第6話「枯れた花が、一輪だけ」
その日、神殿に駆けこんできたのは小さな女の子を抱えた母親だった。息を切らし、髪を振り乱し、ひと目でただごとではないとわかる様子だった。神殿の敷居で足をもつれさせ、転びそうになりながらまっすぐ祭壇へ向かってくる。
「お願いします、女神さま! この子の熱が、もう3日も下がらないんです! どうか、どうかお願いします!」
腕の中の女の子は頬を赤くして、ぐったりとしていた。呼吸が浅く、速い。母親のほうも何日も寝ていないのだろう。目の下に濃い隈ができて、唇は乾いて割れていた。
私はすっと血の気が引くのを感じた。これはまずい。畑の相談やなくし物探しとはわけが違う。子どもの命がかかっている。私のでっち上げの神託や気の利いた助言で、どうにかできるものではなかった。
「……お医者さまには、診せたのですか」
「村に、お医者なんていません。隣町まで馬車で半日もかかって、その馬車を雇うお金も、うちには。村のおばあさんに薬草をもらって飲ませても、ちっとも効かなくて。もう、女神さましか、頼るところが、ないんです」
母親の声が震えて途切れた。その腕の中で、子どもが苦しそうに小さく呻く。
辺境の村に医者はいない。薬もろくにない。病はただ祈ることしかできないまま、人の命を奪っていく。それがこの村の現実だった。神が実在するこの国で人々が必死に神へすがるのは、神頼みのほかにすがるものが何ひとつないからなのだ。
どうする。私の知恵では熱は下げられない。こういうとき、本当に必要なのは奇跡だ。私がずっと「でっち上げ」てきた、あの本物の奇跡。
私はすがるような思いでセレスを振り返った。
「セレス様……」
「……うん」
いつものへらへらした笑みがすっと消えていた。セレスはまっすぐにその親子のもとへ歩み寄る。そして膝をつき、熱に浮かされた子どもの額にそっと手をかざした。
「ごめんね。あたし、今、ほとんど力がないんだ。治してあげられるか、正直わからない。……でも、やってみる。やらせて」
その声はいつになく真剣だった。
ハンナが祭壇の前でぎゅっと手を組んだ。声には出さず、けれど全身で必死に祈っている。母親もわらにもすがる思いで目を固く閉じた。そして私も気づけば手を組んでいた。打算でもご利益のためでもなく。ただ、この子に助かってほしくて。この小さな命が消えてしまわないでほしくて。
そのいくつもの祈りが、冷えた神殿の中でゆっくりとひとつに重なっていく。
セレスの指先に光が灯った。
今までの、線香花火みたいに頼りないものとはまるで違った。あたたかな、まるで朝日のような金色の光がこんこんと湧き出して、子どもの額から胸へと染み込んでいく。荒く速かった子どもの呼吸が少しずつ穏やかになっていくのが、見ていてはっきりとわかった。
やがて、子どもの頬から不自然な赤みが引いていく。
「……熱が。熱が、引いてる……! ああ、女神さま……!」
母親が声を上げた。腕の中で子どもがうっすらと目を開けて、「……かあちゃん」と、か細くけれどはっきりと呼んだ。
奇跡だった。今度こそ、まぎれもない本物の。
母親は子どもをきつく抱きしめて、泣きながら何度も女神に頭を下げた。ありがとうございます、と繰り返しながら。その隣でハンナも自分のことのようにぼろぼろと泣いていた。私はただ呆然と、その光景を見つめるばかりだった。
でっち上げじゃ、ない。本物の力が戻ってきている。このポンコツな女神の中に。
親子が何度も礼を言って帰っていったあと、セレスはぺたりと床に座りこんだ。ずいぶん力を使ったのだろう。肩で息をしている。けれどその顔には、心からの満足げな笑みが浮かんでいた。
「ひさしぶりだなあ、こういうの。やっぱり、いいね。誰かが元気になるところ、見るの」
その汗のにじんだ横顔を見て、私はなぜだか胸が詰まった。へらへらして、食い意地が張っていて、ドアも開けられないポンコツ。それなのに人を助けるときだけは、こんなにもまっすぐで。
ふと、私はセレスの足元に奇妙なものを見つけた。
ひび割れた古い床の隙間。そこにいつのまにか、小さな花が一輪だけ咲いている。さっきまでは枯れた茶色い茎しかなかったはずの場所に。白い、名も知らない、けれどたしかに生きて震えるように咲いている花。
「……セレス様。これ」
「あ、咲いちゃった」
セレスはその花を見て、ふふっと笑った。
「力が戻ってくると、こういうの、勝手に咲くんだよね。あたしの力の、おすそわけみたいなものかな」
なんでもないことのようにセレスは言う。けれど私の胸には、ふいに冷たい風が吹きこんだ。咲いた花は女神の力が戻ってきた何よりの証。それは喜ばしいことのはず。なのに。
「……力が戻ると、どうなるんですか」
「ん?」
「全部、戻ったら。セレス様は、どうなるの」
セレスはきょとんとした顔で少し考えてから、あっけらかんと答えた。
「そりゃあ、天に帰れるよ。あたし、神様だもん。力がちゃんと戻ったら、本来いるべき場所――空の上に、帰れるの」
帰れる。その言葉がなぜだかちくりと胸の奥を刺した。
おかしい。喜ぶべきことのはずだ。女神の力が戻れば私の願いだって叶う。都への返り咲きも、財産も、私を追いやった連中を見返すことも。そのために私は信仰を集めてきたのだから。これは計画通り。何もかも順調なはず。
なのに。
咲いたばかりの頼りなく白い花を見つめながら、私は自分の胸のざわつきの正体が、どうしてもうまく掴めずにいた。
「リーゼちゃん? どうかした? なんか、変な顔してるよ」
「……いえ。なんでも、ありません」
枯れた場所に咲いた、たった一輪の花。きれいだ、と思った。素直にきれいだと。
けれど、それをきれいだと思ってしまったことが、なぜだか少しだけ怖かった。
次話:「論破したいのに、できない」




