第3話 僕の大切な人は、あの日出会った少女!
あの日の光景を僕は今でも鮮明に覚えている。初めて、彼女を見つけたあの瞬間を――
七歳の時、我が家であるアリントン侯爵邸で開かれたお茶会。季節は秋だった。まだ暑い日が続いていて、僕は部屋から出たくなくて自室の窓辺で本を読んでいた。いつもなら、騒がしい輪から一歩引いた場所で、五歳の妹、エリカが楽しそうにしている姿をただ見守るだけで終わるはずの、退屈な一日になるはずだった。
昔から、人と交わることが得意ではなかった。何を話せばいいのか分からないし、相手が笑顔の裏で何を考えているのかも読み取れない。だから、必要以上に他者と関わらない。それが僕にとっては、自分を守るための当たり前の境界線だった。
けれど――あの日、境界線の向こう側に彼女がいた。
「ふふ。……とても綺麗ですわ」
こぼれ落ちた小さな呟きが、風に乗って僕の耳をくすぐった。ふと顔を上げ、庭へ視線を落としたその瞬間――雷に打たれたように、彼女から目が離せなくなった。
美しく手入れされた庭園の片隅に佇んでいた一人の少女。サーモンピンク色の可愛らしいドレスを身に纏い、なにより目を引くのは、咲き誇るつつじを思わせる、つややかな髪。それをツインテールに結い上げていて、彼女にはとても似合っていた。そして、花弁を見つめるライラックの瞳は、遠目から見ても驚くほど優しく見えた。
花を見つめる彼女の表情が、ぱっと春が訪れたように明るくなる。その圧倒的な眩しさに、僕は一瞬で心を奪われていた。
それから間もなく、エリカが庭園へ向かい、彼女に声をかけるのが窓から見えた。
二人は楽しそうに手をつなぎ、色とりどりの花が咲く庭を歩き回っていく。ただその光景を眺めているだけなのに、不思議と胸の奥がじんわりと温かくなり、世界が緩やかに流れていくような気がした。
楽しげな笑い声が聞こえるたび、豊かな表情で笑い合う二人の空気がなんだか愛おしくて、僕の口元は自然と緩んでしまっていた。
「エリ!」
気が付けば、僕は自室を飛び出して庭へ向かっていた。居ても立ってもいられず二人のそばまで歩み寄り、妹の名前を呼ぶ。振り返ったエリカの隣で、彼女も振り返った。一瞬、僕たちの視線が交わった気がした。
「お兄様!」
間近で見る彼女の、あどけなくて無邪気な佇まい。向けられた笑顔の破壊力に、僕は言葉を失い、その場でぴたりと足を止めるしかなかった。だが、激しく高鳴る鼓動を隠すように、すぐに我に返って歩みを進めた。
「あっ! セラフィーナちゃん、紹介するね!」
エリカが彼女の手を引いて僕の前まで連れてきてくれて、そこでようやく、僕は初めてその名前を耳にした。
「セラフィーナ・バルディアですわ」
鈴を転がすような声を聴き、花のような笑顔を向けられた瞬間、胸の奥が妙にむず痒くなった。それがどんな気持ちなのか、この時の僕にはまだ分からなかった。
◇◇◇
あのお茶会から数日たったある日――
自室で本を読んでいた僕の元へ、笑顔のエリカが顔を覗かせた。なんだかとっても機嫌がいいらしい。
「お兄様」
「エリ……何?」
「セラフィーナちゃん、可愛かったね」
その一言で、僕の手が止まる。
「……うん」
「お兄様、また会いたい?」
少しの沈黙。そして――僕は本へ視線を戻した。けれど、ページをめくる手は、まだ止まったままだった。お茶会で笑っていたセラフィーナ嬢の姿が、頭から離れない。
「……うん」
エリカは嬉しそうに笑っていた。
「じゃあ、また遊びに来てもらいましょう!」
「……うん」
その日から、僕の中には初めて「また会いたい」と思う相手ができた。それがどんな気持ちなのか、この時の僕にはまだ分からなかった。ただ――もう一度、あの笑顔を見たいと心から思った。
◇◇◇
八歳になったある日、庭園の木陰で本を読んでいた僕のところに、彼女がトコトコと駆けてきたことがあった。その両手には、なぜか引き抜かれたばかりの、土のついた立派な大根の葉が握られていた。
「クロード様、見てくださいまし! このお野菜、とっても立派ですの!」
彼女の手に握られていたものは、大根の葉だけだった。
「……野菜?」
(……えっと、葉だけだと思うのだけれど?)
