第23話「正しさだけでは、届かない」
司教ヴァルターは、よく晴れた寒い朝にやってきた。
名代のような芝居がかった尊大さはなかった。むしろ静かだった。白髪を後ろになでつけ、深い皺の刻まれた顔に揺るがぬ意志を湛えている。長年、王都の信仰を背負ってきた者の重みがあった。その一歩一歩に迷いがない。
その背後には武装した衛兵がずらりと並んでいる。もう猶予はない。そういう無言の圧力だった。村人たちは遠くから固唾をのんで見守っている。
「お前が、リーゼロッテ・フォン・アーベラインか」
低い、よく通る声だった。威圧するでもなく、ただ事実を確かめるような。
「はい。この神殿を、お預かりしております」
私はできる限り背筋を伸ばして答えた。隣にはテオ。後ろにはハンナと、戻ってきてくれた村人たちが不安げに、けれど踏みとどまって立っていた。みんなの視線が背中に刺さる。
「単刀直入に言おう。この神殿は閉鎖する。暁の女神を名乗る者は、封じる。これは、決定事項だ」
「お待ちください。セレス様は……女神さまは、この村を、何度も救ってくださいました。子どもの熱を治し、畑を実らせ、村に笑顔を取り戻してくれた。村のみんなが、必要としています」
「知っている」
司教の答えは意外なものだった。私は虚をつかれて言葉を失う。
「子の熱を癒やし、枯れた畑に芽吹きをもたらした。その話は、王都にも届いている。本物の神であることも、私は疑ってはおらん」
「なら、どうして! 本物の、人を救う神さまなら、なおさら――」
「本物だからこそ、だ」
司教はまっすぐに私を見据えた。その目に嘘や欲はなかった。私利私欲で神殿を潰そうとしているのではない。あるのはただ信念だけ。だからこそ厄介だった。
「いいか、娘。神が一柱であれば、民は迷わぬ。一つの神に祈りを捧げ、一つの教えに従う。それで国はまとまる。秩序が保たれる。……だが、あちらの村に暁の女神、こちらの里に別の古い神。そうして神がいくつも蘇れば、どうなる。民は、どの神を信じればよいか迷う。教えは乱れる。神官たちは、己の神の正しさを争う。やがて、国は割れる」
その言葉には長い歴史を見てきた者の重みがあった。机上の空論ではない。実際に何かを見てきた人の言葉だった。
「私は、かつて、信仰の乱れが戦を生むのを見た。神の名のもとに、人が人を殺すのを見た。村が焼かれ、子が泣くのを。二度と、あんなことを起こさせはせん。そのために、信仰は一つにまとめねばならんのだ。たとえ、善良な神を、犠牲にしてでも」
私は言葉を失った。
司教は悪人ではなかった。むしろ彼もまた、彼なりの正しさで人々を守ろうとしている。国の平和を、秩序を本気で願っている。その願いは私たちのそれと同じくらい切実だった。
私の正しさ――セレスを、村を守りたい。司教の正しさ――国の秩序を守りたい。どちらも間違ってはいない。どちらも誰かを守るための正しさ。だからこそ、ぶつかり合うだけで噛み合わなかった。
「私は、村のみんなの幸せを」
「私は、国全体の平穏を見ている。見ているものの、大きさが違うのだ、娘。お前には、村しか見えていない。私には、この国に生きる、何万もの民が見えている」
正しさだけでは届かない。私がどれだけセレスの善良さを訴えても、村人の感謝を語っても、司教の「秩序」という正しさには届かない。二つの正義は平行線のまま交わらなかった。どこまでいってもすれ違うだけ。
「閉鎖は3日後。女神は封印する。……異論は、認めん」
司教はそれだけ言うと踵を返した。衛兵の靴音が地を鳴らす。その背中は揺るぎなかった。
私はその場に立ち尽くした。何もできない。権威にも正論にも勝てなかった。正しさをぶつけ合うだけでは、この人には届かない。
いちばん大切なものを守れない。その無力感が冷たく、私の足元から這い上がってきた。あと3日。何か別の道を見つけなければ。正しさと正しさが、ぶつからずに出会える道を。
次話:「いちばん欲しいものを、手放すと決めて」




