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第8話 竜

咆哮が、山を揺らした。


「岩陰へ!!」


ヴェルナの声が飛んだ。五人は崖の裂け目に転がり込んだ。頭上を、影が旋回している。


「外套の冷却を最大に。荷を体に寄せろ。――竜は目で見るより先に、熱で見る」


「熱で……そうか、冷え箱!」


テオは冷え箱を裂け目の入口に据え、出力を上げた。冷気が五人と岩をまとめて包む。体温の輪郭が、周囲の岩と混ざって消える。

旋回していた影が、二度、三度、頭上を過ぎ――やがて谷の方へ遠ざかった。


「……助かった、の?」


「隠れただけだ」ヴェルナは裂け目の奥で息を整えていた。「竜の縄張りで隠れ続けることはできん。いずれ見つかる」


「じゃあ、どうすれば」


「観察しろ」教授は短く言った。「相手を知らずに打つ手は、全部悪手だ」



裂け目から尾根の陰へ移り、遠見の水晶で竜の巣の谷を覗いた。

最初に気づいたのは、ミラだった。


「……ねえ。あの竜、様子がおかしくない?」


巣に降りた竜は、しきりに翼で自分の巣を扇いでいた。落ち着きなく巣の中で身じろぎし、時折、苦しげに首を振る。


「谷を見て。陽炎が、すごい」


言われてみれば、巣の谷全体が、湯気の立つ鍋のように揺らめいていた。


「……熱だ」クヴィンがぼそりと言った。「巣が、過熱してる」


「どういうこと?」


「竜血鉱は、熱を食う石。あの谷は竜血鉱の鉱脈の上にある。つまり竜の巣は――床下に、天然の冷却層を敷いてるのと同じ」


クヴィンは地質書をめくった。ページの隅に、先々代からの採掘記録の写しがある。


「でも、人間が何十年も掘った。太い鉱脈から、順番に。そこへ三年前、先代の竜が死んだ。竜血鉱は竜の血が岩に染みて育つ石。……補充が、止まった」


「冷却層が、痩せ細った」テオは思わず引き取った。「熱がこもる。逃げ場がない。……ミツバチと同じだ」


「そして、あれ」


ミラが遠見の水晶を渡してきた。覗き込んで、息が止まった。


巣の中央、竜が翼で必死に風を送っていた先に――卵があった。三つ。鈍い光を放つ、大人が抱えるほどの卵が。


「卵は熱に弱い」クヴィンが静かに言った。「巣の温度が上がりすぎれば、孵らない」


沈黙が落ちた。

気の立った若い竜。二度の採掘隊を追い返した怒り。閉じた山。

――全部、繋がった。あの竜は、巣を掘り崩しに来る人間から、茹だっていく巣の中の卵を、たった一人で守り続けていたのだ。


翼で。三年間。


「…………冷やそう」


テオは、気づいたら言っていた。


「巣を、冷やそう。俺たちなら、できる」


全員が振り向いた。正気を疑う目が四つ――いや、三つ。クヴィンの目だけは、既に鉱脈の屑石の山を見ていた。


「正気か、貴様」


ヴェルナだった。着任の日と、同じ台詞。


「正気です。理屈を言います。谷の下には水脈がある――クヴィンの地質書にそうある。掘り屑の竜血鉱は、等級が低くて商品にならないだけで、熱はちゃんと食う。なら、屑石を積層して冷却塔を組んで、吸った熱を水脈へ流せばいい。巣の床の熱を、丸ごと地下へ捨てるんです」


