36──老いた矮小な昔の怖さ
十四時間二十三分意識を失っていた。
神様のインタフェースから戻ってから、僕は夢を見ていない。
腕に何本か針が刺さっていた跡があった。
眠っている間に栄養を直接流し込まれていたのだ。
場所は相変わらず何もない牢屋。
いつだって出ようと思えば出られるが、出るという意志が確立されることはない。
悲しみも何も使い切ってしまったので、自然に任せて意識をオンオフさせているだけの存在になった。
意識がある状態では自分の肉体があることを感じ、意識がない状態では何も感じない。
どちらの状態であっても、何もしていないのは変わらない。
条件反射としての生命活動と、自殺するにも満たない弱った自我がただあった。
僕はそこにいるだけだった。
「意外と元気だな」
今日はまた別の人間が鉄格子の向こうに立っている。
キャプ・バーナーズ。僕の父だ。
「オペラさんとは話したか」
昔は怖かった。強くて、厳しくて、怠け者には目もくれない仕事一徹な人間だった。
キャプが鉄格子の向こうに立っている。最後に会ってから十年経っているが、微塵も衰えていない。僕の人間の部分が怖くて震えている。でも所詮他の人と同じだ。人はたくさん殺した。強度も運動能力も違えど、生理機能は同じで、どこを壊せば死ぬかも同じだ。言葉も視線も無視すれば、支障はない。怖く見えるものは、怖いだけだ。怖く聞こえるものは、怖いだけだ。怖がる部分は怖がらせておけばいい。それ以外の部分だけで人は殺せるのだ。
昔はあれだけ遠かったこの人が、今すぐにでも殺してしまえる距離にいる。
「なぁ、最近どうだ。こうやって話すのはいつぶりだろうな。父として、お前のことをあまり気にかけてやれなかったな」
キャプは普通の父親のようなことを言う。
「お前にもいつの間にか、あれだけ思ってくれる人ができていたんだな。キャニー、お前の捜査のために色んな人にお前の話を聞いたよ。それで、今、大勢の人が集まってくれた。これから、裁判までの時間で面会しに来てくれるだろう」
僕を思っている人はいない。それは僕じゃない。
声と体と思考が分離している。
声はずっと思考の劣化したものを垂れ流すし、体は息をしているし、思考は流れている。
僕は死なないのか。
僕はなぜ死なないのか。死にたいとも思えないのか。もう僕は誰とも関わるべきではないのだ。目の前のこの男は生物学上の父親であって、その上、警察だからという理由でここにいるのだ。僕は要らない。
キャプはまだ立っている。
キャプ自身に話しかけている。
僕にも話しかけている。
懺悔している。申し訳なくおもっている。何かを果たそうとしている。心配をしている。逃避したいと思っている。迷っている。言葉を選んでいる。キャニーを息子だと思おうとしている。逃げずに立っている。
「お前自身の口からな、お前のことを聞きたいんだよ。大丈夫だ。何を言っても、今度はちゃんと聞くから」
キャプは人を許すことをしない人間だった。
「実家には帰らないくせに、母さんの墓参りだけは来ていたよな。それでも会うことはほとんどなかったが、新しいお供え物があったから分かったよ。実家を出たのは学院に入るときだったな。昔のお前は冒険家になるとか言ってた」
昔書いた僕の夢の話をしている。いつ読んだのか。
「正直バカバカしいと思っていた。もっと堅実で社会の役に立つことをすべきだと思っていた。実際お前は何も努力をしていなかったからな。ドラ息子だった。でもな、オペラさんを助けて、色んな場所を旅したみたいじゃないか。遺跡とか行ったんだろ。まるで冒険家じゃないか」
僕はクズだ。逃げてばかりのクズだ。ハックを救えなかった。僕の力でやったことは何もない。あのとき真剣に生きていなかった。そのままの僕だったから、英雄になれなかった。消してしまったものは戻らない。
だから、僕はどうすればいいのだ。
僕はどうなっているのだ。肉を断つ感覚はまだこの手に残っている。生きている人間も死んでいる人間もどちらも肉の塊だ。そこの違いは少しだけだし、その薄い境界線を僕はたくさん壊した。簡単に壊せる。脆い。所詮は膨大な現象の集合体。火が燃えることと、人が生きていることは、どちらも特別なことではない。
呪文を編んで、そのアルゴリズムを揺さぶってやれば、世界の真実が露呈する。
この世界にいかなる特別も存在しない。無意味なのだ。
僕は冒険家ではない。冒険家に意味はない。僕がたくさんの命を壊したことは事実である。事実である。意味のない世界にも事実はある。事実は消しても仕方がない。僕は事実を消さない。ハックが消えた事実は消せないから。消すことに意味はない。