彼女は、使用人たちが手入れしている農園まで出向き、大根を引き抜いてきた、らしい。……けれど、なぜか彼女の手に残っていたのは葉っぱだけだった。
「はい! 葉っぱが元気ですわ!」
大真面目な顔でそれを差し出され、僕は思わず絶句した。侯爵家の農園でドレスを汚しながら熱心に雑草……ではなく、ちぎれた野菜の葉を観察していたのだろうか。
淑女らしからぬ突拍子もない行動なのに、その瞳があまりに純粋に輝いているものだから、呆れるのを通り越して愛おしさが込み上げてしまった。
僕が小さく吹き出すと、彼女は「あら?」ときょとんとした顔で小首を傾げていた。
――彼女の行動は、いつも僕の予想を遥かに超えていて、そして、とてつもなく眩しかった。
「セラフィーナ嬢、君はいつも元気で、……眩しいね」
「はい! わたくしはいつも元気ですわ!」
彼女の答えに、僕はまた小さく吹き出した。すると彼女も「何かおかしかったかしら?」と、きょとんとした顔で再び小首を傾げていた。
そんな彼女が、本当に眩しかった。
それからというもの、彼女は時折我が家へ遊びにやってきては、僕が思いもしない行動をとることが増えていった。それがとても可笑しかった。
最初は妹の友人が来るのを客観的に眺めているだけだと思っていた。けれど、周囲にはとっくに気づかれていたらしい。
「セラフィーナちゃんが来る日は、お兄様、朝からずっとご機嫌ですね」
ある日、エリカが意地悪そうに目を細めて言ってきた。
「……そんなことはない」
「あら、そうかしら?」
エリカはすっかり楽しそうに笑っていた。
「だって、いつもより本をめくる速度がずっと遅いもの。上の空なのがバレバレよ」
「……」
エリカに指摘されて、初めて自分の動揺を自覚した。
確かに彼女――セラフィーナ嬢が来る日は、朝からどうにも落ち着かない。文字が頭に入ってこないのだ。
認めざるを得なかった。僕は、自分が思うよりもずっと、彼女と会える時間を待ち侘びているのだと。
◇◇◇
九歳になった夏。
庭師が、エリカのためにひまわり畑で迷路を作っていた。それをエリカはセラフィーナ嬢に話したらしい。
二人の背丈を超える、見渡す限りの大輪の花の壁の中を、楽しそうに駆けているセラフィーナ嬢とエリカ。二階にある僕の部屋からは、二人の姿がよく見えた。
セラフィーナ嬢の着ている白いワンピースの裾が、駆け抜ける風になびいて、大きな花びらのように揺れている。その姿が、とてもまぶしかった。
「セラフィーナちゃん。こっちじゃない?」
「え、そっちは行き止まりだと思いますわよ? 先ほど行ったではないですか」
二人は楽しそうに笑いながらひまわりの間を駆け巡る。
曲がり角を曲がり、行き止まりになるたび二人は「あれ?」とお互い顔を見ては笑い、また駆け出す。そんな二人がとても眩しくて、僕は目を細めた。
そのとき僕は、彼女の笑顔を守ってあげたいと、心から思った。
――うん。僕がその笑顔を何があっても守ってあげる。だから笑っていてほしいな。できれば、僕の隣で……
ふと、セラフィーナ嬢が顔を上げ、目が合った。
「あ、クロード様ぁ! 今日もお勉強ですかぁ? でもたまには一緒に遊びましょう!」
彼女が手を振り、大きな声で僕に話しかけてきた。僕はそれに応えるように小さく手を振る。
「お兄様ぁ。お勉強ばかりしていてはつまらないですよぉ。せっかくセラフィーナちゃんも遊びに来ているんだから後で一緒にお茶しましょう!」
エリカも気づいて、手を振りながら大きな声をあげた。
「そうだね。僕もそっちに行くから、お茶にしよう」
僕は、できるだけ大きな声を出して二人に言う。二人はお互い頷きあって、また笑いながら迷路の中を駆けていった。
僕はそんな二人を見つめながら、彼女の笑顔を守ってあげたいと、心から思った。
◇◇◇
十歳になった頃、父の書斎に呼び出され、ある話を告げられた。
「クロード。そろそろ、お前の将来についての話を始めねばなるまい」
貴族の家に生まれた以上、いつかは避けられない厳格な義務。
――婚約。
その重々しい響きを耳にした瞬間、僕の脳裏に真っ先に浮かんだのは、他でもない彼女――セラフィーナ嬢の姿だった。
自分でも驚いた。なぜ、真っ先に彼女の顔が浮かぶのか。ただの、妹の友人。そう自分に言い聞かせてきたはずなのに。
もし、彼女が僕ではない誰かの隣に並び、他の男にあの優しい笑みを向けるのだとしたら――そう想像しただけで、胸の奥がぎゅっと引き絞られるように痛んだ。
(――っ! ……僕の大切な人は、あの日出会った少女!)
