第1話 野良助教
「貴様、正気か」
着任の挨拶から、きっかり三分だった。
(正気を疑われるの、早すぎないか?)
テオドールは内心でそう思ったが、口には出さなかった。初日である。さすがに初日くらいは我慢がきく。
テオドール、二十四歳。本日付で王立魔導大学、アルスハイト研究室の助教になった。
学位はない。留学経験もない。師匠は下町の工房長。要するに、正規の教育を受けていない叩き上げだ。学界での呼ばれ方は「野良」。ひどい呼び名だが、事実なので反論しづらい。
そして目の前にいるのが、ヴェルナ・アルスハイト教授。
エルフ。年齢はだいたい六百歳。魔法陣を一枚の平面に、どこまで細かく美しく刻み込めるか――その伝統様式「単陣式」の、生きた伝説である。
その伝説が今、心底嫌そうな顔でテオを見ていた。
「もう一度言ってみろ。着任早々、私の前で何を見せると?」
「積陣式の試作です。三層」
テオは布包みを解いて、机に置いた。
手のひらサイズの魔法陣だ。ただし、一枚ではない。薄い板が三枚、重ねて貼り合わせてある。
一枚の平面に全部を詰め込むのが単陣式なら、単純な陣を何枚も垂直に積み上げるのが積陣式。それだけの話だ。それだけの話が、この学界では禁じ手扱いされている。
「単陣式はもう限界です。これ以上細かく刻めば、魔力は漏れるし熱は出るし、まともに動く陣がほとんど取れない。だったら平面をあきらめて、上に積めばいい。陣と陣の距離が縮むぶん、速くもなる。理屈は単純でしょう?」
工房を飛び出してから五年、夜なべで作り続けた自信作だ。名前は「ミツバチ」。蜂の巣みたいに層を重ねるから。
ヴェルナは何も言わなかった。
ただ、ミツバチを一目見た――その瞬間。
教授の顔から、血の気が引いた。
ほんの一瞬だった。すぐ隣で書類を抱えていた女子学生が、小さく息を呑んだ。
だが、まばたきひとつの間に、教授はもういつもの仏頂面に戻っていた。
「積み木の家だ。いつか崩れる」
「崩れないように設計します」
「一枚に収まらぬものは、驕りだ」
取りつく島もなかった。
「学部長が貴様をねじ込んだ事情は聞いている。私は反対した。ここは単陣式の研究室だ。積み木遊びの席はない。……装置は好きに使え。以上だ」
教授はそれだけ言うと、羽根ペンを手に取って、もうこちらを見なかった。
面接終了。というか、門前払いである。
(さっきの顔は、何だったんだ?)
積層が嫌いなだけなら、あんな顔はしない。あれは嫌悪じゃなくて――もっと別の何かに見えた。
◇
「災難だったね。まあ、知ってて来たんだろうけど」
ゼミ室を出たところで、さっきの女子学生に声をかけられた。
「ミラ。博士後期。この研究室の予算と装置と、先生の機嫌を管理してる。よろしく、野良の助教どの」
「その呼び名、学内にまで広まってるんですか」
「広まってるどころか、君の採用は今学期一番の事件だよ。工房上がりの積層屋を、よりによって単陣式の総本山に放り込んだんだから。ダールマン学部長も無茶をする」
ダールマン学部長。テオを大学に引っ張った張本人だ。曰く「学界は停滞している。新しい風が要る」。つまり劇薬としてテオを放り込んだのだ。受け入れ先の教授に、断りもなく。
案内された研究室は、一言でいうと寂れていた。
廊下に飾られた歴代の名作魔法陣は、一番新しいものでも四十年前。装置は古く、棚は半分空っぽ。かつての単陣式研究の頂点は、今や「過去の栄光」扱いらしい。
その工房の奥から、悲鳴が聞こえた。
「あーっ、嘘だろ、焼き切れてる!」
革の前掛けをつけた青年が、大型の焼成炉の前で頭を抱えていた。試作の魔法陣を焼き固めるための炉だ。
「ロロ。刻印担当。腕は確かなんだけどね」とミラ。
「炉の温度管理の陣が寿命で死んだ! 替えの取り寄せは早くて二週間! 今週納品の依頼が三件あるのに!」
テオは炉を覗き込んだ。温度管理用の魔法陣が、確かに真っ黒に焼き切れている。単陣式の量産品。工房で何百枚も見た型だ。
「……繋ぎでよければ、三十秒ください」
テオはミツバチを取り出し、焼き切れた陣を外して、代わりに接続した。一層目に温度管理の術式を流し込み、二層目の魔力の蓄えから直接駆動する。外部の魔力供給すらいらない。
炉に火が入った。
「え、動いた!? ……いや、動くどころか」
ロロが計器に飛びついた。
「温度の揺らぎが半分以下だ! 応答も速い! うちの炉、こんな素直に言うこと聞いたことないぞ!?」
「層を重ねると、陣同士の距離が近いんです。命令が届くのが速い。積陣式の利点その一です」
ちょっと得意げになったのは許してほしい。五年分の成果が、初めて他人の役に立った瞬間なのだ。
だが三十秒きっかりで、テオはミツバチを引き抜いた。
「もう終わり!?」
「今のミツバチは、長く回すと中の層に熱がこもる。三十秒が限度です。……積陣式の弱点その一、ってところですね」
「なにそれ、惜しい! めちゃくちゃ惜しいなあ!」
騒ぎを聞きつけたのか、工房の隅から小柄な人影がぬっと現れた。鉱石まみれの作業着。素材担当のクヴィンというらしい。無言でミツバチを覗き込み、冷却用の三層目を指でなぞって、ぼそりと言った。
「……この混ぜ物、配合は。産地はどこ。この耐熱の粘りは普通の鉱石じゃ出ない。ということは――」
「はい、そこまで。その人、素材の話を始めると一時間止まらないから」
ミラが慣れた手つきで割って入り、それから、テオをまじまじと見た。
「……初日に装置を直した新人は、初めて見たよ。言っておくけど、うちは楽園じゃない。予算は毎年削られてるし、次の査定で減らされたら人減らしって噂まである。それでも来たんだから、せいぜい働いてもらうよ、助教どの」
「そのつもりで来ました」
◇
その夜。
割り当てられた机で、テオはミツバチの図面を広げ直した。そして、固まった。
図面の余白に、書き込みがある。自分の字じゃない。古風な、細い癖のある字だ。
『二層目、東の縦穴。整合が甘い。熱が乗れば半年で漏れる』
背筋が冷えた。図星だったからだ。
そこはテオ自身が「いずれ直す」と先送りにしていた、ミツバチ唯一の弱点だった。図面を数秒見ただけの人間に、撃ち抜けるはずがない。
積層は積み木遊びだと吐き捨てた、あの教授が?
考え込んでいると、廊下を走る足音がして、ミラが扉から顔を出した。手に一枚の通達文。
「助教どの、早速仕事だよ。学部長からのご指名」
「……嫌な予感がしますね」
「秋の査定に合わせて、公開試験をやるって。お題は――単陣式と積陣式の性能比較。学内のお歴々の前で、どっちが上か白黒つけろとさ」
テオは、机の上のミツバチを見た。
三十秒しか持たない、五年分の自信作を。
(……上等だ)
野良の腕前、見せてやろうじゃないか。
(第2話へつづく)




