第35話 わたし、勘違いしてました!
パン工房に充満する、香ばしくも少しほろ苦い匂い。
「はぁ……」
わたしは小麦粉で白くなったエプロン姿のまま、作業台の上で一人、本日何度目になるか分からない大きな溜息を吐き出した。手元にあるのは、火加減を少し間違えて端っこが黒く焦げてしまった、売り物にはならない失敗作のパン。
その焦げたパンをぼんやり見つめながら、わたしはここ数日、何度も何度も脳内再生を繰り返していた「あの日の光景」を再び思い浮かべていた。
学院の中庭、木陰のベンチで仲睦まじく寄り添い、お互いに甘い眼差しを交わし合うクロード様とセラフィーナ様。
そのあまりにも完璧で、誰も割り込めない本物のラブラブ空間を遠目から呆然と見つめていたあの瞬間――。
風にそよぐ花びらと、二人を祝福するかのような温かな光。
(……なるほどね。悟ったわ)
そしてあの時、学院の門の前でわたしが目撃したクロード様の逃走劇。あれは、ただただ『一刻も早くセラフィーナ様に会いたい!』という、彼の激重すぎる愛ゆえの暴走だった。
わたしの名前を呼んでいると思っていたのも完全な聞き間違いで、彼の瞳には最初から最後までセラフィーナ様しか映っていなかった。
(……っていうか、学院の門を破壊せんばかりの顔で脱走しようとしていたあのクロード様が、まさかただの激重な愛妻家予備軍だったなんて! あの逃走劇の原因が『セラフィーナ様に会いたい病』って、冷静に考えたら重症すぎるでしょう……!)
わたしは脳内再生を力ずくで停止させると、これまで繰り広げていた数々の恋愛小説風・運命の恋愛シミュレーションをまとめて脳内ゴミ箱へと投げ捨てた。
(――っ! ……わたし、勘違いしてました!)
今度こそ、目が覚めたわ。そもそも、最初から全部わたしの勘違いだったのだ。
「はああああぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」
二度目の溜息は、胸の底にある毒素をすべて吐き出すかのように長く、深く。
ツッコミを入れれば入れるほど、現実が突きつけられていく。
雨宿りで濡れたシャツの貴公子と肩が触れ合う?
路地裏で不良に絡まれたところを「僕のサラに手を出すな」と救出される?
(……起こるわけないじゃないの、そんな都合の良いドラマチックな展開!!)
よく考えたら、ここはおとぎ話でも恋愛小説の世界でもなく、地道に日々の生活が営まれている現実の世界だ。
高貴な侯爵家のご嫡男が、たかがパン屋の娘相手に「僕のサラ」なんて呼んで不良を薙ぎ払うなんて、ありえない。冷静になれば分かること。恋愛小説の読みすぎもいいところである。
(……っていうか、夜『あ、あたし……こんな身分違いの恋、ダメです……!』とか鏡の前で言ってみる練習をしてた過去の自分を全力で殴り倒したい!! 恥ずかしすぎて部屋で転げ回りそうだわ!!)
「はぁ……何やってたんだろう、わたし。恥ずかしすぎて顔から火が出そう……!」
自爆ダメージに身悶えしつつも、不思議と胸のつかえがスッと取れていくのが分かった。
クロード様は、わたしの「運命の人」なんかじゃなかった。彼は最初からセラフィーナ様だけの特別な人だったし、あの二人のお互いを愛おしむ空気感は、嫉妬する隙すら挟めないほど「ごちそうさまです!」と拝みたくなる尊さだったのだから。
「ふふ、勘違いだと早めに気づけて良かったわ! でも……なんだか、ちょっとスッキリしちゃったな」
わたしは作業台の上の、端っこが焦げてしまったパンを一つ手に取り、思い切りガブリとかじりついた。
口の中に広がるのは、少しのほろ苦さと、それ以上に香ばしくて優しい小麦の甘み。
「……うん、美味しい」
見た目は少し焦げてしまって、貴族様のお屋敷に届けるような『完璧な売り物』にはなれないけれど。中はふんわりと焼き上がっていて、噛めば噛むほど素朴で温かい味がする。
物語のヒロインみたいな完璧で劇的な、運命の王子様なんていなくたって、わたしには美味しいパンと、元気に働けるお店がある。
いつか王子様が馬車で迎えに来てくれるのを夢見るより、見た目は不格好でも、自分の足で歩いて、美味しいパンを焼き続けながら、わたしという人間をそのまま好きになってくれる素敵な誰かと出会う方が、ずっとわたしらしいじゃない!