「層をどう繋ぐ。熱の通り道がなければ、ただの石の山だ」


「貫通魔孔を通します。層と層を貫く、垂直のマナの通り道――俺の専門です。ミツバチで千回試した」


ヴェルナは長いこと黙っていた。それから、遠見の水晶を取り、巣を、卵を、翼を動かし続ける竜を見た。


「……時間は」


「卵の限界を考えると、今夜一晩」


「無茶だ」と言ったのはミラだった。「五人だよ? 資材は屑石と手持ちだけ。設計図もない」


「描きます、今から」


「一晩で!?」


「だから――」


「――お前たちは、手を動かせ」


静かな声だった。

振り向くと、ヴェルナが外套を脱ぎ、袖をまくっていた。


「設計は、私がやる」



その夜のことを、テオはたぶん一生忘れない。


ヴェルナの手から、図面が生まれていった。

屑石の等級ごとの配置。層の厚みの配分。熱の流れの計算。そして貫通魔孔の位置決め――テオが千回の試作でようやく掴んだ勘所を、教授は定規一本で、一発で置いていく。


層の整合のずれを、指先の感触だけで言い当てる。

中間層の熱だまりを、図面の段階で三つ、先回りして潰す。


それは、単陣式の設計ではなかった。どこからどう見ても、積層の――それも、テオより遥か先を歩いた者の手つきだった。


「先生……あなた、積層を」


「手を動かせ。話は、あとだ」


それきり、誰も口をきかなかった。ロロが刻み、クヴィンが石を選り、ミラが資材を回し、テオが魔孔を通し、ヴェルナが全体を睨む。五人の研究室が、一つの装置みたいに回った。


問題は、最後に起きた。


冷却塔は組み上がった。だが起動用の魔力が足りない。塔の陣を初回駆動させるには、手持ちの魔力庫では二割足りない計算だった。


「……足りないなら、無理やり流せばいい」


テオは自分の腕の魔力回路を、塔の起動陣に直結し始めた。定格を超えた魔力を術者の身で押し込む――工房の禁じ手、過励である。職人だった頃から、テオはこれで何度も「あと少し」をねじ伏せてきた。


「二割なら、いける。三十秒、俺が保てば――」


手首を、掴まれた。


万力みたいな力だった。振り向くと、ヴェルナの目がすぐそこにあった。


「若い人間は、すぐ無茶をする」


いつもの口癖。なのに、声がまるで違った。低く、掠れて、底のほうが震えていた。


「駄目だ。それだけは、駄目だ。……過励で保つ三十秒の先に何があるか、私は、知っている」


「でも、先生、魔力が二割――」


「二割だろう」


ヴェルナはテオの手を起動陣から外させると、代わりに自分の掌を置いた。


「エルフを、六百年やっている。魔力の量だけは、な」



起動の瞬間、谷に音はなかった。


ただ、陽炎が薄れた。

湯気の鍋のようだった谷の揺らめきが、端のほうから、すうっと凪いでいく。積み上げた屑石の塔が熱を吸い、貫通魔孔が熱を運び、地下の水脈が受け取っていく。


巣の中で、竜が翼を止めた。


止めて、ゆっくりと首をもたげ、まっすぐこちらを見た。


「……気づかれてる」


「逃げるな。動くな」


ヴェルナが一歩、前に出た。そして、テオの知らない言葉で、短く何かを唱った。歌のような、古い古い言葉だった。


竜は答えなかった。

代わりに、巣の床に鼻先をつけ、温度を確かめるように長く息を吐いた。それから卵に頬を寄せ――ずいぶん長いあいだ、そうしていた。


やがて竜は首を持ち上げると、崖の一角を爪で示した。巣から離れた、竜血鉱の太い露頭を。

そして、足元の岩から拳より大きい竜血鉱の塊をひとつ、爪で無造作に剥がして、五人の前に、ころりと転がして寄越した。


「……えっと、これは」


「対価だ」ヴェルナが静かに言った。「そこの鉱脈から採ることを許す。そういうことだ。……山の主というのは、昔から律儀なのだ」


ロロが泣きだし、クヴィンが石に頬ずりし、ミラがへたり込んだ。

夜が明けようとしていた。



――そして、夜明けの光の中。


谷の入り口に、ぞろぞろと人影が並んだ。

揃いの外套。天秤の紋章。先頭で、バルツァーが冷却塔を見上げ、口笛を吹いた。


「……ほう。山が、開いたか」


嫌な笑みだった。


(第9話へつづく)

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