第24話 僕は婚約者の名前を呼んだだけなのに
待ちに待った休日。僕の心は、朝から下町の小さな食堂へと飛ばされていた。
目的はもちろん、愛しい婚約者であるセラだ。普段の洗練された伯爵令嬢のドレスを脱ぎ捨て、おさげ髪に大きめの丸メガネ。さらにエプロンという最強装備をして、反則級に愛くるしい変装をした彼女を見るためだけに、僕は今日も身分を隠してひだまり食堂の扉を叩いたのだ。
隣でハインツがあきれているが、仕方がない。早くサラに会いたくて仕方がないのだから。
店内へ入ると、反則級に愛くるしい変装をしたセラの姿――ではなく、商家の娘のような恰好をして優雅にシチューを食べる妹、エリカの姿が目に入った。
「……エリ? なぜここにいるんだ?」
つかつかとエリカのそばまで歩み寄り、僕が訝しげに問い質すとエリカはフッと満足げな笑みを浮かべてスプーンを置いた。
「あら、お兄様。言いませんでしたかしら? セラの働く姿を鑑賞しに来ているからよ。……お兄様こそ、すっかり常連になっていますのね」
妹のくすくす笑う声と、からかうような視線。僕は居心地が悪くなり、エリカから視線を外すと店内を見回した。
(そういえば、今日のセラは、どこだ? いつもなら明るく「いらっしゃいませ!」と出迎えてくれるはずなのに)
きょろきょろと、広くない店の中を見渡す。だが、どこにもセラの姿がない。
「……セラはどこだ? 厨房にもいないようだが」
僕が焦りを滲ませて尋ねると、エリカは窓の外を優雅に指差した。
「セラならほら、お買い物よ。木漏れ日パン工房へ、今日はアンナさんの代わりに買いに行くんですって。うきうきしながら、さっき出て行ったわよ?」
「なんだって……!? 下町の街中を、あの無防備で可愛すぎる格好のまま一人で歩かせるなんて……! 万が一、変な男に声をかけられたらどうするんだ!」
「ちょっと、お兄様!? 落ち着きなさいな!」
エリカの制止も聞かず、僕は矢も盾もたまらずひだまり食堂を飛び出した。セラ……! 待っていてくれ、今すぐ僕が護衛に行くから……!
通りを駆け抜け、彼女が入っていった木漏れ日パン工房へ辿り着いた。僕は息を整える間もなく、勢いよくドアを押し開けた。
バンッ――! カランカラン。
「ハァ……ハァ……っ」
店内に足を踏み入れ、すぐさま店内を見渡す。
(どこだ!? ……いた!)
香ばしいパンの匂いが立ち込めるレジの前に、あのおさげ髪に丸メガネ姿の愛しい彼女が立っている。目が合い、無事な姿を確認して胸を撫でおろし、僕は彼女が使っている「偽名」を、焦りと愛おしさを込めて思いきり叫んだ。
「――サラ!」
「「はい!?」」
……なぜか、声が綺麗に二人分重なって聞こえた。
「……え?」
見れば、僕の愛しいセラの隣に、もう一人、この店の給仕服を着た本物の平民の少女が立っていた。
そして、その少女がバッと胸の前で手を握りしめ、顔を真っ赤にして僕をキラキラとした目で見つめてきたのだ。
(――っ! ……僕は婚約者の名前を呼んだだけなのに)
「っ! は、はいっ! わたしがサラです……っ! お名前を呼んでくださってありがとうございます!」
(……なっ……!?)
僕は背中に冷や汗が吹き出すのを感じ、すっかり失念していたことを思い出す。
このパン屋の看板娘の本名も「サラ」だった。
(……特待生、サラ嬢!)
僕が追いかけてきた愛しい婚約者の偽名と同じ名前の少女が――そこにいたのだ!
「……え? あ、いや……違……っ!? 君ではなくてだな……っ!」
僕は血の気が引く思いで、必死に手を横に振った。僕が呼んだのは、君じゃない。隣にいる、その変装した僕の婚約者なんだ……!
だが、目の前の少女は完全に自分の世界に入り込んでしまっているのか、僕の必死の弁明など耳に入っていない様子で「これが運命……!」とうっとり胸を押さえている。
(頼むから話を聞いてくれ……! 僕が想っているのは君じゃないんだ……!!)
慌てて本来の目的であるセラの方へ目をやると、事態はさらに悪化していた。セラは丸メガネの奥の目を限界まで見開き、顔を真っ赤にして頭を抱えてプルプルと震えている。
……相変わらずのトンデモ妄想の心の声がハッキリと聞こえてくるような顔で、僕から逃げるように忍び足で後退りを始めているではないか。
(待て、セラ! 違うんだ! 誤解だ……っ! 僕が会いに来たのも、名前を呼んだのも、愛しているのも、最初から君だけなんだーーーっ!!)
本物のサラ嬢は運命の恋に一人で盛り上がっているようで、愛しのセラは運命の邪魔者としてコソコソと逃げ出そうとしている。
僕がどれだけ「違う」と訴えても、二人の暴走は止まらない。
(ハインツ……助けてくれ……っ!)