「よしっ! 焦げた分も取り返すくらい、次の仕込み頑張ろっと!」
脳内で甘い雰囲気を振りまくおふたりに「お幸せに!」と心の中で別れの幕を下ろし、わたしはパン生地の入ったボウルを勢いよく抱え直した。
――そんな矢先に、厨房の入り口から、お母さんの明るい声が飛び込んできた。
「サラー! 鍛冶屋のジャックが来てくれたわよー!」
「えっ、ジャックが? はーい、今行く! ……って、お母さん、わたし今全身小麦粉だらけなんだけど!?」
エプロンだけでなく頬や髪にまで粉を散らした姿をパタパタとはたきながら、わたしは急いで店頭へと顔を出した。そこに立っていたのは、近所の鍛冶屋の息子で、幼馴染のジャックだった。筋肉質のがっしりした体格に、少し照れくさそうな笑みを浮かべてこちらを見ている。
「よお、サラ。……うわ、相変わらず粉まみれだな」
「もう、笑わないでよ! これでも一生懸命パン捏ねてたんだから。……で、どうしたの急に?」
ジャックは少し気まずそうに鼻の頭をかいた。実はここ数日、恋愛小説脳全開で運命の恋に惑わされていたわたしは、あからさまに心ここにあらずで、周りから見てもあからさまに落ち込んでいるように見えていたらしい。
「いや……その、お前、ここんところずっと元気がなかったろ? だからさ……気晴らしにどうかなと思って」
「え?」
「ほら、もうすぐ学院も進級の時期だろ? 街の広場でもちょっとした市が立つらしいし……その、進級して忙しくなる前に、ふたりで遊びに行かないか?」
まっすぐにわたしを見つめて誘ってくるジャック。……なるほど、わたしを励まそうとして来てくれたんだ。ジャックはわたしが一人で壮大な勘違いをして撃沈していたとはつゆ知らず、単に元気がないのを心配してくれていたのだ。なかなかやるな。さすができるモブ。
「あはは! 心配してくれてありがとう、ジャック。でもね、さっき大復活したから、もう全然大丈夫なの!」
「えっ、大復活……? いや、でもさ! せっかく市も立つし、美味しい串焼きの屋台も出るらしいぞ? お前、甘いものも好きだろ? たまには羽を伸ばそうぜ」
「うーん、気持ちは嬉しいんだけど、工房の手伝いもあるし……」
「そこをなんとか! おじさんとおばさんには俺から頼むからさ! な? 一緒に行こうぜ!」
普段はぶっきらぼうなジャックが、珍しく必死な顔で食い下がってくる。 そこまで言うなら断るのも悪いかな……と、わたしは苦笑いを浮かべた。
「ふふ、分かったわよ。そこまで言ってくれるなら、ご一緒させてもらおうかな」
「本当か!? よし、約束だからな!」
わたしが頷いた瞬間、ジャックの顔がパーッと明るくなった。
(ふふ、ジャックったら、友達想いなんだから。美味しいものでも奢ってもらおうっと!)
わたしにとっては親しい幼馴染と遊びに行くだけの約束。けれど、当のジャックにとっては、落ち込んでいる好きな子をなんとか連れ出すことに成功した、渾身のデートの誘いだったなんて、私が知るはずもない。
「じゃあ、当日は朝一番に迎えに来るから! じゃあな、サラ!」
満面の笑みを浮かべ、弾むような足取りで帰っていくジャックの背中を見送りながら、わたしは「さて、仕込みの続き!」と元気に袖をまくり直すのだった。
……そして、大復活した。とはいったけれど。
「……とはいえ、ね」
力強く小麦粉を捏ねながら、わたしはぽつりと呟いた。
「身分違いの侯爵様との運命のドラマチック大恋愛はバッサリ諦めたけれど……恋そのものを諦めたわけじゃないんだから!」
そう、わたしは恋に憧れるお年頃の乙女なのだ。恋愛小説に出てくるような、雨宿りの密着や不良からの華麗な救出劇みたいな奇跡みたいな恋は現実にはないかもしれない。けれど、もっと身近で、もっと温かくて、等身大の普通の恋なら……この日常のどこかに転がっているはずじゃない?
「たとえば……そうね!」
生地を打つ手にグッと力を込めながら、わたしの頭の中で新しい、そして今度は現実的なシチュエーションが広がり始める。
『サラちゃん、いつも早起きしてパン焼いててえらいね』なんて、朝一番に買いに来てくれる近所の爽やかな職人さんとか!
あるいは、『このパン、すごく美味しかったからまた来ちゃった』なんて、少し照れくさそうに常連になってくれる素朴な男の子とか!
「……うん、いい! すごくいいじゃないの!」
ドラマチックな出来事なんて起きなくてもいい。
「おはよう」って挨拶を交わすだけでちょっと胸がドキドキしたり、「美味しい」って笑ってくれた顔にキュンとしたり。お互いの仕事が終わった夕方、ちょっと下町の石畳を並んで歩きながらくだらない話で笑い合う……そんな普通の、でも甘酸っぱい恋!
「運命の王子様じゃなくていいの。わたしと一緒に美味しいパンを食べて『美味しいね』って笑い合える、そんな等身大のヒーローを自力で見つけてやるんだから!」
現実を見据えつつも、乙女心と乙女脳はちゃっかり大復活。ほっぺたに小麦粉をちょっとつけたまま、わたしはフフンと鼻を鳴らした。
「そしていつか、セラフィーナ様から「サラさんは素敵な恋人がいらっしゃいますのね。とてもお似合いですわ。わたくしも負けてられませんわ」とか言われたりして。そしてサラちゃん(セラフィーナ様だけれども)から「こんなにラブラブなカップル、わたくし見たことがありませんの。二人を見ているだけで、はちみつ仕立てのロールパンがいくつも食べられそうですわ」とか言われちゃうの! っきゃーー」
いつか出会うかもしれない「未来の素敵なだれか」に届けるために――わたしは今日も、とびきり美味しいパンを焼き上げるのだ!
……なお、先ほど必死の思いでデートの約束を取り付け、スキップしながら帰っていった幼馴染の存在は、わたしの未来のヒーロー候補リストに一ミリたりとも入っていないことを、ここに記しておく。




