第20話「帰すことが、優しさだなんて」
セレスが記憶を取り戻してから、神殿には不思議な空気が流れていた。
喜びと寂しさ。その二つが混ざり合っていた。誰も口には出さないけれど。みんな同じことを考えていた。
女神の力はもう、ほとんど戻っていた。枯れた花を咲かせるどころか、神殿の壊れた壁を一晩で元通りにしてしまうほどに。あれほど苦労した復興が、今やセレスの一振りで片づいてしまう。崩れた壁も割れた窓も、なかったことのように。
めでたいことのはずだった。なのに誰も手放しでは喜べなかった。喜べば喜ぶほど、別れが近づくから。
その理由を最初に口にしたのはハンナだった。夕餉の片づけのあと、思いつめた顔で。
「あの……女神さま。ひとつ、聞いてもいいですか」
おずおずと、けれど聞かずにはいられない、というふうに。
「女神さまの力が、全部戻ったら……女神さまは、天に、帰ってしまうんですか」
神殿の空気がしんと凍りついた。誰もが避けていた問い。それをいちばん純粋なハンナが口にした。
セレスはすぐには答えなかった。少し困ったように笑って、それから小さく頷いた。
「……うん。神様はね、本当は、地上にずっといちゃいけないの。力が満ちたら、空の上の、神様の場所に帰らなきゃいけない。それが、決まりなんだ。遠い昔から」
「そんな……」
ハンナの顔がくしゃりと歪んだ。せっかく会えたのに。やっと会えたのに。
私は何も言えなかった。ただ足元がすうっと冷たくなる。わかっていた。わかっていたけれど、本人の口から聞くとこんなにもこたえる。
ずっと、女神の力を取り戻そうと必死だった。信仰を集めて、神殿を守って。それがセレスのためだと信じていた。
でも違った。私たちがしてきたことは――セレスを天に帰すための、準備だったのだ。せっせと別れの支度をしていたのだ。何も知らずに。
神殿を守れば守るほど。信仰が集まれば集まるほど。セレスは神様に戻って、いなくなる。
「……ひどい話ですね」
私の口からこぼれた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「あなたを救うことが、あなたを失うことだなんて。神殿を守ることが、あなたとのお別れだなんて。こんな、矛盾」
帰すことが優しさだなんて。そんなの、あんまりだ。誰がこんな仕組みを作ったのだろう。
「リーゼちゃん」
セレスがいつものお日さまみたいな顔で笑おうとした。けれどその笑顔は少し震えていた。
「あたしね、神様だから。帰るのが、お仕事なの。それに、天に帰っても、ずっと、リーゼちゃんたちを見守ってるから。空の上から。だから、そんな悲しい顔――」
「悲しい顔も、しますよ」
私はセレスの言葉を遮った。これ以上、この子に強がらせたくなかった。
「だって、寂しいですもの。あなたが、いなくなるなんて」
言ってしまってから、気づいた。これが、名前をつけられずにいた感情の正体だった。長いあいだ目をそらしてきた気持ち。
寂しい。別れたくない。手放したくない。
利用するつもりで拾ったポンコツな女神を。私はいつのまにか、こんなにも――大切に思っていた。
その夜、私はひとつのずるい考えを抱いてしまった。眠れない布団の中で、何度も打ち消そうとして打ち消せなかった考えを。
もし。神殿の信仰が完全には戻らなければ。セレスの力が満ちきらなければ。……この人はずっと、ここにいてくれるんじゃないか、と。
それがどんなに間違った考えか。セレスを半端なまま地上に縛りつける、残酷な考えか。わかっていながら私は、その誘惑を振り払えずにいた。
次話:「引き留めたくて、手が止まる」