心の中で悲鳴をあげながら僕が冷や汗を流していると、いつの間にか僕のすぐ後ろ――まるで影のように控えていた側近のハインツが、ハァと深すぎる溜め息をついた。
「……坊ちゃん。まずは落ち着いてください」
「お、落ち着けるか……っ! 状況が見えないのか!? セラが……僕の愛しいセラが、また「悪役令嬢のわたくしは、退場するのが道理ですわ」みたいな顔をして逃げようとしているんだぞ!!」
僕が必死の形相で囁き声で叫ぶと、ハインツは一切の感情を殺した無表情のまま、僕に言った。
「自業自得かと。そもそも、ご自分で紛らわしい偽名を呼び間違えたのが原因でしょう」
「呼び間違えてなどいない! 僕は最初からセラを呼んだんだ!」
「だからそれが原因じゃないですか。店内で「サラ」! と叫べば、こちらの「サラ」様が反応するのは至極当然の道理。学院トップの成績を誇るお方が、なぜそんな初歩的な思考に至らなかったのですか?」
「くっ……! だ、だってセラがあまりにも可愛くて、姿を見つけた瞬間パニックになって……っ!」
「知りませんよ、そんなポンコツな理由。……ほら、早く対処なさってください。本物のサラ様は完全に「ヒロインモード」に入っておられますし、セラ様はあと三歩で店の扉から脱出してしまいますよ。間に合いませんよ」
「なっ……!? セ……じゃなくて、サ……じゃなくて、あーーー待ってくれ!! そこの、おさげの……!」
冷酷なハインツの指摘に血の気が引き、僕はなりふり構わず、コソコソと逃げ出そうとしていた愛しの婚約者に向かって必死の手を伸ばすのだった。
「ち、違いますわ! わたくしは、違いますのーーー!!」
そう言って、セラは振り返りもせず、思いのほか早い足取りで逃げて行った。
「……セラフィーナ様、意外と足がお早いのですね? 知りませんでした」
「そんなことどうでもいい。どうすればいいんだ。逃げられたじゃないか!」
「……ハァッ」
背後で(普通にひだまり食堂行けば、帰ってきていると思うんですがね。坊ちゃん)と内心であきれていたことに僕は全く気付いていなかった。
「あああ、セラっ!」
「……みっともないので、とりあえず店を出ますよ」
ハインツに首根っこを掴まれるようにして木漏れ日パン工房を引きずり出された僕は、「身分差の試練……!」とうっとり妄想に浸る本物のサラ嬢を残したまま、這うような心地でひだまり食堂へと連れ戻された。
◇◇◇
ひだまり食堂の前で、僕はハインツに正座をさせられていた。
「坊ちゃん、いいですか。セラフィーナ様は今何をしてらっしゃったのか思い出してください」
「……え?」
「セラフィーナ様は、今はどなたでしたっけ?」
「……今は、下町で働いているサラだ。ということは……?」
「坊ちゃん、セラフィーナ様が絡むとポンコツすぎやしませんか? そうですよ。この! ひだまり食堂で! 働いているんですよ!」
「……っあ!」
「お分かりいただけましたか? お使いしに、パン屋へ行っていたのでしょう? ならば用事が終われば、セラフィーナ様はここにお戻りになられますよね?」
ハインツの「お使いが終われば、行き先はここしかありません」というごく当たり前の正論に目を大きく開き、僕は思わず固唾をのんでドアを見つめた。
「ほら、それでは行きますよ」
僕は弾かれたように立ち上がり、ひだまり食堂のドアへと駆け寄った。そして勢いよくドアを開けると、まずは誤解を解くべくセラへと話しかけることにした。
「セ……サラっ!! さっきは違うんだ! 誤解なんだ! 僕が名前を呼んだのは君のことで、決してあのパン屋の看板娘のサラ嬢を指していたわけでは――」
「まあ、お兄様。いったい誰に何を弁明しているのかしら?」
「……え?」
エリカの声にハッとし、すぐさま店内を見渡す。
(セラが……居ない?)
「クロード様、セラフィーナ様でしたら、さっきすごい勢いで帰っていきましたよ」
「……え? 帰った?」
店主のガルスが、申し訳なさそうな顔をしながら厨房から出てきて言った。
「……はい。なんでも、とんでもない事実を知ったとかなんとか。慌てて、「今日はもう帰りたい」っていうので、仕事にならないと判断して帰らせました」
「……そ、そうか」
ばつが悪くなり、僕は少し目を泳がせた。
「ふふふ。「サラちゃん」にフラれましたわね。お兄様」
「っ! エリカ、頼むから今は黙っていてくれ……っ! それにフラれてなどいない」
「あら、だってこれほどお兄様を拒否っているのに?」
「違う! そんなわけあるか!! からかうのは今はやめてくれ……」
「……あら?」
「……お嬢様。少々、坊ちゃんの自業自得な事情がありましてね。そっとしておいてあげてください」
「……ふーん? 詳しく教えなさい。ハインツ」
「ハイハイ」
エリカとハインツが何か話しているが、僕の耳には何も入ってこなかった。僕は、もう何も手につかない気分だった。
(セラ……君に会いたい)
「……なにそれ? その現場私も見たかったわ。……お兄様、ほら、一緒に帰りましょう!」
エリカが何か言っている。でも、もう何も頭に入らなそうだ。
(セラ、僕の愛は、一体いつになったら君に正しく伝わるのだろうか。僕が見ているのは君なのに。……本当に嫌われて、しまったのだろうか)
「……もう。お兄様、セラがお兄様を本心から嫌ってるわけないじゃない。いつもの自信を取り戻してくださいな。じめってるお兄様はうっとおしいわ」
「……ひどくないか? エリ」
「だって、本当のことじゃない。キノコが生えるわよ! いつもみたいに、セラ大好き! ってやってるほうがお兄様らしくてよ」
「そんなことはしていない」
「はいはい。仕方ないからとっておきのセラ情報を差し上げるから元気を出してくださいな」
「っ!? そんなもの持っているのか? ……内容によっては善処する」
背後で、ハインツがあきれた顔で「ヤレヤレ。ここまで坊ちゃんをポンコツにするセラフィーナ様は、ある意味悪役令嬢とやらで、あってるんじゃないんですかね」とつぶやいていたことを僕は知らない。