僕は鉱物でできた床に座り込んでいる。僕を包むように衣服の繊維があり、空気があり、壁と床と鉄格子があり。その向こうに人間が一人いる。
空気は揺れて、言葉を伝える。
「なぁ、聞かせてくれないか。旅で何を見たのか、何があったのか黙ってたら分からないぞ。……父さんに相談してみてくれないか。何か、話してくれ」
旅で何があったか話したって仕方ない。
何も意味はない。
僕の知る父であれば、このあたりで諦めて帰ったことだろう。
「お前が話してくれないなら、父さんの話を聞いてくれるか」
返事はない。
「実はコランさんにな、息子と向き合うのを避けていると、面と向かって言われてしまったのだ。今の役職についてからというもの、あれほどまでに真っすぐに私の欠点を指摘されたことはなかった。ずいぶんと堪えた。
なぁ、今からでも騎士団に来ないか。私といっしょが嫌なら警察省じゃなくていい。実はな、今回の裁判は非公開でお前の罪も実質的に揉み消す予定なんだ。なんとかその算段が付きそうなんだ。お前は悪の教団を壊滅させオペラさんの家族を助けた英雄として扱われる。警察の極秘任務扱いだから、表向きには発表できないが、お前の待遇は昔よりもずっとよくなる。それだけじゃない、遺跡について調査報告を挙げれば、研究者・冒険家として華々しいデビューをすることもできる」
父は仕事以外ないような人間だった。
今だって、僕の将来の仕事についてばかり話している。
人の心をそれと察するのが苦手な人だった。
その目にキャニー・バーナーズは映っていない。
キャプは父親らしいとされていることを話しているだけだ。キャニーが昔感じていた怖さやプレッシャーといったものは、キャプ自身のパーソナリティというよりも、正義の役職に殉じる覚悟とそれを調整できない能力の不足からくるものだった。はじめから悪意や敵意のようなものはなく、ただその力に圧倒されて、子どものころのキャニーは怯え逃げ出していたのだった。
あの昔の山中の洞窟で夜まで過ごしていたのも、家から逃げたいと思ってやっていたことで、あの時は一定それで逃げ切れていたのだ。だが今は、同じ石で囲われた空間に閉じこもっているのは変わらなくても、初めてそこに親が立っている。それを見て、小さなキャニーは母に来てほしかったと泣いている。その母ですら、見るに見かねて将来のことなど話に出したときには、急に疎ましいものに思えて、そんな夢をつい最近まで見ていたのだ。
今起きている現実と、白昼夢が重なる。現実などそのようなものだ。
「キャニー、将来何になりたい? あなたは、家を継がなくてもいいのよ」
「キャニー、お前はまだまだ若い。何も諦めなくていいんだ」
「キャニー、あなたは、何者にもなれるのよ」
「キャニー、お前は、何にだってなれるんだ」
父と母の声が初めて重なる。記憶の中のそれはいつも別々だった。
「父さんは気づいたらこの仕事しか選べなかったし、それをお前たちにも押し付けていたけど、ようやく今になって自由にしてやれる。許しを請いたいわけじゃない。許さなくてもいい。それもお前の自由だ。とにかく、裁判が終わればまた再出発なんだ」
キャプは無理やり言葉を拾っている。本当は話すことなど何もないのだ。
「父さんは友達が少ないし。正直組織内には仲の悪い人がいっぱいいる。だけどな、お前はオペラさんエメリーさんジャンゴさん他にも、友人が裁判に駆けつけてくれている。それを裏切ったらいけないよ。友人は大事にしなさい」
「もう、いい」
キャニーが失ったものは、もっと大きいものだ。
ハックとともに失われたものは、生きるために必要な何かなのだ。
ゴト・リッチーを名乗るやつはハックがもうこの世界から失われて、神様のインタフェースの力であっても復元できないと言った。情報さえあれば人間すら複製できるのに、削除されたものは元に戻らないといった。
僕の視界はずっと、神様のインタフェースの向こうの景色がチラついている。
目の前にあるもの、畏怖の対象だった父でさえただのタンパク質であると、この手で壊し方が分かってしまう現状ですら、ハックは見えない。余計なものばかり見える。この世界にいる人間は偽物になってしまった。それでも間違って壊してしまわないように、頭の中にふと浮かんだ思いつきから距離を取るように、体と思考が切り離されている。
「とにかく。裁判が終わればお前は自由だ。まだまだ人生長いんだから、心配してくれる人もたくさんいるんだから、大丈夫だ。ゆっくり身の振り方を考えておくと良い」
キャプはそう言って、立ち去った。
あれだけ正義の人だったキャプは、キャニーを罰しようとはしなかった。
ならば誰がキャニーを罰するのだろう。




