第8話「王都から、嫌な風が吹いてくる」
神殿の評判は村の外へも少しずつ広がっていった。
子どもの熱を癒やした話は、隣村へ、そのまた隣村へと伝わっていく。わざわざ一日がかりで遠くから拝みに来る者まで現れた。お供えも目に見えて増えていく。そのおかげで雨漏りの屋根に新しい板を張り、割れた窓を塞ぎ、祭壇には真新しい蝋燭を灯せるようになった。天井の大穴だけは、当の女神が「あたしの玄関だから!」と言い張るので、そのままである。荒れ果てて誰も寄りつかなかったあの廃神殿が、日に日に、人のぬくもりを取り戻していく。
順調すぎる、と、もっと警戒すべきだったのだ。
その男はよく晴れた昼下がりにやってきた。金糸の縫い取りも豪奢な祭服に身を包み、胸には光神アルバの紋章を提げている。ひと目で、王都の大神殿から遣わされた高位の聖職者だとわかった。供を二人も従えて、ずいぶんと仰々しい一行である。
男は神殿の中をぐるりと見回すと、露骨に眉をひそめた。修繕したとはいえ、所詮は田舎の古い神殿だ。王都の壮麗な大神殿を見慣れた目には、ひどくみすぼらしく映ったのだろう。
「ここが、噂の神殿か。ふん、ずいぶんとみすぼらしいものだな」
男は芝居がかったため息をついた。その態度だけで、こちらを見下しているのがありありと伝わってくる。
「私は、大神殿の司教ヴァルター猊下の名代として参った。近頃この地で、忘れられた古き女神が復活したと、不届きな噂が流れている。光神の秩序を乱す、由々しき異端の疑いがある。それを確かめに来た」
異端。その不穏な言葉に、傍らに控えていたハンナがびくりと身を強張らせた。私はさりげなくその手を握って、落ち着かせる。
そして、令嬢の微笑みで応じた。とびきり丁寧に、けれど一歩も引かずに。
「異端だなんて、とんでもないことですわ。ここはただ、村の人々のささやかな願いを聞くだけの、慎ましい神殿でございます」
「ほう? では、その女神とやらを見せてもらおうか。本物だと言い張るのなら、な」
まずい、と思ったときにはもう遅かった。
「はーい、あたしが女神だよ〜」
奥から、当の女神がのんびりと出てきてしまった。あろうことか、その手には食べかけの干し芋。神々しさよりも先に芋である。場の空気を、まるで読んでいない。
「お客さん? わあ、すっごく立派な服着てるね〜。お芋、いる?」
「……っ、ぶ、無礼な!」
名代の顔がみるみるゆで蛸のように赤く染まった。供の者が慌てて主人をなだめにかかる。私は内心で頭を抱えた。神様、後生ですからこういうときくらいは神様らしくしてください。
「光神に仕えるこの私に、芋を勧めるとは……! やはりまやかしだ。本物の神が、このように軽々しく振る舞うはずがない!」
名代は吐き捨てるように言うと、壁際に控えていた監察官に鋭い目を向けた。
「グリュン監察官。貴公の報告を、猊下は首を長くしてお待ちだ。この神殿が異端である動かぬ証拠を、早急に上げてもらいたい。よいな。猊下のご不興を買えば、貴公の立場も危うくなるぞ」
テオは無表情のまま深く一礼した。けれど――何も答えなかった。「ただちに」とでも言うかと思ったのに。その沈黙がなぜだか私には少し意外に思えた。
名代は最後にもう一度、神殿をじろりと睨めつけて、供を連れて去っていった。馬車の音が遠ざかると、神殿には重たい沈黙だけが残された。
「……お芋、食べてくれなかったね」
「そういう問題じゃないんですよ、セレス様」
私は深々とため息をついた。胸の奥がざわざわと嫌な感じに騒いでいる。これまでは村の中だけの、のどかな話だった。けれど今、王都という大きな影が、はっきりとこちらを向き始めている。
「お嬢様……わたしたち、大丈夫でしょうか」
不安そうに袖を握るハンナに、私は努めて明るく笑ってみせた。
「大丈夫よ。まだ、何も起きていないわ」
けれど、その言葉がただの強がりだということは、自分が一番よくわかっていた。
「アーベライン嬢」
と、テオがめずらしく、自分から口を開いた。
「司教ヴァルターは、古い信仰を心底嫌っておられる。光神のもとに国の信仰をひとつにまとめる。それが、あの方の揺るがぬ信念だ。暁の女神の復活など、あの方にとっては根絶やしにすべき異端でしかない」
「それは……忠告、ということですか。私たちを取り締まる側の、監察官さまが?」
「……ただ、事実を述べたまでです」
テオはぷいと顔を背けた。けれど、それは紛れもなく忠告だった。私たちを潰す側にいるはずの彼が、敵の動きをそっと教えてくれたのだ。
神を信じないと言い切ったあの人の中で、何かが確かに、少しずつ動き始めている。
「セレス様。どうやら、のんびりお芋を食べている場合じゃなくなってきましたよ」
「むむ、そっか。じゃあ、あたし、もっとがんばって働く?」
「ええ。守らなければなりませんから。この神殿を」
窓の外、王都へと続く街道を見つめながら、私はぎゅっとこぶしを握った。守りたい。この神殿を。ハンナの祈りを。そして――芋を片手にへらへら笑う、どうしようもなく世話の焼けるこの女神を。
いつのまにか、私の「打算」の中に、守りたいものがいくつも紛れこんでいた。
次話:「灯がともる、祭りの夜に」