その痛みの中で、僕はようやく己の本心に気づかされた。僕にとって彼女は、とっくに「ただの友人」などという枠には収まらない、特別な存在になっていたのだ。
「――お父様、お母様。僕は、もしもこの願いが叶うのでしたら、セラフィーナ嬢と……婚約したいです」
自分の口から出た明確な意志に、僕自身が驚いたけれど、視線は逸らさなかった。
父も僕の初めての強い「望み」に一瞬驚いたように目を見張ったが、やがて微笑み受け入れてくれた。
「セラフィーナ・バルディア嬢か。たしか、お前の二つ下だったな。お前の願い、必ず叶うとは約束できないが……その方向で整えてみよう」
「お願いします」
僕はそう言って、心からの願いを込めて父に頭を下げた。父の隣で母は楽しそうに笑っていたのが見えた。
◇◇◇
十一歳になった。
いつの間にか、エリカは彼女のことを「セラ」と呼び、彼女はエリカのことを「エリ」と呼ぶようになっていた。……僕も「セラ」と呼べるようになっていた。
三人で過ごす時間は、穏やかに、そして確実に積み重なっていった。
婚約が決まるかどうかは分からない。それでも僕は、今までと変わらず彼女との時間を大切に過ごした。
花を見つけては嬉しそうに笑う姿。本を読んで目を輝かせる姿。弾んだ声で僕の名前を呼んでくれる姿。時折、突拍子もないことを口にしては周囲をきょとんとさせる姿。
その何気ない一つ一つが、僕にとっては何よりも大切な宝物になっていった。
季節が巡り、歳を重ねるたびに、彼女は僕の中で、誰にも代えられない存在になっていった。
「クロード様!」
その声を聞くだけで、世界が少し明るくなる気がした。
僕がどれほど彼女と会える日を楽しみにしているのか。その笑顔を守りたいと本気で願っていることなど、当の彼女は少しも気づいていないのだろう。
寝る前の束の間、僕はぽつりとつぶやいた。
「セラ。僕にとって君は、とても大事な存在なんだよ」
誰にも聞かせることのない僕だけの独白。そっと胸に秘めたまま、零れ落ちそうになる言葉を、僕は静かに噛みしめていた。
◇◇◇
そして、十二歳になったある日のこと。再び父から告げられた。
「セラフィーナ・バルディア嬢との婚約についてだが、以前から進めていた調整が整った。セラフィーナ嬢も十歳と、ちょうどいい頃合いだ。お前の希望を踏まえ、正式に先方へ話を持ちかけることにしよう」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、胸の奥底からじわりと温かい熱が広がっていった。
ずっと傍にいてほしいと願っていた人。生涯をかけて大切にしたいと乞うていた人。その彼女が、僕の婚約者になる。湧き上がる歓喜は抑えきれなかった。
けれど――喜びと同時に、冷たい不安が足元から忍び寄る。
感情表現の乏しい僕のような人間が、あんなにも色彩豊かな彼女を幸せにできるだろうか。彼女の隣に立つに相応しい男になれるだろうか。一人で葛藤の渦に沈んでいると、隣でエリカが呆れたように息を吐いた。
「お兄様」
「……何だ」
じろりとエリカを睨む。
「そんなに嬉しいなら、もう少し分かりやすく喜べばよろしいのに」
「……」
僕は、そんなにも顔に出ていただろうか。慌てて口元を押さえる僕を見て、エリカは満足そうに微笑んでいた。
「でも、本当によかったですね」
「ああ」
今度は、取り繕うことなく自然と言葉が出た。
「……うん。本当に」
あの日、孤独な世界にいた僕の前に現れた少女。花を愛し、無邪気に笑っていた彼女。僕が人生で初めて「また明日も会いたい」と願った大切な人。これから先、彼女が僕の隣を歩んでくれる。その事実だけで、どんな不安も乗り越えられる気がした。
この時の僕は、まだ何も知らなかった。
彼女の頭の中に、僕の想像を遥か斜め上を行く奇妙な知識が詰まっていることも。
そして――数年後、彼女が何を思い詰めたのか、「自分は悪役令嬢ですわ!」と本気で信じ込み、明後日の方向へ大暴走を始めることも。
けれど、何が起きようと、これだけは断言できる。
セラフィーナ・バルディア。
彼女は、僕が人生で初めて心から守りたいと思った、初めての――そして生涯ただ一人の、かけがえのない大切な人だ。




