第7話「論破したいのに、できない」
子どもの熱が下がった一件は、当然、監察官の知るところとなった。村中がその話で持ちきりだったのだから、隠しようもない。
翌朝、テオはいつになく硬い表情で私に詰め寄ってきた。手には例の革の書類鞄。
「説明していただけますか、アーベライン嬢」
「あら、おはようございます。今日はずいぶん、ご機嫌ななめですのね」
「高熱の子どもが、女神に手をかざされた直後に回復した。村ではもう本物の奇跡だと、大変な評判になっています。私はこれをありのまま王都に報告せねばならない。ですから――もし何かまやかしの手口があるのなら、今ここで正直に明らかにしてください」
テオの声は硬かったが、その奥にどこか焦りのようなものがにじんでいた。報告。そう、彼には見たことを王都に伝える義務がある。本物の奇跡など、認めるわけにはいかないのだ。
テオは長椅子で干し杏をかじっているセレスの前に立つと、理詰めで奇跡を切り崩しにかかった。
「そもそも、子どもの熱というのは自然に下がる時期があるものです。たまたま、その時期と重なっただけでは?」
「うーん、どうかなあ」
「手をかざすという行為に、医学的な薬効はない。母親が興奮していて、回復を大げさに受け取った可能性もある」
「でもその子、目を覚まして『かあちゃん』って言ったよ?」
「……それは」
ひとつ反論されるたびに、テオは几帳面に次の可能性を探す。さすが王家の監察官、頭の回転は速い。けれどその理屈は、どれも決め手に欠けていた。
「ねえ、監察官さん」
とうとうセレスがにこにこと笑って、それを遮った。
「じゃあさ、この花は、どう説明するの?」
セレスが指さしたのは、数日前に床のひび割れに咲いた、あの一輪の白い花だった。枯れた茎しかなかったはずの場所に今もしっかりと咲いている。テオはそれを見て言葉に詰まった。
「……種が、風で運ばれてきたのでしょう」
「こんな、石とひびしかないところに? しかも、たった一晩で芽が出て、花まで咲くの?」
「……」
「あのね、監察官さん。無理に、ぜんぶ説明しなくても、いいんだよ」
セレスはいつものへらへらした笑みのまま、けれどどこか妙に芯のある声で言った。
「あなたが、神様を信じたくない気持ち。あたし、なんとなく、わかるから」
その瞬間、テオの肩がぴくりと跳ねた。いつも冷たく凪いでいたその目がはっきりと揺れた。
「……私が、信じたくない、と?」
「うん。なんとなく、そんな感じがするんだ。神様の勘ってやつ」
「くだらない」
テオはぴしゃりと言い捨てた。けれどその声には、いつものような切れ味がまるでない。彼は何か言いかけて、それを喉の奥へ押し戻し、書類鞄をぐっと握り直すと足早に神殿を出ていってしまった。
残されたのはぽかんとする私と、けろりとしたセレス。
「……今の、どういうことです?」
「んー。あの人さ、たぶん昔、神様にすごく嫌なことをされたんだよ」
セレスは干し杏の最後のひと欠片を口に放りこんで、めずらしくしんみりと言った。
「いっしょうけんめい祈ったのに、助けてもらえなかった。大事なものを、守れなかった。そういう人はね、神様を信じるのが怖くなるの。また裏切られて、また失うのがこわいから。だから、最初から『神なんていない』って決めちゃうほうが、楽なんだよ」
「……あなたって、たまに、ちゃんと女神様みたいなことを言うのね」
「たまに、は余計だよ!?」
ぷう、と頬をふくらませるセレスに、私は思わず噴き出した。さっきまでのしんみりはどこへやら。本当に忙しい女神である。
その日の午後。私は神殿の裏手で、ひとり佇むテオの姿を見かけた。
彼はあの一輪の花の前にしゃがみこんでいた。指先でそっと白い花びらに触れている。論破したいのにできない。理屈で否定したいのに、目の前の小さな花がどうしてもそれを許してくれない。そんな途方に暮れた横顔だった。いつもの、隙のない監察官の顔ではなかった。
「……守れなかったもの、か」
ぽつりと彼が呟いたのが聞こえた気がした。誰に言うでもない独り言。私は声をかけることができずに、そっとその場を離れた。
あの冷たい人にもきっと、私やハンナと同じように誰にも言えない過去がある。神を信じないと決めるしかなかった何かが。
なぜだろう。あの途方に暮れた横顔が、胸から離れてくれない。
……いけない。放っておけない人が、また一人増えてしまった。神様といい監察官といい、どうにも私は、厄介なものにばかり縁があるらしい。
次話:「王都から、嫌な風が吹いてくる」




