第12話 僕の婚約者は、愛おしい
時は少しさかのぼり、王立学院入学式後の生徒会室――
「……ふぅ」
入学式が滞りなく終了し、新入生も無事今日の行程を終えたので、生徒会室へと戻った僕は生徒会副会長用の執務机の椅子に深く腰掛け、そっと溜め息をついた。もちろん、疲れからくる溜め息ではない。
(今日のセラも、この世の何よりも可愛かったな……)
大講堂の良席に座りながら、遠目にもバッチリとセラの姿を捉えていた。慣れない重厚な雰囲気に気圧され、目を丸くしてキョロキョロと周囲を見回す姿。隣のエリカと楽しそうに笑い合い、小さく息を吐く仕草。つややかなつつじ色の縦ロールの髪を揺らすその一挙一動が、僕の心を容赦なく撃ち抜いていたのだ。
(少し緊張していたようだったが、体調は悪くなかっただろうか。式が終わったら、すぐにでも駆け寄って声をかけたかったが……)
「おいおい、クロード。式が終わった瞬間からずっとニヤけているぞ。顔を戻せ、男前台無しだ」
呆れたような声が上から降ってきた。見上げれば、金髪を揺らしたユリウスが、書類の束を片手にニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。幼馴染であり、この国の第二王子でもある彼には、僕の「セラフィーナ溺愛癖」などとっくの昔にバレている。
「……ニヤけてなどいない。式の進行に滞りがなかったか確認していただけだ」
「嘘をつけ。セラフィーナ嬢のことだろ? 壇上から挨拶している時も、お前の視線がずっと一箇所に固定されていたからな。『副会長、どこを見ているんだ?』ってヒヤヒヤしたぞ?」
「……僕は完璧に任務を果たしていたはずだ」
「どこがだよ、まったく。セラフィーナ嬢が遅刻してきた特待生の方を向いた瞬間、一瞬だけ恐ろしい顔でその特待生を睨んでいただろ。嫉妬の炎で見失うなよ」
ズバリと言い当てられ、僕は苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んだ。気心が知れすぎている幼馴染というのは、実にやりづらい。
その時、生徒会室の重厚な扉が豪快に開いた。
「失礼する! 本日の式典警備の報告を完了した!」
ドカドカと重い足音を立てて入ってきたのは、幼馴染のもう一人、騎士団長の子息であるディルク・ハインリッヒだった。
鍛え上げられた逞しい体躯に、鋭い眼光。制服の上からでもわかる圧倒的な筋肉の鎧を纏った男だが――生憎なことに、根っからの脳筋で生真面目すぎるのが玉にキズだ。
「お疲れ、ディルク。異常はなかったかい?」
「ああ! 扉を勢いよく開けて飛び込んできた特待生が一名いたが、怪しい者ではなかったしな! しかし、クロード。お前は少し筋力が足りないのではないか?」
「いきなり何の話だ、ディルク」
「……そうそう、その特待生といえばさ」
ディルクの言葉を受け、ユリウスがクスッと楽しそうに微笑んだ。
「式が終わった後の校内案内で、一年生が図書室に来ただろ? その時、ちょうど例の特待生の女の子に会ったんだよ」
僕が「ほう」と視線を向けると、ユリウスは懐かしむように言葉を続けた。
「高い棚の本を取ろうとして背伸びしていたからさ、僕が代わりに取って渡してあげたんだ。そうしたら顔を真っ赤にしてペコペコお辞儀をしちゃってさ。いやぁ、一年生はみんな素直で初々しくて可愛らしいよね。うちの生徒会にも、あんな風に素直な後輩が入ってくれるといいんだけど」
「ふむ! 礼儀正しい新入生だな! 素晴らしい!」
ディルクが深く頷く横で、僕は心の中でそっと安堵していた。
(なんだ、ただ本を取ってやっただけか……。セラがまた何か突飛な妄想を膨らませていなければいいのだが)
「……それでディルク。さっきの「筋力が足りない」というのは何の脈絡だ」
話を引き戻すと、ディルクは待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「話は簡単だ! 式の最中、お前の視線がセラフィーナ嬢に一直線だったのは俺も確認した! 恋焦がれて熱い視線を送るのは構わんが、視線を送るだけで体力が削られているように見える! もっと大胸筋を鍛え、背筋を整えねば、セラフィーナ嬢を生涯守り抜くことはできんぞ!」
「……」
ディルクは至極真面目な顔で、クソ真面目に筋肉論を語っていた。からかう意図すらなく、素で言っているのが一番タチが悪い。
「くっ……くははは! ディルク、お前最高だな!」
ユリウスが腹を抱えて爆笑している。
「ディルク。僕は剣術も嗜んでいるし、体幹も鍛えている。これ以上筋肉をつけるつもりはない」
