第28話 僕の婚約者は、壊滅的にズルい
「……ハインツ。今日の放課後は、一刻も早く学院を離脱するぞ」
「承知いたしました、坊ちゃん。相変わらず重度のセラフィーナ様不足で限界なのは理解できますので」
「余計なことを言うな」
手帳を開く側近のハインツに冷ややかな視線を送りつつ、僕は王立学院の門を目指して歩いていた。
あの日、木漏れ日パン工房で起きたあの謎のサラ嬢事件以来、僕の胃はキリキリと痛み続けている。愛しいセラに会うためだけに潜入したはずなのに、なぜか平民の娘に名前を呼ばれ、セラには余計な誤解をさせてしまった。
一刻も早くセラの元へ行き、僕の清廉潔白さを証明しなければ――そう思っているのに、なかなかセラに会えない日々。学院には来ているらしいし、なんなら妹のエリカは毎日会っていると言うが、僕はあれから一度も会っていない。完全に避けられている! なのに――
「クロード様――っ!」
門を出た瞬間、どこかで聞いたような、不吉な声が響き渡った。
(なっ……!?)
振り向いた視線の先にいたのは、仕立ての良い街着に身を包み、目を輝かせてこちらへ駆け寄ってくるあの特待生――サラ嬢だった。なぜここにいる? なぜ僕を呼び止めた? なぜ駆け寄ってくる!?
サラ嬢は僕の前でぴたりと止まると、上目遣いをして僕を見つめてきた。
「この前は言いそびれてしまいましたが、わたし――ずっとクロード様をお待ちしておりましたの!」
「っ! な、なんだって……!?」
頭の中が真っ白になった。大勢の生徒が見ている学院の門の前で、堂々と待ち伏せの宣言である。
(違う! 違う違う違う! 僕はあの日、君を探していたんじゃない! そもそも名前を呼んだのだって――いや、確かに呼んだが! 呼んだのは事実だが意味が違う!!)
あまりの恐怖と焦りに呼吸が一瞬で止まった。
周囲の貴族生徒たちが「まあ、あの特待生がクロード様を……」「ずっと待っていたとおっしゃったわ!?」とざわめき始め、急速に血の気が引いていく。頭に酸素がいかなくなって顔がカッと熱くなった。
「ち、違う。名前を呼んだのは確かだが――」
「クロード様がお名前を呼んでくださった時、わたしは運命を感じました」
「っ! か、勝手に感じないでくれ……!」
「密かに平民のわたしのことを見そめ、名前まで調べて実家の木漏れ日パン工房に駆けつけてくださったのでしょう? 知ってます。私のことを、想ってくださったのですよね。今まで気づかずごめんなさい」
「違う。君のことを調べてもいないし、想ってもいない! だから、勘違いしないでくれ!」
サラ嬢は、僕のほうへ一歩、また一歩とにじり寄ってくる。僕の瞳から目を離さずに。
「もう、いいのです。そんな風に隠さなくても。身分差を隠すためにそのような態度をとることは、もうやめても大丈夫です。だって、皆さんが証拠です!」
「っ!?」
ぎょっとして周りを見ると、みんなが僕たちを遠巻きに見ていた。
一刻も早くこの場から逃げ出さねば、セラに変な噂が届いてしまう――!
「違う! 絶対違う!! 人違いだーーーっ!!」
「坊ちゃん。相手は確実に坊ちゃんのお名前を呼んでおりましたが」
「聞こえなかったのか、ハインツ!? 人違いだと言っただろう!!」
「承知いたしました。では、本日の記録には「侯爵家嫡男、特待生令嬢に名前を呼ばれ、全力で人違いを主張して逃走」と」
「書くな!!」
「主からの命令でも、これに関しては承知しかねます」
「っ承知しろ!!」
僕は気品もなにも投げ捨てて叫ぶと、背を向けて脱兎のごとく逃げ出したのだった。
「待ってくださいクロード様ーっ! 運命から逃げないでーっ!」
「ヒィッ!? 来るな! 来ないでくれえぇぇーーっ! 申し訳ないが、君のことは知らないし、愛してもいない。僕はセラしか愛していないんだーーーっ!!」
「坊ちゃん、叫びながら走ると余計に目立ちます。あと酸欠で足がもつれておられますよ」
「黙って走れハインツ!」
「やれやれ……。ですが行き先はひだまり食堂でよろしいですね?」
「馬車を早く!」
やってきた馬車に乗り込んで、路地裏を猛スピードで駆け抜けた。そして僕たちはひだまり食堂へとなだれ込んだのだった。
その頃、王立学院の門の近くでは――。
「ディルク、あれを見たか? 面白いことになっているな」
「ユリウス殿下。見ればわかります。あれは、筋肉が足りん」
「……何の話だ?」
「クロードのことです。あの程度で酸欠になり、走って足がもつれるとは鍛錬不足にもほどがある」
「は? 何の話をしている。そっちの話じゃない。まったく相変わらず脳筋だな」
「そうですか?」
「……それにしても、面白いことになっているな」
「そうですね。筋肉は足りていないですが」
――この時の僕はまだ、自分が逃げ去った後に、そんな会話が交わされていたことなど知る由もなかった。
……そして現在。
決死の思いで逃げ延びたひだまり食堂の奥の席で、僕は魂が抜けかけた状態で天井を仰いでいた。
(終わった……僕の人生は終わった……。セラに変な噂が届いたらどうすればいいんだ……)
「……セラ……どこへ行ってしまったんだ……僕は君しか……」
「……お兄様」
冷ややかな声とともに現れたのは、妹のエリカだった。
そしてその横には――不安そうに眉を寄せた、本物の、愛しいセラが立っていた!
