いじゃないよ」
言葉にすると、思った以上に恥ずかしかった。けれど、誤解は早いうちに解いておくべきだ。僕がどんな気持ちで彼女に接しているのか、少しでも伝わればと思った。
しかし――
「はい!」
返ってきたのは、驚くほど元気な返事だった。
(伝わった……?)
そう思ったのも束の間。
「知っていますわ」
「え……? ああ、分かってくれたなら――」
「だからこそ、小説の記述通りなんですのね!」
「……は?」
嫌な予感がした。彼女は自信満々に、僕にこう言ってきた。
「安心してくださいませ、クロード様。わたくし、自分が悪役令嬢であると自覚しておりますので!」
「……」
(……僕は、何を安心すればいいのだろう? ……そして、悪役令嬢だと自覚するって……)
僕は彼女を見つめながら、頭の中で必死に考えた。けれど、答えは出なかった。
……でも、そんな不可解なことを言いながらも、誇らしげに笑う彼女は、どうしようもなく可愛かった。
言っている内容が壊滅的に理解できないことを除けば、今すぐ抱きしめたい。そのくらい、独り納得して満足そうに頷いているその顔が、たまらなく愛おしい。
「婚約破棄をされるまでは、皆さま義務で優しいものですわ。だから、ちゃんと証拠を集めますわね!」
「……っ!?」
(違う。違うんだ、セラ。僕が君に優しくするのは、義務なんかじゃない。君を大切に思っているからだ……)
そう伝えたい。けれど、目の前で嬉しそうに笑っている彼女を見ると、その笑顔を曇らせる言葉を口にすることができなかった。
「今日は一つ、決定的な証拠が増えましたわ!」
そう言って、彼女は楽しそうにページを開く。それは、あの『小説の中である証拠のノート』だ。本当に嬉しそうに、楽しそうに瞳を輝かせながら、ペンを取り出して記入していく。
「――クロード様が、わたくしに優しい」
さらさらと、美しい文字が書き込まれていく。
『証拠⑥:婚約者は婚約破棄するまでは優しい。仮面の優しさ』
「…………」
(絶対に違う。それは仮面なんかじゃない。僕の本当の気持ちだ)
けれど、そう言い返そうとして、僕は口を閉じた。満足そうに微笑む彼女が、まるで大切な宝物を見つけた子供のように、嬉しそうにしているから。
勘違いの規模は、国家予算級だと思う。本当なら、今すぐ訂正するべきなのだろう。
(……まあ、いいか)
目の前でノートを書き終えた彼女の「出来ましたわ!」と達成感に満ちた弾けんばかりの笑顔を見つめていたら、なんだかもう、細かな理屈はどうでもよくなってきた。
僕は君を嫌っていない。義務で優しくしているわけでもない。でも――
「クロード様?」
不思議そうに首を傾げる彼女を見ると、どうしても強い言葉を使えなかった。今はまだ、彼女がこうして笑っていて、その笑顔を僕が守れるならそれでいいと思ってしまう。
「うん?」
「浮かないお顔をされていましたけれど、何かありましたの?」
彼女にそう尋ねられて、僕は小さく首を振った。
今は、これでいい。
「ううん。紅茶を飲むと、美味しいっていうか、嬉しいっていうか……。うん。紅茶、美味しいね」
不思議だ。いつも飲んでいる紅茶でも、こうやって一緒に笑顔で飲む紅茶は本当に美味しい。
「ふふふ。そうなんですの? そういえば、わたくし、この間クッキーを焼きましたの」
「……え? セラが、焼いたの?」
「はい。料理長と一緒に焼いて、美味しいってお墨付きもいただきましたの」
「……は?」
(この間、セルジオが言っていた『セラと一緒に食べたクッキーが美味しかった』っていうのは、もしかしてこのことか!? セラの手作りだなんて……僕は聞いてないぞ?)
「今、紅茶が美味しいって言うクロード様の言葉で思い出しましたの!」
「そ、そう……」
「ええ! セルジオもお母様もお父様も、エリもとっても喜んでくれましたわ!」
「……っ」
(……エリカも、食べたのか……そうか……)
「あの、今度、クロード様にも焼いてお持ちしてきてもいいですか? ……手作りですけれども」
「っ! もちろんだ。楽しみにしている」
(なんだ、この、絶望から希望への逆転劇は!)
僕は思わず膝の上でこぶしを握り締めてしまった。セラが焼いてくれるクッキー。それだけでまた僕は頑張れる気がする。
「よかったですわ。今度、焼いてきますわね。あの、それで、クロード様。また何か、世界のことで怪しい証拠が見つかったら、わたくしに教えてくださいませね?」
「……ああ、分かったよ」
「ありがとうございます!」
ひまわりが咲くような笑顔。それを見ながら、僕は静かに思った。
(たぶん、次に見つかる証拠もまた、盛大な勘違いなんだろうな)
そう思っているのに。その勘違いさえ――
もう少し見ていたいと思ってしまう。
この日から――僕はきっと、彼女のかわいい勘違いに付き合い続けることになるのだろう。そんな未来を、この時の僕はまだ知らなかった。




