第7話 わたくし、ヒロインと遭遇しましたわ!?【後編】
あれから私は、もう何も手につかない状態になっていた。リーナはずっと心配してくれていたが、私の中ではそれどころではないわけで。
帰宅しても、私はお父様にもお母様にも、今日のことを話すことなく自室へと一直線で戻っていった。
お父様は、少し心配そうな顔をしながらも、「初めて下町へ行ったんだから、ゆっくりしなさい」と言ってくれた。感謝しかない。心配かけてごめんなさい。でも、ちょっと今は一人になって、整理したい。
(……落ち着いて、わたくし。ふぅ。……わたくし、今日ヒロインに会ってしまいましたわ……サラさん。本当に可愛らしい方でしたわ)
ベッドの上で枕を抱きしめながら、私は一人、猛烈な反省会を開催していた。これが、反省せずにいられるか。だって――
(……わたくしったら、どうして咄嗟に「サラ」なんて偽名を名乗ってしまいましたの!?)
偽名を使うにしても、もう少し他に候補があったはずだ。なのに、あのとき私の脳裏に浮かんだのは、他でもないクロード様の顔だった。いずれクロード様は、本物のヒロインであるサラさんと恋に落ちる。それは分かっていたはずだった。けれども――
(……クロード様にサラと名前を呼ばれて、優しく微笑んでもらえる未来の彼女が見えて……ほんの少しだけ、羨ましかったのですわ)
もし自分が彼女の立場だったら。そんなことを、ほんの少し考えてしまった。その瞬間、口から出てきたのが――サラだった。
……って、何をやっているのよ、私! 「サラさん」に「サラ」って、ややこしすぎるでしょう! でも、それより問題なのは――
(……もし、わたくしが彼女の立場だったら……って、なに?)
え? なんで、そんなこと考えちゃったの? 羨ましいって……何が?
自分でも分からない思考の渦に、どんどん沈んでいく。
なんだそれ?
なんだそれー!?
胸の奥が、またチクリと痛んだ。
……なんで痛いのか、自分では分からない。これが恋だと気づくには、今の私はあまりにも前世の小説脳に支配されすぎていた――。
(いけませんわ! よく分かりませんけれども、悲しんでいる暇があったら、没落後の自立のために社会勉強ですわ! それに……)
私は、机の上に置かれた紙袋を見つめた。中に入っているのは、今日買ってきたはちみつ仕立てのロールパン。すっごく良い匂い!
……ちょっと、なんだかお腹が空いてきちゃった。そういえば、お昼も食べていないんだっけ。あ、リーナ……。ごめん。付き合わせちゃったよ。後で謝っておかなきゃ。ほんと、ヒロインのことで頭がいっぱいになってたわ。やばいやばい。
とりあえず、私は袋からはちみつ仕立てのロールパンを取り出し、ぱくりと一口かじった。
――っ!
なにこれ、なにこれ。
すっごい美味しい!
え? 本当にナニコレ?
お邸で食べる白パンも美味しいけれど、それとは違う。これこそ、私が求めていたパン! 素朴なのに、ふんわりと香る小麦の味。そこにはちみつの甘さが加わって、すごく美味しい! これ、焼きたてを食べたら、もっと美味しかったんじゃない? やだ、どうして焼きたてを食べなかったのよ、私!
なんだか、これを食べていたら、すっごく元気になれる気がするわ。
そうよ。落ち込んでいる場合じゃないわ。……あれ? なんで落ち込んでたんだっけ?
私は思わず首を傾げる。うんうん唸ってみるけれど――
なんでだっけ?
……ま、いっか。
(自立のためにも、あの木漏れ日パン工房の調査は続ける必要がありますわ。……決して、パンが信じられないほど美味しくて、また食べたいからではありませんことよ?)
そう自分に言い訳をしながら、私はノートを開き、新たな証拠を力強く書き加えた。
『証拠㉑:ヒロインと遭遇。木漏れ日パン工房のサラさん(※パンが絶品)』
◇◇◇
翌日。
我が家にさっそく相棒のエリを呼び出した。だって、どうしても話さなきゃいけないと思ったの。これは、一大事だもの。そう、一大事よ!
