第18話 僕の婚約者と、待ち焦がれた果実の味
恋結びの果実祭りの当日の朝。自室で王立学院へ向かう身支度を整えながら、僕は小さく息を吐いた。
今日は、女子が意中の男性へ手作りの赤い果実の菓子を贈る特別な日。しかし、僕はこの行事が昔から少し……いや、かなり苦手に近かった。
僕といえば幼い頃から毎年、この日の夜になると「……セラから、今年ももらえなかったな」と自室で静かに溜め息をつくのが恒例行事だった。セラが僕に手作りのお菓子をくれることなど、一度たりともなかったからである。
だから今年も、すっかりこの行事の存在自体を頭から締め出していた。
(それでもきっと期待をすることはやめられないのだろうな)
と、そこへドアが軽くノックされ、妹のエリカが入ってきた。
「お兄様、おはようございます。今日何の日か知ってますよね。ふふ、楽しみですわね!」
朝からやけに機嫌が良く、嬉しそうに頬を緩ませているエリカ。
「何の話だ?」
「え? 知らないんですか? 今日は恋結びの果実祭りの日ですわよ?」
「……そうか」
「お兄様、反応薄くないですか? つまらないですわね」
「……そうか? 今日がその日だったな。ところでエリ、何がそんなに楽しみなんだ?」
僕が鏡越しに淡々と尋ねると、エリカは悪戯っぽく微笑みながら、思ってもみなかった言葉を口にした。
「あら、言っていいのかしら? セラが今年はお兄様のぶん『も』焼くって言ってたのよ」
「……! ……? 僕のぶん、『も』……?」
引っかかった言葉をそのまま聞き返すと、エリカは「あらやだ」と上品に手を口元に当てて、くすくす笑い出した。
「ええ。実は私、毎年セラからとっても美味しい手作りのルビィ・ベリークッキーを貰ってたの。ふふふ。今までお兄様には秘密にしてたけれど。ごめんなさい?」
「………………」
一瞬、思考が停止した。
まったくもって悪いと思っていない顔で謝るエリカ。
毎年、二月になるとセラがお菓子を作っているらしいという話は、何度か耳にしていた。けれど僕の元に届くことは一度もなく、「まあ、両親やセルジオの分だろう」と自分を納得させて諦めていたのだ。だが……まさか、我が妹であるエリカには毎年届いていたなんて。
(……今まで、エリカは、もらっていたのか……っく)
毎年、自分には届かない手作りクッキーの甘い匂いが、実はこの屋敷に漂っていたのだという事実。 いくら実の妹相手とはいえ、ふつふつと猛烈な羨望と嫉妬が胸の奥から湧き上がってくるのを止められない。
「……なぜ、教えてくれなかったんだ」
「教えたらお兄様、セラのお邸に押しかけて『僕の分は!?』とおねだりするでしょう? それに……今までの私は愛しい家族枠だったんだもの。セラの可愛い手作りクッキーを独占するのは、妹の特権よ」
エリカは勝ち誇ったような笑顔。
(くっ……実の妹にここまで完璧に先を越されていたとは……。というかお前が妹なのか。いや、義妹になるからいいのか……)
内心で『またか……』と乾いた笑いを漏らすしかなかったが、エリカは続いて、僕の心を大きく揺らす言葉を付け加えた。
「ですが今年は、お兄様の分も用意するって言ってたのよ? 『クロード様にもお渡ししますわ!』と、昨日意気込んでたのよ。それも、家族枠ではない。楽しみですわね、お兄様」
「……っ!」
妹への嫉妬で暗くなりかけていた胸の中が、一瞬で真っ白な光で満たされる。
僕の分もある。というただそれだけの事実が、どれほど僕の心を跳ね踊らせたか。 鏡に映る自分の顔が、自分でも引くほど露骨に緩んでいるのが分かった。
「……ああ、そうだな。……とても楽しみだ」
咳払いをひとつして表情を取り繕ったものの、胸の高鳴りは一向に収まりそうになかった。
今年こそ、僕の手にもセラの作ったお菓子が届く。 そんな膨らむ期待を抱き締めながら、僕は待ち焦がれた学院への一歩を踏み出した。
(セラが、僕のために手作りのお菓子を……! 家族枠ではない……!)
