第29話「もう、迷子にならないで」
別れの朝が来た。
東の空がうっすらと白み始める。やがて朝焼けが世界を金色に染めていく。あの日、セレスが降ってきた雨漏りの大穴からも、同じ色の空がのぞいていた。セレスの言ったその時刻が刻一刻と近づいていた。
神殿の前には村人たちがみんな集まっていた。ヨナも。親子も。あのおかみさんも。誰もが泣いていた。たった数ヶ月。それだけの時間で、このポンコツな女神は村のみんなの家族になっていた。みんなに愛されていた。
セレスは一人ひとりに別れの言葉をかけて回った。
「ヨナ、元気でね。子ヤギ、大事にするんだよ。大きくなったら、お嫁さんの子ヤギも、もらうといいよ」「おかみさん、畑、来年は豊作だよ。保証する!」「みんな、ありがとう。あたしを、見つけてくれて。必要としてくれて」
一人ずつ手を握って。名前を呼んで。村人たちは声をあげて泣きながら、その手を握り返した。
そして最後に。私と、ハンナとテオの前に立った。
「ハンナちゃん。あなたの家系が、あたしを繋いでくれた。何百年も、灯を絶やさないで。ありがとう。おばあちゃんに、伝えてね。『ちゃんと、戻ってこられたよ。ひとりぼっちじゃ、なかったよ』って」
ハンナはもう言葉にならなかった。ただ何度も頷いて、泣いていた。帳面を胸に抱きしめて。
「テオ。リーゼちゃんを、お願いね。あなたなら、安心して任せられる」
「……はい。命に、代えても」
「あ、命は大事にして。リーゼちゃんが、悲しむから。長生きして、いっぱい、リーゼちゃんを笑わせてあげて」
「……肝に、銘じます」
最後まで、セレスはセレスだった。誰かを思いやる優しいポンコツ女神。
そして。私の番だった。
「リーゼちゃん」
セレスが私の両手を握った。あたたかい手だった。あの星の夜と同じ。神様の手とは思えないほど人間くさくて、あたたかい手。この手を私は一生、忘れないだろう。
「あたしね。リーゼちゃんに、拾ってもらえて、本当によかった」
「……やめてください。そういうの、ずるい、です」
「打算で拾った女神が、こんなに世話の焼ける、ポンコツで。ドアも開けられなくて、食いしんぼうで。ごめんね。でも、おかげで、あたし、最後に、すっごく幸せだった。神様やってて、いちばん、幸せだった」
涙が止まらなかった。こらえてもこらえてもあふれてくる。視界がにじんで、セレスの顔がよく見えない。だめだ。最後くらい、ちゃんと顔を見ていたいのに。
朝焼けの光が強くなる。セレスの体が淡く金色に光り始めた。足元からゆっくりと、光の粒になってほどけていく。時間が来たのだ。お迎えが。
「セレス様……!」
私は握った手に力を込めた。離したくない。このまま、こうしていたかった。ずっと。
でも。手放すと決めたのは私だ。この子をあるべき場所に笑って帰すと。
だから私は、いちばん言いたかった言葉――行かないで、をぐっと呑みこんで。代わりにありったけの笑顔を作って、こう言った。
「――もう、迷子に、ならないで」
空から私の頭の上に落ちてきた、迷子の女神。行き場を失って地に落ちた神様。ドアの開け方もわからなかったあの人。
もう二度と。あんなふうにひとりで迷子にならないで。寂しい思いをしないで。
セレスは一瞬、目を見開いて。それからこれ以上ないくらい優しく笑った。涙をぽろぽろこぼしながら。けれどその笑顔は晴れやかだった。
「うん。もう、大丈夫。だって、あたしには――帰る場所が、あるもん」
光の粒が朝焼けの空へと舞い上がっていく。きらきらと輝きながら。
「帰る場所があるから。あたしは、もう、迷子じゃないよ。リーゼちゃんが、ハンナちゃんが、テオが、村のみんなが、ここにいる。ここが、あたしの帰る場所。いつでも、帰ってこられる場所。……だから、ね。寂しくない。ありがとう。だいすき。みんな、だいすき」
最後の光が朝焼けに溶けて、消えた。
あとに残ったのは。金色に染まった空と。すすり泣きと。そして――ひび割れた床の隙間に、いつのまにか咲いていた白い花が一輪。
あの日と同じ。女神の力が戻ったときに咲いた、あの花。それが朝の光に揺れている。まるで女神の置き土産みたいに。
その花を見て。私はとうとうその場に崩れ落ちて、声を上げて泣いた。子どものように。涙が涸れるまで。テオがそっと肩を抱いてくれた。ハンナが隣で一緒に泣いてくれた。
さよなら、セレス。だいすきな、ポンコツ女神さま。
あなたに会えて。本当によかった。
次話:「神様のいない神殿で、それでも」