「甘いぞクロード! 愛とは即ち筋肉だ! セラフィーナ嬢が転びそうになった時、一瞬で抱き止められる反射神経と上腕二頭筋があってこその騎士! 婚約者だろう!」
「……セラはそんな簡単に転ばない。それに、僕は騎士ではなく文官を目指しているんだが」
「文官だろうと筋肉は裏切らん!」
真顔で腕組みをして言い放つディルクに、僕は深く頭を抱えた。この脳筋と会話をするのは、いつだって体力を削られる。
「まあまあディルク、それくらいにしてやれよ。クロードはこれから、セラフィーナ嬢が屋敷にやってきて手作りクッキーを差し入れしてくれる約束になっているんだからな。今から浮ついて仕方ないんだ」
ユリウスがニヤニヤしながら追い打ちをかけてくる。
「む! 手作りクッキーだと!? クロード、砂糖の量には気をつけろよ! 肉のもとが不足するぞ! 鍛錬粉を混ぜてもらうようセラフィーナ嬢に頼んだ方がいいのではないか!?」
「絶対に頼まない。セラの作ってくれたものをそのまま味わうのが至高なんだ」
僕は即答した。……まったく、騒がしい幼馴染どもだ。
だが、時計の針を見つめると、自然と口元が綻んでしまう。エリカから連絡があり、セラが屋敷に帰ってクッキーを持ってきてくれるらしい。
「そろそろ時間だな。僕はアリントン邸へ戻る」
「はいはい、行ってらっしゃい。セラフィーナ嬢にデロデロに甘やかされてくるといいよ」
「クロード! クッキーを食べた後は重力順応運動百回だぞ!」
幼馴染たちの適当な見送りと暑苦しい助言を背に受けながら、僕は生徒会室をあとにした。
待っていておくれ、セラ。君が義務だと思っている僕の愛が、どれほど重く、深いものなのか――いつか君が気づくまで、僕は何度でも君を愛し続けるよ。
◇◇◇
生徒会室での騒がしいやり取りを終え、アリントン侯爵邸へ戻ってきた僕は、自分の部屋でそわそわと落ち着かない時間を過ごしていた。
部屋の鏡で何度も身なりを整え、髪の乱れがないか確認する。幼馴染のユリウスには「浮かれている」と笑われたが、仕方がないだろう。
(セラの手作りクッキーだぞ……? やっと口にできるのに、楽しみに待っていないわけがない……!)
セラとの都合がなかなか合わず、クッキーを持ってきてくれると約束してから今日まで、どれほど首を長くして待っていたか。エリカには「首がもげる」とまで言われたが、あながち間違いでもない。
時計の針が約束の時間を少し過ぎた頃、廊下から足音が聞こえてきた。
……が、なぜか部屋の前で足音がピタリと止まり、なにやら中でブツブツと呟く気配がする。
(……セラ? どうしたんだ?)
扉越しでも伝わってくる、セラの独特な「一人パニック」の気配。待ちきれなくなった僕は、ノックの音ともに自分から扉に手をかけ、勢いよく開けた。
「……っ」
扉を開けると、そこには案の定、紙袋を大事そうに抱えながら、フリーズしているセラの姿があった。つつじ色の縦ロールの髪を揺らし、目まぐるしく表情を変える彼女の可愛さに、心臓が跳ね上がる。……ダメだ、僕まで顔が熱くなってくるのがわかる。
「えっと、クロード様、ごきげんよう。あの、大丈夫ですの? 具合が悪いのではないですか?」
僕の赤くなった顔を見て、先ほどまで何やら考えていたことをいったん置いといたのか、首をかしげながら心配そうに聞いてくるセラ。
(君の可愛さに当てられたからだよ!)とは口が裂けても言えず、僕は平静を装って咳払いを一つした。
「セラ。……大丈夫。それより、遅いから迎えに行こうと思ってたところだ。すれ違わなくてよかった」
「ふふふ。それなら良かったですわ。でも、あまり長居はしないようにしますわね」
(長居どころか、ずっとここにいてくれて構わないのに……!)
心の叫びを押し殺し、礼儀通りに扉を少し開けたままにして彼女をソファへと促した。部屋の中にセラの甘く華やかな香りが広がり、僕の胸はさらに高鳴っていく。
「クロード様、以前お話していたクッキー、本日焼いてきましたの」
「……そうか」
「クロード様はあまり甘いのはお好みではないかと思いまして、甘くないプレーンとチーズとドライハーブの三種類にしてみましたの」
「え!? 三種類も……?」
そう言って渡された紙袋をそっと覗き込むと、そこには綺麗にラッピングされた三種類のクッキーがぎっしりと詰まっていた。
言葉を失ってしまった。
僕の好みを真剣に考え、忙しい時間の合間を縫って、わざわざ三種類も焼き上げてくれたというのか……?
胸の奥から溢れ出す愛おしさに目頭が熱くなり、言葉が出ずに固まっていると、セラが急に青ざめた顔でソワソワし始めた。
「あ、やはりご迷惑でしたよね。ちょっと作りすぎてしまいましたもの、……っは! 全部渡す必要、なかったですわね」
(違う! 逆だ! 嬉しすぎて感無量になっているだけなんだ……!)