僕は、そのあとどうやって学院に行ったか、あまり覚えていなかった。
◇◇◇
……だが――現実はそう甘くはなかった。朝のあの歓喜から一転。学院に到着してからの時間は、僕にとって生殺しのような拷問だった。
いつ渡してくれるのだろうかと、朝のホームルームからずっとそわそわしながら過ごしていたのだが、一時間目が終わっても、二時間目が終わっても、セラが僕の教室を訪れてくれる気配は一切ない。
(……いや、昼休みだ。静かな昼休みにきっと、そっと渡してくれるに違いない)
そう自分に言い聞かせて迎えた昼休みだがセラがやってくる気配は一向になかった。
生徒会室の執務机に座り、書類を処理するふりをしながら入口のドアを凝視していたのだが――チャイムが鳴り響いても、扉が開くことはなかった。
「……はぁ」
「ははは! なんだクロード、朝からずっと入口のドアばかり気にしているじゃないか。特待生の彼女からのお菓子でも待っているのかい?」
ソファーで優雅に足を組み、手土産の焼き菓子をつまんでいたユリウスが、僕の焦りを見抜いて嬉しそうにニヤニヤと煽ってくる。
「ユリウス、茶化すのはやめてくれ。大体、なぜ僕が特待生の彼女からもらうと思うんだ? 意味が分からない」
「えー。だって、セラフィーナ嬢たってのお願いなんだろう? 特待生と仲良くなるの。エリカ嬢が言ってたぞ?」
「……別にセラから願いなどされていない。それにそんな願い却下する」
「なら、まるで待ち人に捨てられた捨て犬のような顔をしているぞ?」
「……そんな顔はしていない」
「ははは。なら鏡を見てくるがいい。なぁディルク?」
「ユリウス殿下、茶化したら可哀そうです。クロードはただ真面目に生徒会の業務に集中しているだけです。……まあ、若干ペンを握る力強すぎて、羊皮紙に穴が開きそうではありますが。あと、ちょっと顔の筋肉が足りない気はします」
隣で真顔のままズレた指摘をしてくるディルク。……いや、君のフォローはありがたいが、僕は今、真面目に業務どころではないんだ。
だから、頼むから二人とも黙っていてくれないだろうか。ただでさえ僕の忍耐力は限界を迎えているのに。
「ふむ、いいことを教えてやろうではないか。お前が待っているセラフィーナ嬢なら、昼休みの間ずっと特待生の彼女の後ろをコソコソ追い回していたぞ?」
ユリウスが面白そうに言った言葉に、僕の手がピタリと止まった。
「……セラが、特待生の彼女を……?」
「ああ。特待生の彼女がなにやら本日の恋結びの果実祭り用の菓子とやらを持って学院内をウロウロしていたらしくてな。セラフィーナ嬢は「一体誰に渡すつもりですの!?」と目を血走らせて、物陰から必死に追跡していたよ。お前に会いに行く余裕なんて全くなさそうだったな」
「………………」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
「うぉ? なんか急に寒くないか?」
「そうですか? ユリウス殿下。鍛え方が甘いのではないですか。これくらいなら、むしろ涼しいではないですか」
「ディルク。お前と一緒にするな。脳筋め。クロードをからかうのは楽しいが、こうも空気が冷える気がするのはいただけないな」
二人のそんな会話は耳に入らず、僕はセラのことを考えていた。
(セラが僕にお菓子を渡すのを忘れるほど没頭している理由が、僕以外の誰か――それもあの、彼女への好奇心、または妄想ともいうが、それのせいだと……? 君が意図せずとも、僕とセラの貴重な時間を邪魔していた。……そういうわけか)
フッと笑みを浮かべた僕から漂う不穏な気配に、さっきまで茶化していたユリウスが「おっと、冗談が過ぎたかな」と少し引きつった顔で後退った。
「……クロード、気にするな。女心とは時に複雑なものだ。それよりも筋トレをして気を紛らわせたらどうだ? 筋肉は裏切らないぞ」
「ディルク、静かにしてくれ」
真面目な顔で明後日のアドバイスをしてくるディルクを制し、僕はギリッとペンを握りしめた。
(特待生の彼女への追跡に夢中で、僕への大事なクッキーを渡すのを後回しにしているというわけか……!)
