第5話「拝む人がいない神殿で、ひとりだけ本気」
神殿の朝はハンナの祈りから始まる。
秋が深まり、朝の空気はずいぶん冷たくなっていた。私がまだ寝床で毛布にくるまっている時分から、ハンナはもう起き出している。冷たい水で雑巾を絞り、祭壇まわりの床を丁寧に磨く。野に出て摘んできた花を活け替え、小さな灯をともす。それらをひとつひとつ整えてから、両手を組んで、長いこと頭を垂れる。白い息が祈りのかたちにほどけて消えていく。その背中はいつもしんと静かだった。
その姿にちゃんと気づいたのは、神殿暮らしが半月ほど過ぎたころだった。それまでの私は自分の打算で頭がいっぱいで、隣にいる侍女の祈りになど、まるで目を向けていなかったのだ。
「ハンナ。あなた、毎朝そうしているの?」
声をかけると、ハンナはびくりと肩を震わせて振り返った。寒さのせいか、頬がほんのり赤い。
「お、お嬢様。起こしてしまいましたか。申し訳ありません」
「いいえ。それより……ずいぶん熱心なのね。お供えの花まで、毎朝摘んでいるの? この寒いのに」
私にとって、女神への祈りはご利益のための投資でしかない。要するに打算だ。せっせと拝むのもお供えをするのも、すべては女神の力を取り戻させて、自分の願いを叶えてもらうため。けれど、ハンナのそれは、何かが根本から違って見えた。見返りなど、何ひとつ求めていない。ただ、まっすぐな祈り。
ハンナは少し迷うようなそぶりを見せてから、ぽつぽつと話し始めた。
「……わたしの家は、代々、暁の女神さまをお祀りしてきた家系なんです」
「暁の女神を? あなたの家が?」
「はい。ずっと昔は、この国のあちこちに暁神殿があって、みんな女神さまを拝んでいたそうです。畑の実りも、子どもが無事に育つことも、雨が降ることも。なんでも女神さまにお願いしていたって。でも――」
ハンナの指が祭壇の古びた縁をそっと撫でた。
「光神さまの信仰が広まって、だんだん誰も拝まなくなりました。神殿は廃れて、女神さまのことも忘れられて。今ではもう、暁の女神なんて、子どもに聞かせるおとぎ話だと思われています」
それはこの国では珍しくもない話だった。神が実在し、奇跡を起こすことは誰もが知っている。けれど人々が祈りを捧げる相手は今や光神アルバだ。新しい神のもとに人が集まり、古い神は忘れられ、廃れていく。
「村のみんなも、もう誰も信じていません。『そんな古い神様、いるわけがない』って笑います。神殿の前を通っても、誰も手を合わせない。……でも、わたしのおばあちゃんだけは、ちがいました」
ハンナの声がわずかに揺れた。
「最後の最後まで、言い続けていたんです。『女神さまは、ちゃんといる。忘れられても、消えてなんかいない。いつかきっと、戻ってくる』って。毎晩、寝る前に、わたしに女神さまのお話を聞かせてくれました。優しくて、ちょっとそそっかしくて、人間が大好きな女神さまのお話を」
優しくて、そそっかしい。その言葉に、私は思わず奥で寝ているポンコツ女神を思い浮かべてしまった。なるほど。確かに、見事に当たっている。
「それを、あなたは信じたのね。たった一人でも」
「はい。誰も拝まなくなった神殿で、おばあちゃんと二人、祈ってきました。村の子に『変わり者の家』ってからかわれても、平気でした。おばあちゃんがいてくれたから。二人でなら、寂しくなかったんです」
ハンナは少し恥ずかしそうにうつむいた。
「おかしいですよね。誰も信じていないのに、うちだけ、本気で」
「おかしくなんて、ないわ」
気づけば、私はそう口にしていた。自分でも意外なほど、すんなりと言葉が出た。
拝む人のいない場所で、たった一人、本気で信じ続ける。それがどれだけ心細くて、どれだけ強いことか。私には少しだけわかる気がした。社交界で、誰にも本心を理解されないまま「氷の令嬢」と陰口を叩かれ続けた、あの寒々しい日々。笑いかけても誰も笑い返してくれない。あの孤独と、ハンナの祈りは、どこか似た匂いがした。
「おばあちゃんは、去年の冬に、亡くなりました」
ハンナはにじんだ涙を、指先でそっと拭った。
「とうとう、女神さまには会えないまま。最期まで『きっと戻ってくる』って言ってたのに。わたし、その手を握りながら、心のどこかで思ってしまったんです。ごめんね、おばあちゃん。きっと女神さまは、もういないんだよ、って」
声が詰まる。
「だから、あの日。本当に女神さまが、空から降りてきてくださったとき」
ハンナは顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの、けれど、これ以上ないほど晴れやかな笑顔で。
「わたし、夢かと思いました。おばあちゃんの言ってたことは、嘘じゃなかった。ぜんぶ、本当だったんだって。……ああ、見せてあげたかった。おばあちゃんに、この目で、女神さまを」
ぽろぽろと泣くハンナの肩を、私はそっと抱き寄せた。打算で女神を拝む私と、信仰で女神を待ち続けたハンナ。同じ神殿に立っているのに、足の下にある地面がまるで違う。その差がなぜだかちくりと胸に刺さった。
「……おはよ〜。あれ? ハンナちゃん、なんで泣いてるの?」
間延びした声とともに、当の女神が、寝ぼけ眼で奥から現れた。髪はぼさぼさ、頬には寝跡。せっかくの厳かな空気が、一瞬で、見事に台無しである。
けれどハンナはその姿を見て、ふにゃりと笑った。
「いいえ。なんでもないんです。……女神さまが、いてくださる。それだけで、わたしは」
ハンナは涙を拭い、セレスの前に進み出た。そして、ぽつりぽつりと祖母のことを話した。毎晩、女神さまのお話を聞かせてくれた祖母がいたこと。その祖母がとうとう女神に会えないまま逝ってしまったこと。
セレスはいつものへらへらした笑みを引っこめて、静かにそれを聞いていた。
「……そっか。あなたのおばあちゃんが、長いあいだ、あたしを忘れずにいてくれたんだね」
セレスはハンナの頭にそっと手を置いた。
「ありがとう。あなたたちが祈っていてくれたから。あたし、消えずにすんだのかもしれない」
その横顔はいつものポンコツとは別人のように優しかった。きょとんとしているだけかと思っていたこの女神も、ちゃんと、人の想いを受け取っているのだ。
私はその光景を、少し離れたところから見ていた。
私のでっち上げのご利益より、ハンナのこのまっすぐな祈りのほうがずっと本物だ。もしかしたら、本当に女神の力を取り戻すのは、私の小細工なんかじゃない。こういう、見返りを求めない祈りのほうなのかもしれない。
次話:「枯れた花が、一輪だけ」




