第22話 僕の婚約者は、今日も眩しい
エリカから聞いた下町の食堂へ、僕は次の休日にやってきた。
(やっとだ。やっと、セラの看板娘が見れる。今日までが、本当にとても長かった)
目立ちすぎる侯爵家の身分を隠すため、普段なら絶対に着ない、でも質の良い平民服を身に纏い、フードを深く被る。側近のハインツには冒険者のような格好をさせ、護衛として従わせた。
(……本当にこんなところにセラがいるのか?)
半信半疑で店のドアを押す。カラン――と静かな鈴の音が響いた。
「いらっしゃいま……」
店に入った瞬間、出迎えてくれた少女の声がピタリと止まる。
素朴な平民の給仕服に、大きめの丸眼鏡、そして両サイドで結ばれたおさげ髪。一見すると下町のどこにでもいそうな愛くるしい少女――だが、その立ち姿、ライラック色の瞳、そして隠しきれない気品。
(……セラ……っ!!)
この僕が、君を見間違えるはずがない。変装(?)をして必死に給仕の振りをしているが、目の前の彼女は間違いなく僕の愛しい婚約者、セラフィーナ、君だ。
思わずフードの下で目を大きく見開いてしまったが、ここで僕が「セラ!」と声をかけては元も子もない。フッと息を整え、平静を装って視線を外した。
「あの、お、お二人様ですか……?」
「……ああ」
必死に声を震わせながら、気づかれていないと思っているセラ。他人の振りをしようとしているセラ。どのセラもかわいい。
(……可愛い。可愛すぎる……っ! 相変わらずなんだその眼鏡とおさげ髪は……! 変装の出来栄えが低すぎて、可愛さが増すなんて反則だろう……!)
後ろに立つハインツが「またクロード様の激重な趣味に付き合わされている……」と言いたげに額を押さえているのが視界に入ったが、そんなことはどうでもよかった。
胸の奥で悶絶するような愛おしさが爆発する。 エプロン姿の彼女は、いつも屋敷で見せるドレス姿とはまた違う、破壊的な可愛らしさを放っていた。
彼女に案内されるまま、店全体がよく見渡せるカウンター席へ着席する。
「んんん……ご、ご注文はお決まりですか?」
「……君のおすすめは?」
震える手でメニューを差し出してきたので、あえて低く心地よい声を意識して尋ねてみた。 するとセラは目を丸くして固まり、パニックになりながら考えている。
「おすすめ……! ええと、ガルスさんの作る一番人気のメニューは……。えっと、わたくしが今食べたいものは……美味しかった食べ物は……」
でも全部声に出ていることに気づいていない。そんなところも愛おしい。
「あ、オムライスです!」
そう答えて逃げるように厨房へ走っていった。
(ふふ、オムライスか。君が美味しいと思うものを僕に食べさせてくれるんだね)
それだけで胸がじんわりと温かくなる。
……だが、厨房の近くで店主と話していたセラが、突然神妙な顔で固まり、そして一人で大きく頷き始めた。
(……これは。また始まったな。一体どんな勘違いをしているんだ?)
彼女の頭の中でどんなトンデモ理論が展開されているのかは分からない。 けれど、一瞬だけ彼女が切なそうに胸を押さえ、寂しそうな顔でこちらを見つめてきたことに気づいた。
(……セラ? どうしてそんな悲しそうな顔をするんだ?)
「はい、オムライスお待ち遠さま! サラ嬢ちゃん渡してあげて」
運ばれてきた出来立てのオムライスを、セラはおずおずと僕の前に差し出した。
「ごゆっくりどうぞ……っ」
そう言うと、彼女は脱兎の如くその場を離れ、忙しそうに店内を走り回り始めてしまった。
テーブルの上に置かれた湯気の立つオムライス。 だが、今の僕には目の前の絶品料理よりも、店内を健気にパタパタと駆け回る丸眼鏡のおさげ少女しか目に入らなかった。
(……見つめていたい。ずっと、君だけを)
セラはきっと、とんでもないことを思って、明後日の方向で一人で納得し、切なくなったのだろう。 相変わらずのポンコツぶりに呆れつつも、そんなところも含めて愛おしくてたまらない。
「坊ちゃん、オムライスが冷めますよ。それに……視線が甘すぎて店内の客が毒されそうです」
隣でハインツが呆れ果てた声で囁いてきたが、僕は聞き流した。
(僕が会いに来た運命のヒロインは、最初から君だけだよ、セラ)
雑な変装でばれていないと思っている、愛しい婚約者の背中を僕はとろけるような甘い視線で、ただひたすらに追いかけ続けたのだった。
「……はぁ……セラ、可愛い」
「……クロード坊ちゃん」
ぼそりとつぶやき、護衛が心底疲れたようにため息をつく。
「坊ちゃん。視察に来たのでしょう?」
「……そう」
「でしたら、まずはオムライスを召し上がってください。一口も召し上がっておりませんよ」
「…………」
じろり、とハインツを睨む。しかし、そのフォレストグリーンの瞳は店内を忙しそうに駆け回るセラフィーナから離れることはなかった。
店内を駆け回るセラの姿を存分に堪能し、冷めかけたオムライス(とても美味しかった)を平らげた僕は、静かに立ち上がりレジへと向かった。
カラン――。
「あ、お会計ですね! ありがとうございます!」