無自覚に僕の恋路を邪魔する彼女に密かな暗黒の情熱を燃やしつつ、僕は一向に開かない生徒会室の扉を、ただ冷ややかな目で見つめ続けるしかなかったのだった。
放課後の生徒会室でも結局セラは現れず、僕は半ば意気消沈しながら侯爵邸へと帰宅した。
◇◇◇
「……はぁ」
侯爵邸へ帰宅する馬車の中で、何度目かわからない溜め息を吐く。朝のあの溢れんばかりの期待はどこへ行ったのか。結局、放課後になってもセラはお菓子を渡しに来てはくれなかった。結局今年も例年通りか。
(やはり……特待生彼女の追跡に夢中で、僕のことなど頭から吹き飛んでいたのだろう……っく)
馬車は我がアーリントン侯爵家に何事もなかったようにいつも通りに到着し、重い足取りで屋敷の玄関を潜った。そこへ出迎えてくれたのは、どこかニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべた妹のエリカだった。
「お帰りなさいませ、お兄様。ふふ、ずいぶんとしょげたお顔をしていますわよ?」
「……エリ。煽るなら後にしてくれ。今の僕は少し疲れているんだ」
「まあ、可哀想に。そういう時は、あまーいお菓子とお茶ですわね、お兄様。諦めるのはまだ早くてよ? セラなら今、私の部屋で一緒にお茶をしているところですのよ」
「……っ!?」
エリカの言葉に、僕の思考が跳ね上がった。
「セラが……来ているのか……!?」
「ええ。一日中、サラさんを観察していたみたいで。お兄様には、渡すタイミングを逃してしまったらしくて、『クロード様に直接お渡しできないなんて、わたくしの計画が台無しですわー!』と頭を抱えてうちへ駆け込んで来たわよ。だからお兄様もどうかしら? 今なら私の部屋にご招待……って、あら、お兄様!?」
エリカが言い終わる前に、僕は足が勝手に動き出していた。
是が非でも、僕は一刻も早く彼女に会いたい一心で、足を早めてエリカの部屋へと向かった。階段を駆け上がり、エリカの部屋の扉の前へ立つ。大きく息を吸い込んで呼吸を整えると、そっとドアを開けた。
「あ、エリ。クロード様は……っ!!? ひ、ひゃいっ!?」
部屋の中央、ソファーに座っていたセラが、僕の姿を見るなり猫のように跳ね上がり、奇妙な悲鳴を上げた。入ってくるのが僕だとは思ってなかったらしい。
その手に、可愛らしいリボンで飾られた小さな小箱が大切そうに抱えられていた。
(……あれが、僕の!)
「ク、クロード様……っ! お、お帰りなさいませ……!」
顔をリンゴのように真っ赤にして、ガタガタと震えるセラ。一日中待ち焦がれたその姿を目にして、僕の胸の奥にあった暗いモヤモヤは一瞬で消し飛んでしまった。
「ただいま、セラ。……今日、君が僕にお菓子を用意してくれているとエリから聞いていたのだが」
(お帰りなさいませ……セラにそんなことを言ってもらえる日が毎日になればいいのに)
あえて少しだけ寂しかったというニュアンスを込めて見つめると、セラは「??っっ!?」とさらに顔を赤くし、半ばパニック状態で手に持っていた小箱を両手で僕に突き出してきた。
「っ! こ、これをお受け取りくださいまし! た、ただし勘違いなさらないでくださいませね!? これは……これは完璧な義理のお菓子ですの!! 果実の量も極限まで減らしておりますし、決して特別扱いなどではありませんわ!!」
必死な顔で「義理です! 義理ですから!」と強調するセラ。
箱を開けると、そこには型から生地の膨らみ具合に至るまで、信じられないほど手間と時間をかけて焼き上げられた、極上のカップケーキが収められていた。上には上品に、一粒だけ真っ赤なルビィ・ベリーがちょこんと乗っている。
(!?……クッキーでは、ない?)
