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第5話 遠征準備

教授が、遠征についてくる。


あの、六百歳の、偏屈の、積層嫌いの、ヴェルナ・アルスハイト教授が。

研究室はこの一件で、まる一日ざわついた。


「な、なんで急に……先生、外に出るの年に数回なのに……」


「理由なら聞いた」とテオ。「『学生と野良だけで竜の山に入られてみろ。死なれたら監督責任で書類が増える。それだけだ』だそうです」


「先生が『書類が面倒』を理由に使うの、初めて聞いたよ」


ミラはそう言って、少しだけ目を細めた。何か言いたげで、結局何も言わなかった。



さて、遠征には二つ要る。金と、許可だ。

どちらの鍵も、同じ人物が握っている。


「――遠征費、金貨百枚? 正気かね、諸君」


学部長室。ダールマン学部長は、書類の山の向こうで眉を段違いにした。

恰幅のいい体に仕立てのいいローブ。学者というより、政治家の顔をした男である。


「公開試験のためです」テオは一歩前に出た。「竜血鉱が手に入れば、積陣式は三日三晩の課題を走り切れます」


「口では何とでも言える」


「では、実物で」


打ち合わせ通り。テオは机の上に改造ミツバチを置き、学部長室の隅の魔導暖炉に接続した。この季節、点けっぱなしの旧式暖炉だ。


「これは……」


「今、暖炉の制御をミツバチが握っています。消費魔力は元の六割。温度の揺らぎは十分の一。……で、ここからが本題です」


テオは接続をそのままに、懐中時計を机に置いた。


「旧式の単陣制御なら、この負荷で連続一時間が限度。ミツバチは親指の先ほどの竜血鉱で、これを何時間でも回せる。――拳大が四つあれば、大時計塔の百灯を三日三晩です。衆人環視の公開試験で、この差が出たら、どうなると思います?」


ダールマンの目が、算盤を弾く目になった。

ここはミラの入れ知恵である。曰く「学部長に技術の話はするな。『試験が盛り上がるか』と『自分の手柄になるか』だけ話せ」。


「きっと翌日の魔導経済新聞の一面はこうなるでしょう……単陣式の名門と、彗星のごとき積陣式の野良助教。世紀の対決は、前代未聞の熱戦に」


「良かろう」


食い気味だった。


「遠征費百枚、認める。許可状も出す。ただし――」


学部長は書類にペンを走らせながら、目だけを上げた。


「手ぶらで帰った場合、公開試験は貴君らの不戦敗として処理する。査定書類にも、そう書く。……投資とはそういうものだ。異存は?」


「ありません」


即答すると、隣のミラの靴が、テオのつま先をぎゅっと踏んだ。あとで怒られる顔だった。



かくして、研究室は遠征準備に突入した。


ロロは外套に耐熱の紋を刻み続けた。竜の岩山は火山地帯である。地肌の熱で、並の靴底は一日で駄目になるらしい。


「五人分の外套と靴と手袋! あー、俺、旅装の刻印なんて初めてだよ。楽しくなってきた!」


クヴィンは、どこから集めたのか岩山の地質書を机に積み上げ、竜の習性を延々と講義した。素材が絡んでいるので、饒舌モードである。


「……竜血鉱の鉱脈は、巣の近くに集中してる。つまり、竜を避けて掘るのは、原理的に、無理」


「さらっと怖いこと言わないでくれる?」


ミラは旅程と宿と保険の手配、それから全員分の誓約書を整えた。「遺骨の送付先」という欄があって、ロロが小さな悲鳴を上げた。


テオはといえば、工房に籠って新しい箱を組んでいた。

ミツバチの弟分――名付けて「冷え箱」。竜血鉱の欠片を芯にした携行用の保冷庫だ。旅の食料と、熱に弱い素材と、そして採れたての竜血鉱を安全に持ち帰るための、遠征の要である。


「箱に魔法陣を仕込むって発想が、もう工房だよねえ」と、ミラが呆れ半分に笑った。



出発前夜のことだ。

ミラは書類を届けに、教授の私室へ向かった。扉が、珍しく細く開いていた。


声をかけようとして、手が止まった。


部屋の奥。いつも固く閉じられている例の棚が、開いていた。

ヴェルナはこちらに背を向けて、何かを手にしている。古い、革の登山帯だった。使い込まれて飴色になり、金具のひとつに、黒い焦げ跡がある。


教授は、それを長いこと、ただ見下ろしていた。


ミラは音を立てずに扉から離れ、書類は朝に回すことにした。


(先生が黙るときは、だいたい地雷。……でも今のは、たぶん、うんと深いやつだ)



出発の朝は、よく晴れた。


南門には、借り上げた二頭立ての馬車。屋根に冷え箱、床下に工具箱、座席に五人と、大量の耐熱装備。


「南まで馬車で八日」ミラが旅程表を畳んだ。「途中、宿場が三つ。最後の村で案内人を雇って、山まで徒歩二日」


「長旅ですね。……ところで先生、その荷物だけですか?」


ヴェルナの荷は、小さな革鞄がひとつきりだった。あとは、腰に例の古い登山帯を締めている。六百歳の教授は、テオの視線を「なんだ」の一睨みで払った。


馬車が動き出す。

城壁が遠ざかっていく途中、御者台の老人が、世間話のついでのように言った。


「お客さんがた、南へ行きなさるのか。そういや近ごろ、南行きが多いねえ。ほれ、ヴェスタ商会。あの魔導具の大商会が、人足やら山師やらを、ごっそり雇って送り込んどるって話だ」


「……行き先は」


「さあて。噂じゃあ――竜の岩山、だと」


馬車の中の空気が、一段階引き締まった。


山は閉じている。石は市場にない。値は天井知らず。

――つまり、最初に山を開けた者が、全部を手にする。


「急ぎましょう」


テオの言葉に、御者が鞭を鳴らした。


(第6話へつづく)

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