「セラ! お招きありがとう。調子はどう? 新しい証拠は見つかった?」
応接室に入ってくるなり目を輝かせるエリに、私は周囲を気にするように声を潜め、手招きした。その瞬間、また胸がチクッとした。
……この間から、たまにあるんだけれども、何だろう? なんか病気かな。え? やだ。今度、お母様に相談しようっと。
「エリ、よくいらしてくださいましたわ。実は……とんでもない証拠が見つかりましたの」
「えっ? いきなり、とんでもない証拠!? お兄様以外にもそんなのあったの?」
ゴクリと息を呑むエリの前で、私は厳かに『証拠のノート』を開いた。そして、新しく書き加えられたページをビシッと指差す。
【証拠㉑:ヒロインと遭遇】
「わたくし、ついにこの世界の「ヒロイン」と遭遇いたしましたわ!」
「え、ええっ!? ヒロイン!?」
エリが大きく目を見開く。そりゃそうでしょうとも。ヒロインに会うなんて、私だって想像していたけれど、まさか本当に会うとは思っていなかったもの。
……っていうか、想像してたの? してなかったの? もうね、私にとっても、どっちだよ!? って状態よ。でも会っちゃったんだよ、これがさ。
「ええ。下町のパン屋さんの娘で、名前はサラさん。ひまわりのように愛らしくて、それはもう、一目でヒロインだと分かる素晴らしい方でしたわ!」
「パン屋さんの娘さん……。それで、どうしてその子がヒロインだって分かったの?」
エリの純粋な疑問に、私は待ってましたとばかりに人差し指を立てた。
「いいですか、エリ。恋愛小説におけるヒロインの鉄則は、素朴で、誰からも愛されるおてんば娘ですの! そして実家がパン工房というのは、王道中の王道! 間違いありませんわ!」
「なるほど……! 実家がパン屋さんなのが証拠なのね!」
「そうなのです!」
エリは感心したように頷いた。なんだかんだ言って、私に付き合ってくれているから、いろいろと分かってきたのね。いいことだわ。
……けれど。ふと、サラさんの笑顔を思い出す。あんなに可愛らしくて、優しくて、素敵な女の子。本当に、ヒロインそのものだった。
「……ただ、一つだけ問題がありまして」
「問題?」
「ええ……」
私は少しだけ俯いた。また、なんだか胸が痛いきがする。やだ、もう。大丈夫? 私……ここは気合よ気合! 気合で治れ!
「サラさん、本当に素敵な方なんですの。あんな素敵な子なら……クロード様がいつか彼女と出会って、恋に落ちてしまうのも当然ですわ」
言葉にした瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。今度は気のせいかな?なんてレベルではなく、本当に痛い――
……まただ。さっき気合い入れたのに、なんで? でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。私は顔を上げた。
「わたくし、悪役令嬢として立派にサラさんに意地悪する自信がありませんの……」
「……えっと、問題ってそれ?」
「ええ。悪役令嬢たるもの、立派に意地悪をしないといけないと思いますの。でも……だから、わたくし考えましたの!」
「……何を?」
「サラさんと仲良くなりますわ!」
「…………え?」
「だって、せっかく素敵なヒロインと出会えたんですもの。お友達になりたいですわ!」
「う、うん……」
エリが少しだけ引きつった笑顔を浮かべている。でも、私は気にしない。
「それに、クロード様とサラさんが出会ったとき、二人がすぐ仲良くなれるようにしておけば、わたくしも安心ですもの!」
「……セラ。それって……」
「あ、そうですわ!」
私は、ぽんと手を叩いた。
「わたくしが二人の橋渡しをしますの!」
「は!? えっ!? 橋渡し!?」
なぜかエリがものすごく慌てている。
「だって、クロード様とサラさんが恋に落ちるのなら、できるだけ円満に婚約破棄していただきたいですもの。お互いに嫌な思いをしないようにするのが一番ですわ!」
「いや、それは……」
「ですから、まずはサラさんと仲良くなりますの! 意地悪するよりも良いことだと思いませんこと?」
私は自信満々に胸を張った。
「それに、調査と自立の勉強も兼ねて、あの木漏れ日パン工房にも通いますわ!」
「……そっちが本音じゃないでしょうね?」
「……まあ! 失礼ですわ、エリ! そんなこと、ほんのこれっくらいしか考えてませんわ!」
親指と人差し指で、ほんの数ミリの隙間を作りながら、私は頬をぷくっと膨らませた。
「これは! 純粋に社会勉強ですの」
「……はいはい」
エリが何とも言えない顔で頷いていた。信じてないわね? 本当に、これっぽちしかパンが食べたいって気持ち持ってないんだから。大体、エリだってわかるわ。このパンを食べたらこの気持ちが!
「ほら、エリも食べてみてくださいませ!」
私はテーブルの上に用意しておいたパンを差し出した。
「木漏れ日パン工房のはちみつ仕立てのロールパンですの。信じられないほど美味しいのですから!」
「あ、ありがとう……」
エリはパンを受け取り、一口かじる。
「……本当。すっごく美味しいわね」
「でしょう!?」
私は思わず身を乗り出した。
「そうでしょう!? やっぱりサラさんのお店は素晴らしいですわ!」
「……そこまで気に入ったのね」
「もちろんですわ!」
美味しいパン。可愛いヒロイン。そして、これから始まる社会勉強。なんだか、楽しくなってきたわ!エリはそんな私を見ながら、遠い目をしていた。
(お兄様……本当に、本当に頑張ってね……)そんなエリの胸中など、私は知る由もなかった。
こうして私の少しズレた没落準備とヒロインとの友情が、本格的に始まった。だって、出会っちゃったんだもの。本物のヒロインに。
だから、クロード様とのことには、これ以上踏み込んではいけない。
それに――
純粋に、可愛かった。あんなに可愛いお友達、欲しくなって当然よ! かわいいお友達は大好物だもの。ご馳走様です!
きっと、お店に通うたびにサラさんとの仲は深まって、美味しいパンの誘惑にも勝てず、私の『証拠のノート』はどんどん賑やかになっていくに違いない。
だから、このときの私は、まだ気づいていなかった。自分が良かれと思って自分自身に引いた、その白線が――
後に、報告を聞いたクロード様を大パニックに陥らせることになるなんて。