果実の量は少ないかもしれない。だが、どれだけ手間暇をかけて僕のために作ってくれたのか、一目で伝わってくる素晴らしい完成度だった。
(一日中特待生の彼女を追い回してタイミングを逃し、わざわざ僕の屋敷まで届けてくれて……それで義理と言い張るのか……)
そのあまりの可愛らしさと、僕のために必死になってくれたという愛おしさに、僕は胸が熱くなるのを抑えきれなかった。
(……ああ、なんて愛おしいんだ)
「そうか……義理か。……でも、ありがとう、セラ。受け取らせてもらうよ」
「は、はい……っ! 決して深い意味はありませんから、気兼ねなくお召し上がりくださいませ……っ!」
汗をかきながら必死に取り繕うセラと、その後ろでいつのまにか紅茶を飲みながら「ふふふ」と楽しそうにニヤニヤ見守るエリカ。
僕は胸の奥から込み上げる愛おしさと嬉しさを抑えきれず、そんな二人を気にも留めず、極上の笑みを浮かべた。
義理だと必死に言い張るセラが、僕のためにこんなにも特別なお菓子を作ってくれたのだ。嬉しくないわけがない。
「ありがとう、セラ。大切に食べるよ。僕にとっては、どんなものより特別な贈り物だ」
「っ!? だ、ですから義理だと申しておりますのにーっ!! 美の暴力ですわーーっ!!」
顔を真っ赤にしてパニックになるセラ。
そのすぐ後ろで、エリカが更にニヤニヤと生温かい笑みを浮かべて僕たちのやり取りを存分に楽しんでいた。
僕はエリカのことなど気にせずに、受け取った小箱のフタを、そっと再度持ち上げた。
改めて見ると、確かに果実の量は義理のルール通りだ。だがどれだけ試行錯誤して、僕のために丁寧に焼き上げてくれたかが一目で伝わってくる素晴らしい完成度だった。
(……これで義理だなんて……)
僕は、頬が緩むのを必死に抑えるので精いっぱいだった。
(だめだ。ニヤけてしまう。こんなにも嬉しいもんだなんて知らなかった)
「あの……クロード様? あまりじろじろ見られますと恥ずかしいと言いますか……もしお口に合いそうもなければ、無理に今召し上がらなくても……っ!」
視線に耐えかねたセラが、モジモジと手を捏ねくり回しながら視線を泳がせている。そんな彼女を愛おしく見つめ返しながら、僕は微笑んだ。
「いいや。せっかく君が届けてくれたんだ。今、ここでいただいてもいいかい?」
「えっ!? あ、は、はい! どうぞ……っ!」
僕は小箱からカップケーキを取り出し、そっと一口口に含んだ。
(――っ! 僕の婚約者と、待ち焦がれた果実の味)
しっとりと柔らかく焼き上げられた生地が、口の中でやさしく解けていく。極上のバターの風味と、隠し味に使われている香ばしいナッツの香り。そして中心には、洋酒漬けのナッツが忍ばせられていた。
ルビィ・ベリーは一粒だけ。けれど生地のどこを味わっても、セラが僕のために心を砕いてくれた、無自覚な愛情が溢れ出している。
「……驚くほど美味しいよ、セラ」
僕は胸の奥から溢れ出る熱い愛おしさを隠すこともせず、極上の笑顔を彼女に向けた。
「僕のために……こんなにも手間暇をかけて、特別なお菓子を焼いてくれたんだね。本当に嬉しいよ」
「っ!???」
僕の言葉と笑顔を真正面から浴びたセラは、まるで雷に打たれたように固まり、顔を耳の先まで真っ赤に染め上げた。
「ち、違……っ! ち、違いますわクロード様! それは生地のパサつきを抑えて我が家の威厳を保つために致し方なくっ……! だ、ですから義理だと申しておりますのにーっ!! ひぃぁっ! 美の暴力がダイレクト攻撃してきますわーーっ!!」
両手で真っ赤な顔を覆い、自分の胸を押さえながらソファーの上で悶絶するセラ。
「ふふ、そうか。義理か。だが僕にとっては、どんな本命の贈り物よりも甘くて特別な味がするよ」
「っっっ!?」
パニックのあまり「にゅ……っ」と妙な声を漏らして倒れ込みそうになるセラを、僕はそっと手を差し伸べて抱き留めた。
そのすぐ後ろで、エリカが紅茶のカップを傾けながら、「あらあら、お兄様たら容赦がないわね。ごちそうさま」と、ニヤニヤと生温かい笑みを浮かべて僕たちのやり取りを存分に鑑賞していた。
神様、どうか感謝させてほしい。
今年もらったたった一粒の赤い果実は、僕の生涯で一番甘く、愛しい最高の贈り物だった――




