第26話「あなたも、守りたかっただけなんだ」
砕けた封印。満ちた女神。村人たちの歓声。
その光景を前に、司教ヴァルターは立ち尽くしていた。手にした錫杖がかたかたと震えている。
「……ばかな。光神の封印が、砕けるなど。あり得ぬ。あの封印は、王都最高位の神官が施したもの……」
その声は震えていた。長年信じてきた秩序が目の前で覆される。彼の世界が根底から揺らいでいた。
私はヴァルターの前に進み出た。もう対立するためではなかった。昨夜、決めたのだ。正しさをぶつけ合うのではなく、同じ場所に立つ道を探すと。
「司教さま。あなたは、信仰の乱れが争いを生むと恐れていらっしゃる。神の名のもとに、人が傷つくのを二度と見たくない。だから、神を一つにまとめようとした。……ぜんぶ、民を守るためですよね」
「……それの、何が、悪い」
ヴァルターの声は硬かった。けれどその奥にわずかな揺らぎがあった。
「悪くなんて、ありません。とても、立派なお考えです」
私の言葉に、ヴァルターが虚をつかれたように顔を上げた。攻撃されると思っていたのだろう。称えられるとは思っていなかった。
「私たちも、同じなんです。この村のみんなを、守りたい。傷つく人を、出したくない。それだけ。セレス様も――暁の女神も、長いあいだ、人を守ってきました。光神さまと争うつもりなんて、欠片もない。むしろ、争いを、いちばん嫌う神さまです」
私は村人たちを振り返った。涙を流して女神の無事を喜ぶ村人たちを。
「見てください。この人たちの顔を。女神さまを慕う、この笑顔が、争いの種に見えますか。神を大切に思う心は、光神さまへの信仰とも、何も矛盾しません。むしろ――神を敬い、感謝する心こそが、人を優しくする。隣人を、いたわる心を育てる。それは、国を平和にするんじゃ、ないですか。あなたが、いちばん望んでいることを」
ヴァルターは村人たちの晴れやかな顔をゆっくりと見回した。その厳しかった目がわずかに揺れる。彼が見てきた「信仰の争い」とはまるで違う光景がそこにあった。
そのとき、セレスがヴァルターの前に進み出た。神々しい姿のまま、けれど声はいつもの優しいセレスで。
「ねえ、おじいさん」
「お、おじいさ……っ」
神々しい暁の女神に「おじいさん」呼ばわりされて、ヴァルターが目を剥く。村人から小さな笑いが漏れた。張りつめていた空気がふっとほどける。さすがポンコツ女神。こんなときでも空気をゆるめてしまう。
「あなた、昔、大事な人を亡くしたでしょう。信仰の、争いで」
ヴァルターの肩がびくりと震えた。
「……なぜ、それを」
「神様だもん。なんとなく、わかるの。あなたが秩序にこだわるのは、もう二度と、あんな悲しいことを起こしたくないから。誰かが、神様のことで泣くのを、見たくないから。……あなたも、守りたかっただけ、なんだね。あたしと、同じ」
ヴァルターの皺の刻まれた目に、みるみる涙が盛り上がった。長年、誰にも言えなかった痛み。秩序という厳しい仮面の下に隠してきた悲しみ。それを女神に見透かされ、そして受け止められた。
「……私は。私は、若いころ。信仰の争いで、妻と、子を。守れなかった。神の名を振りかざす者たちに、奪われた」
絞り出すような告白だった。誰にも言えなかった過去。それが今、こぼれ落ちる。
「だから、私は。二度と、神が、争いの種にならぬように、と。それだけを考えて、生きてきた」
「うん。知ってるよ。あなたは、優しい人だ。誰よりも、悲しみを知ってる人」
セレスがにっこり笑って、ヴァルターの節くれだった手にそっと自分の手を重ねた。
「だからね、約束する。あたしは、争いの種になんてならない。光神さまとも、仲良くする。この村の人たちを、ううん、この国の人たちを、光神さまといっしょに見守る。あなたの守りたかったものを、あたしもいっしょに守るよ」
ヴァルターはしばらくうつむいていた。肩が小さく震えていた。やがて深く長い息を吐く。何十年も背負ってきた重荷を、ようやく下ろすように。
「……暁の女神よ。ひとつ、約束できるか。本当に。光神と争わず、この村の守り神として、民を平穏に導くと」
「もちろん! あたし、争いごとは苦手だもん。ごはんと、お昼寝のほうが、ずーっと好き!」
女神のあまりにもゆるい返事に、ヴァルターは毒気を抜かれたようにふっと笑った。長い人生ではじめて見せるような笑顔だった。
「……変わった、女神だ。実に」
「よく言われる!」
胸を張るセレスに、神殿はあたたかな笑いに包まれた。衛兵たちもいつのまにか武器を下ろしている。
あなたも守りたかっただけ。たった、それだけのことに気づけたなら。正しさと正しさはもうぶつからない。同じ場所に並んで立てるのだ。
こうして神殿は守られた。閉鎖は撤回。暁の女神はローエンの守り神として正式に認められた。司教ヴァルター自らが王都にそう取り計らってくれたのだ。
めでたし、めでたし――と、いきたいところだけれど。
私は知っていた。神殿が守られたということは。セレスの力が完全に満ちた、ということ。
別れの日がもう、すぐそこまで来ていた。
次話:「満ちてしまう、その前に」