「セ、セラ……っ! 本物のセラなのか……!?」
夢かと思い、僕はガクガクと震える足で弾かれたように立ち上がった。セラはまっすぐ僕を見つめると、その小さな手で、僕の手をぎゅっと力いっぱいに握りしめてくれた。
(やっと……会えた……僕の、セラ……)
「クロード様……王立学院の門の前で、サラさんとのお姿を拝見いたしましたわ」
僕がやっと会えたこの感動を噛みしめていた時に、セラはとんでもないことを言い出した。
……。
ん?
今、何と?
え? 拝見した?
え? 見られていた?
なにを?
どこから?
「違っ……! 誤解だセラ! 僕は『来ないでくれ』と全力で拒絶して――」
とにかく僕は必死に弁明した。本当なんだ。信じてくれ。僕は彼女を受け入れてなどいない!
「……わたくし、身を引く覚悟をしなければいけないと思っておりました。だって、わたくしは……」
(は!? み、身を引く!??!??)
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。いや、違う。理解したくなかった。
実を引く? 収穫の手伝いか? そういえば昔、大根やらカブやら収穫していたな?
……いやいや。そんなバカな!
身を引く? 後ろに下がるということか? 後ろは壁だが?
いやいやいやいや。
――身を引く?
誰が?
セラが?
誰から?
僕から。
――え? 僕から!?
(待て、冗談じゃない! 身を引くってどういう意味だ!? 僕の婚約者の座を捨てるということか!? 僕以外の男と結ばれるということか!? いや、そもそも身を引く理由がどこにある!? あの平民の娘と僕には何一つ何もない!! 濡れ衣だ、冤罪だ、天地神明に誓って僕はセラ一筋だ!!)
パニックと絶望で脳内が大炎上を起こす。
そんなパニックに陥っている僕の手を、セラはぎゅっと強く握り返した。
「……セラ?」
僕の声が、自分でも驚くほど掠れていた。
だって、目の前のセラは泣きそうな顔をしているのだ。それなのに――僕の手を、ぎゅっと握っている。
離れたいなら、どうして手を握るんだ。
嫌いになったなら、どうして僕のところへ来てくれたんだ。
(……いや、待て)
身を引くなんて言いながら、どうしてそんなに愛おしそうに、切なさそうに僕を見つめるんだ!?
もしやこれは――僕があのサラ嬢と何か関係があると誤解し、胸を痛め、傷ついて、それでも僕の幸せのためと勘違いして、身を切られるような思いで身を引くと言っているのでは……!?
(――なんだその健気すぎる誤解は!! 愛おしすぎて死にそうだ!! だが絶対に身を引かせなどしない!!)
「嫌だ! 絶対に嫌だ!! 僕はセラ以外と結ばれるつもりなんて毛頭ない!! 何を誤解しているのか分からないが、僕が愛しているのは世界で君だけなんだセラ!!」
必死で叫ぶと、セラは「っ……!」と、びっくりした顔をして、ポッと頬を朱に染めた。
「っ……! あ、あまり大声で仰らないでくださいませ……っ!」
上目遣いで僕を見つめ、握りしめた手をさらにぎゅっと力を込めるセラ。涙目で潤んだ瞳、恥ずかしそうに赤くなった耳たぶ、そして身を引くなんて言いながらも、僕の手を絶対に離そうとしないその小さな手。
(あぁ……っ!!! 可愛い……可愛すぎる……! 天才的な可憐さだ……!!)
胸の奥が、愛おしさと愛らしさで破裂しそうだった。
本当はものすごく嫉妬してくれていたのだろうか。僕が他の女に取られるのが嫌で、追いかけてきてくれたのだろうか。
身を引くなんて健気なことを言いながら、本当はこんなにも僕を求めてくれている。
(――っ! ……僕の婚約者は、壊滅的にズルい)
悪役令嬢だなんだと自分に言い訳をしながら、必死に僕の手を握り返してくるこの愛しい少女を、僕は生涯かけて守り抜くと固く心に誓った。
(ああ、でも君は本当に悪役令嬢なのかもしれない。でもそれは、僕だけの……)
「セラ……もう絶対に、僕の手を離さないでくれよ?」
「……勝手に離そうとしたのは、……わたくしは悪くないですわ」
ぷいっと横を向くセラの横顔を眺めながら、僕は溢れ出るニヤニヤを必死で噛み殺すのだった。




