第2話 くしゃみ
「いいかいロロ、浄陣室ではくしゃみ厳禁だよ」
「わかってるって! 俺を何年この部屋に入ってると思ってんの!?」
――この会話の七日後、ロロはくしゃみをする。
それも、最悪の場所で、最悪の瞬間に。
◇
公開試験まで、あと二か月。
ゼミ室の黒板には、でかでかとこう書いてあった。
『ミツバチの連続稼働時間:三十秒』
「……改めて書くと、ひどい数字だね」
ミラが腕を組んで言った。テオも同感だった。
「原因ははっきりしてます。層を重ねると、真ん中の層の熱に逃げ場がなくなる。冷却層を作り直すしかない。設計案は十三あります」
「十三!? 全部試すの!?」
「試作して比べるのが工房のやり方です。理屈で選ぶのは、理屈が信用できるときだけ」
「学者の前で言ったら殴られるよ、それ」
というわけで、研究室は一週間の試作漬けになった。
試作の刻印を行うのは、浄陣室という部屋だ。
結界で空気中の塵を締め出した、研究室でいちばん神経質な部屋である。なにしろ魔法陣の紋様は髪の毛よりずっと細い。塵がひと粒でも紋様の上に乗れば、そこで魔力の流れが途切れて、その陣はただの板になる。
この塵による欠陥を「塵障」と呼ぶ。刻印職人の、永遠の敵だ。
だから浄陣室に入る者は白い頭巾と面布で全身を包み、大声も、急な動きも、当然くしゃみも厳禁――というのが、冒頭の会話である。
一週間、研究室はよく回った。
テオが夜中に冷却層の設計を描き、朝にはクヴィンが何種類もの混ぜ物を調合して持ってくる。ロロがそれを浄陣室で刻み、ミラが全員の伝票と睡眠時間を管理する。
「先生は手伝ってくれないんですね」
「期待しない。……でもね」
ミラがちらりと廊下を見た。ヴェルナが通りすがりに歩を緩めて、ゼミ室の黒板を見ていた。目が合う前に、行ってしまったが。
◇
七日目。
十三案、計三十九枚の試作が、浄陣室の作業台にずらりと並んだ。あとは表面に保護の膜をかければ完成――という、まさにその段になって。
ロロの鼻が、面布の下で、むずりと動いた。
(あ、やばい)
目が泳ぐ。息を止める。堪える。堪える。
堪えきれなかった。
「……っ、ぶえっくしょい!!」
浄陣室に、盛大にこだました。
検査の結果――三十九枚、全滅だった。
「ごべんなざい……ほんとうに、ごべんなざい……」
ロロは工房の隅で膝を抱えていた。誰も責めなかった。責めなかったが、空気は鉛のように重い。一週間ぶんの材料費と人手が、くしゃみ一発で消えたのだ。
ミラは無言で伝票をめくり、クヴィンは無言で鉱石を磨いていた。
「先生には報告したんですか」
「した。返事は『そうか』の三文字だった」
それはそれで、心臓に悪い。
◇
その夜、テオはひとり浄陣室に残って、全滅した試作を一枚ずつ検分していた。
工房の流儀だ。死んだ陣は、必ず死因を調べる。次に同じ死に方をさせないために。
「……ん?」
おかしい。
くしゃみの飛沫なら、ロロが立っていた手前の列に欠陥が集中するはずだ。なのに、いちばん奥の列まで、まんべんなく死んでいる。しかも拡大鏡で覗くと、欠陥の芯にあるのは飛沫の痕じゃない。ざらついた砂粒――外の塵だ。
「……塵は、嘘をつかん」
振り向くと、廊下の暗がりにヴェルナが立っていた。夜回りか、ただの通りすがりか。
「数えてから泣け。話はそれからだ」
それだけ言って、行ってしまった。
(数える? ……欠陥の数を?)
テオは三十九枚すべての欠陥に印をつけ、位置を一枚の紙に写し取った。夜が明ける頃、紙の上に浮かび上がったのは、綺麗な扇形の分布だった。
扇の要は――浄陣室の、西の隅。
脚立を立てて天井近くを調べると、あった。結界の網の、ほつれ。髪の毛ほどの裂け目から、外の塵が、ずっと吸い込まれ続けていたのだ。
◇
「つまり、だ」
翌朝、テオは全員の前で紙を広げた。
「くしゃみがあってもなくても、今回の試作は全滅だった。塵障の主犯は結界のほつれ。ロロ、おまえは無罪だ」
「テオさぁん……!!」
抱きつこうとするロロを片手で止めつつ、テオは続けた。
「で、ミラさん。結界の修理、業者を呼ぶといくらです?」
「見積もり取った。金貨十五枚。……ちなみに装置予算の残りは三枚」
「でしょうね。なら工房流でいきます」
結界糸の張り替え自体は、道具と手順さえ知っていれば人力でできる。金のない工房では、全部自分でやるのだ。テオは廃棄予定の古い結界具から糸を回収し、丸一日かけて西の隅を編み直した。
検査の水晶をかざすと、室内の塵の量は、以前の十分の一以下になっていた。
「……ねえ、前より綺麗になってない? この部屋、私が来てから五年ずっと調子悪かったのに」
「じゃあ五年ぶんの不良、これから取り返しましょう」
焼き直しの試作は、三日で揃った。塵障による不良は、ほぼゼロ。研究室始まって以来の出来だと、ミラが伝票を撫でながら言った。
ただし――肝心の結果のほうは、甘くなかった。
十三案のうち最良の冷却層を積んでも、ミツバチの連続稼働は九十秒。
三十秒の三倍。大進歩で、まったく足りない。
「熱を『逃がす』やり方じゃ、ここが天井か……」
◇
黒板の前でうなっていると、ミラが速足で入ってきた。
「助教どの、続報。公開試験の相手が決まったよ」
「どこの研究室ですか」
「第一講座の若手エース、アルノルト助教。二十代で最先端の単陣を刻んだ天才……で、ここからが本題なんだけど」
ミラは、めずらしく声を落とした。
「彼、うちの出身。――ヴェルナ先生の、元弟子だ」
(第3話へつづく)