レジの奥からパッと顔を出したのは、やっぱりあのおさげ髪に丸眼鏡の愛しい婚約者だ。僕が目の前に立つと、彼女は一瞬だけビクッと肩を跳ねさせたが、すぐに接客モードの営業スマイルを張り付けた。
「お会計、オムライスお一つで銀貨二枚ですわ……あ、違います! 銀貨一枚と銅貨一枚です!」
(……貴族の言葉遣いが抜け切っていないな。本当に可愛い)
僕はフッと口元を緩め、ポケットから銀貨二枚を取り出しながら、あえて彼女の目をじっと見つめて尋ねた。
「ごちそうさま、美味しかったよ。ところで……君の名前を伺ってもいいかい?」
「……っ!!?」
僕の問いかけに、セラは息を飲み、ライラック色の目を限界まで見開いた。わかりやすく動揺し、両手を胸の前でギュッと握りしめている。
(僕に名前を聞かれた……! これぞ運命のヒロインに渡す名刺代わりのイベントですわ! ここで本名を名乗るわけにはいきませんわ!)……そんな声が、彼女の顔にハッキリと書いてある。相変わらず感情が顔に出やすくて愛おしい。
セラはぐっと拳を握り締め、意を決したようにバッと顔を上げた。
「わ、わたくし……いえ、わたしの名前はサラと申します! ただの平民の、しがない給仕のサラですわ!」
「……サラ、かい?」
「はい! サラです! セラフィーナなんて大層で高貴で美しい悪役令嬢様とは、別人ですの! セラとサラなんて、名前が些細な程度の違いしかありませんけれど、まったくの別人ですわ!」
必死すぎて自分からセラフィーナという名前を口にしてしまっていることに、本人は全く気づいていないらしい。
後ろに控えていたハインツが「ダメだこりゃ」と言いたげに天井を仰ぐのが見えた。
(……必死に偽名を使っているつもりなんだろうけれど……)
「そうか。サラ……とても可愛らしい名前だね」
「っ!???」
僕が低く甘い声で名前を呼んで微笑むと、セラ――いや、サラは顔をりんごのように真っ赤にして、耳まで湯気を立てそうなほど動転し始めた。
「あ、あの……! お、お釣りです! ありがとうございました! またのお越しをお待ちしておりますわーっ!」
お釣りを僕の手のひらに押し付けるように渡すと、彼女はそのまま逃げるように厨房の奥へと引っ込んでしまった。
手の中に残された、ほんのりと温かいお釣り。僕はそれを見つめ、ふっと胸の奥から込み上げる愛おしさに目を細めた。
「……また来るよ、サラ」
僕が小さく呟いた言葉は、厨房の奥で「美の暴力……! 平民のサラにも容赦がありませんわ……っ!」と悶絶しているであろう彼女に、きっと届いていただろう。
(サラ……。次の休みも、絶対にここへ来よう)
僕は大満足の笑みを浮かべながら、愛しいサラのいる店を後にしたのだった。
「……本日の下町の視察は、以上で終了です」
ハインツがあきれた顔でそう告げる。
「ああ」
僕は短く返事をして、お忍び用の馬車へと乗り込んだ。若き後継者として、極めて有意義な一日だった。……もちろん、その視察には、少しだけ個人的な私情が含まれていたが。
馬車が走り出すと、向かい側に座ったハインツがじとっとした目を向けてきた。
「クロード坊ちゃん」
「なんだ」
「今日は随分と、「視察」のはずの「ひだまり食堂」に長居をされましたね」
「…………」
「せっかくのオムライスも、食べるのが遅くて冷めかけておりましたよね」
「…………」
「あれも……視察、でしたかね?」
「そうだ」
「では、なぜ料理を見ずに、あの店の看板娘ばかりをずっと凝視していたのです?」
「…………」
返す言葉がなかった僕は、気まずそうに視線を逸らし、窓の外の景色をぼんやりと眺めた。
丸い眼鏡に、おさげ髪。平民の素朴な服。セラはあれで、誰にも自分の正体が気づかれていないと思い込んでいる。
……いや、なぜ気づかないと思えるのだろうか。気づかない方が無理がある。
服装を変えたところで、あの凛とした美しい立ち姿も、小気味よい歩き方も、花が咲くような笑い方も、全部セラのままだった。何より、少し困った時に右手の指先でそっと耳に触れる愛らしい癖まで、完璧にセラのままではないか。
(本当に可愛かったな……)
忙しそうに走り回る姿。お水を運ぶ時だけ慎重になる姿。おすすめを聞かれて、一生懸命考えていた姿。
その一挙手一投足のすべてが、たまらなく愛おしい。思い出すだけで、自然と口元が緩んでしまうのを止められなかった。
(――っ! ……僕の婚約者は、今日も眩しい)
セラが今日も楽しそうに笑っていたのを思い出しながらぽつりと呟く。
「……セラは、本当に楽しそうに笑っていた」
あの最高に輝く笑顔を間近で見られただけで、今日、あの食堂へ行った価値は十分すぎるほどあったのだ。
「……クロード坊ちゃん」
呆れ顔の護衛が、追い打ちをかけるように尋ねてくる。
「……なんだ」
「来週も、下町の視察に行かれますか?」
「もちろん、必要なことだ」
「また、あのひだまり食堂へ?」
「…………視察だからな」
「はいはい、承知しました」
ハインツは「まったく、筋金入りの婚約者馬鹿ですね」と呆れたように笑った。
愛しいセラの、あの丸眼鏡の奥の眩しい笑顔を思い浮かべながら、僕は静かに愛おしさを噛み締めるように目を閉じた。




