第21話「引き留めたくて、手が止まる」
司教ヴァルターが乗り出してくるまでの、わずかな猶予。その数日のあいだに、神殿は少しずつ息を吹き返していた。
一度は恐れて去った村人たちも、ヨナや熱を治してもらった親子が語る「本当の女神さま」の話を聞いて、ぽつりぽつりと戻ってきた。芽吹いた鉢植え。優しい光。祟りなどではないということが、口から口へ少しずつ伝わっていく。朝の祭壇にはまた、お供えの花が並ぶようになった。
めでたいことだ。本当なら私は誰よりも喜んでいいはずだった。あんなに必死で取り戻そうとした信頼なのだから。
なのに。
「お嬢様、見てください! 今日は、新しい人が三人も、お参りに来てくれました!」
ハンナが頬を紅潮させて報告してくる。その輝く笑顔を見ても、私の胸はちっとも晴れなかった。むしろ、ずきりと痛んだ。参拝者が一人増えるたびに心のどこかが軋む。
参拝者が増える。信仰が戻る。セレスの力が満ちていく。そして――セレスが天に帰る日が近づく。
「……そう。よかったわね」
我ながら力のない返事だった。ハンナが不思議そうに首をかしげる。私の複雑な心の内など知るよしもない。知らないほうがいいのだ。ハンナはただ純粋に、女神の復活を喜んでいればいい。
その夜のことだった。
私は机に向かって、村人に配るお守りを作っていた。暁の女神の印を布に刺繍したもの。これを配れば女神さまのご利益がもっと広く知れ渡る。信仰がさらに集まる。神殿は安泰になる。
針を持つ手がふと止まった。
……これを配れば。セレスはまた一歩、遠くなる。
気づけば私はもう何刻も、同じ一針を刺せずにいた。布の上で針先が行き場をなくして止まっている。
「リーゼ嬢。手が、止まっていますよ」
声に振り返ると、テオが心配そうにこちらを見ていた。最近の彼は神殿の手伝いに毎日のように顔を出している。監察官の仕事はどうしたのだろう。聞いても「効率の問題です」としか答えないけれど。
「ああ……ええ。少し、考え事を」
「次の収穫祭で、女神さまの奇跡を披露すれば、信仰は一気に戻ります。司教が来る前に、村全体を味方につけられる。そう提案したはずですが、あまり、乗り気ではないようだ」
「……それは」
私は言葉に詰まった。テオの言うことは正しい。神殿を守るにはそれがいちばんの近道だ。わかっている。
でも。
「危険、ですよね。また、力が暴発したら。村人が、怖がるかも」
「セレス様の力は、もう安定しています。あなたも、わかっているはずだ」
わかっている。わかっているのだ。私が理由をつけてためらっていることを。テオは静かに私を見つめた。その目はいつのまにか、人の心の機微を読むようになっていた。出会ったころの、何も信じない冷たい目とは違う。
「……リーゼ嬢。あなた、もしかして」
わざと神殿を盛り上げないようにしている。セレスを引き留めるために。
その先をテオは言わなかった。けれどその沈黙がすべてを言い当てていた。見抜かれている。
私は針を置いてうつむいた。顔が熱い。恥ずかしさと情けなさで。
「……ひどい令嬢でしょう。神殿を守るふりをして、本当は、セレス様を、半端なまま、ここに留めておこうとしているんです。あの人が、消えかけたまま、天に帰れないままでいてくれたら、って」
声が震えた。
「あの人のためじゃ、ない。私が、寂しいから。私が、別れたくないから。こんなの、ただのわがままです。最低、ですよね」
言葉にすると自分の醜さがよけいにはっきりした。セレスはいつも人のために力を使ってきた。誰かの願いを叶えるために。なのに私はそのセレスを、自分のそばに縛りつけようとしている。彼女の幸せより自分の寂しさを優先して。
引き留めたくて、手が止まる。その手の止まった分だけ、私はセレスの「神様」としての時間を奪っているのだ。
「……わかって、いるんです。これじゃいけないって。でも、手が、動かないんです」
テオはしばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。
「あなたの気持ちは、わかります。私も……妹を失ったとき、時間が止まればいいと、思いましたから。あの子が、まだ生きていた、あの瞬間で」
その声には責める色はなかった。ただ、同じ痛みを知る者の静かな理解があった。彼もまた失う痛みを知っている。
「ですが、リーゼ嬢。それは、あなたが決めることでは、ないのかもしれません。セレス様が、どうしたいのか。それを聞いてあげるのが、先では?」
その言葉に私ははっとした。
私は自分の寂しさばかりで頭がいっぱいだった。セレス自身が何を望んでいるのか。一度もちゃんと聞いていなかった。引き留めたい、という自分の気持ちだけで。
窓の外。星空の下でセレスがひとり、夜風に当たっているのが見えた。その小さな背中が、なぜだか今夜はとても遠くに見えた。手を伸ばしても届かない場所にいるみたいに。
次話:「あなたが、いてくれたから」