弁明しようと口を開きかけた瞬間、パニックになったセラが爆弾を投下した。
「あの、ど、毒とか入っていませんわ! だから安心して食べられたらよろし……っにょ!」
……にょ?
「……っ」
不意打ちすぎる噛み様に、僕の理性が吹き飛びそうになった。
顔を覆って穴があったら入りたいと言わんばかりに俯くセラ。可愛すぎる。反則だ。声を出して笑ってしまうのを必死で耐えるため、僕は顔を真っ赤にして全身をぷるぷると震わせるしかなかった。
「んん。それよりも、セラ。改めて入学おめでとう。わからないことがあれば僕に聞くといい」
何とか声を整えて話題を変えようとしたのだが、ここからセラの謎の悪役令嬢エンジンが全開になってしまった。
今日、図書室で特待生の彼女とユリウスが運命の出会いを果たしたこと。それが恋愛小説通りの黄金の定番パターンだったこと。そして――いずれ僕も彼女と出会い恋をして、セラとの婚約を破棄する日が来ること。
目をキラキラと輝かせながら、どれだけその展開が素晴らしいかを熱弁するセラ。
(ああ、やっぱり。ユリウスは「ただ本を取ってやっただけ」と言っていたのに……。案の定、突飛な妄想を膨らませていたか)
心の中でそっと息を吐く。彼女の中では、僕たちが物語の登場人物であり、決められた運命に従って動いていることになっているらしい。
だけど――と、胸の奥が少しだけキュッと締め付けられる。
こんなにも楽しそうに、自分以外の運命のヒロインとの出会いを喜ぶ彼女を見ていると、どうしても抑えきれない感情が込み上げてくるのだ。
(君にとって、僕との婚約は……僕の側にいることは、それほどまでに義務でしかないのだろうか)
本当に僕から解放されたいのか。それとも、本気で僕の幸せを願ってそんな突飛な物語を信じようとしているのか。試すような真似はしたくないと思いつつも、僕は少しだけ声を低くして尋ねていた。
「……セラ」
「はいっ? なにかしら、クロード様!」
「その……特待生の彼女と会えて、そんなに嬉しいのか?」
僕の問いかけに、セラはライラック色の瞳を輝かせ、迷いもなく両手を胸の前でギュッと握り締めた。
「もちろんですわ! だって、サラさんが現れたということは、物語が正しく動き出した証拠ですもの! クロード様も近いうちにサラさんと運命の出会いを果たして……その、義務だけのわたくしから解放される日が来ますわよ」
晴れやかな笑顔でそう言い切った直後――セラはなぜか言葉を詰まらせ、胸のあたりにそっと手を当てて首を傾げた。
ほんの一瞬だけ見せた、寂しげで戸惑うような表情。自分自身の言葉に、自らの心が傷ついていることすら気づいていない様子で、「なんで?」と無自覚に首をかしげている。
(――っ! 僕の婚約者は、今日も愛おしい)
「義務から解放される」なんて強がりを言いながら、僕と離れる未来に心が悲鳴を上げているのだと思いたい。その無自覚な恋心と愛おしさに、僕の胸は温かな感情で満たされていく。
僕はふっと目元を緩め、とりあえずセラが持ってきてくれたドライハーブのクッキーを一枚手にとり、口へと運んだ。サクッとした心地よい食感と、ハーブの上品な香り。僕の好みを完全に把握した、完璧で、何より温かい味が口いっぱいに広がった。
「このクッキー……とても美味しいよ」
「……でも、あのクロード様、あまり無理なさらないでくださいませね?」
「……本心だ」
本当は、セラのクッキーを僕一人で全部買い占めて、大切に一枚ずつ食べたいくらいだ。
「まぁ! それならば、甘くないクッキー正解でしたのね。良かったですわ。婚約破棄されるまでに、もう一度くらい作って差し上げますわね!」
「…………婚約破棄?」
僕は思わず眉をひそめた。こんなに美味しくて、僕のことを想って作られたクッキーを食べさせられておきながら、どうして婚約破棄なんて言葉が出てくるのか。
「セラ、もう一度言うけれど無理なんてしていないよ。僕は、君がそんなに楽しそうに話してくれるなら何よりだよ。……でも、僕が誰に恋に落ちるかは、僕自身が決めることだからね?」
釘を刺すように優しく語りかけると、セラはどこかぽかんとした顔で僕を見つめ返した。
「え……? ええ、もちろんですわ! クロード様の運命のお相手はサラさんですから……!」
(……本当に、君という人は)
目の前で可愛らしく首を傾げる愛しい婚約者を見つめながら、僕は心の中でそっと誓った。
どんな物語の定番パターンがあろうと、どんな運命が立ち塞がろうと関係ない。
僕の運命の相手は、出会ったあの日からずっと――君だけなのだから。




