第19話「迷子になった、本当のわけ」
神殿の閉鎖はすぐには執行されなかった。
テオが王都に送った報告――「異端の事実なし」。それが思いのほか波紋を呼んだらしい。監察官の正式な報告を、名代の一存では覆せない。閉鎖は一時保留となり、代わりに司教ヴァルター本人がじきじきに乗り出してくるという。テオは自分の立場を賭して、私たちに時間を作ってくれたのだ。
猶予はできた。けれどそれは、嵐の前のわずかな静けさにすぎなかった。本当の戦いはこれからだ。
その、静かな夜のことだった。
セレスが神殿の奥の古い祭壇の前に立っていた。長いあいだ誰も触れなかった、暁の女神の祭壇。その台座に刻まれた色あせた朝焼けの紋様を、指先でそっとなぞる。何かに導かれるように。
その瞬間、セレスの体が淡く光った。記憶の最後の扉が開いたのだ。
「……思い出した」
ぽつりと声が漏れる。振り返ったその顔は涙で濡れていた。
「ぜんぶ、思い出したよ、リーゼちゃん」
私とハンナは息を呑んでその言葉を待った。
「あたしは、ずっと昔、消えかけてたの。新しい神様が来て、みんながあたしを忘れて。祈る人がいなくなって、力が尽きて。神様はね、忘れられると、消えるの。誰の記憶にも残らないまま、ふっといなくなる。最初から、いなかったみたいに」
セレスの声は震えていた。消えていく、その恐怖を思い出しながら。
「あたしも、もう消えるんだって思った。それでいいやって、半分諦めてた。誰も、あたしを必要としてないんだもん。……でも、最後の最後に、ひとりだけ、いたの」
「……ひとり?」
「うん。この村の、女の人。もう誰もあたしを拝まなくなっても、その人だけは毎晩、祈ってくれた。死ぬ間際まで。『女神さま、どうか消えないで。いつか、また戻ってきて』って。涙を流しながら、何度も、何度も」
ハンナがはっと息を呑んだ。その手が胸の帳面をぎゅっと握りしめる。
「その祈りが、消えかけたあたしを、この神殿に繋ぎとめてくれた。最後の灯みたいに。あたしは力尽きて、ここに落ちた。落ちて、長い長いあいだ、眠ってた。いつか、誰かの祈りがまた満ちるのを待ちながら。それが、いつになるかもわからないまま」
セレスはハンナをまっすぐに見た。涙に濡れた瞳で。
「あなたの家系だよ、ハンナちゃん。あなたのご先祖さまが、あたしを呼んでくれた。あなたのおばあちゃんが、あなたが、何百年も灯を絶やさないでいてくれた。だから、あたしは――消えずに、ここに帰ってこられたんだ。あなたたちが、いてくれたから」
ハンナの目から涙があふれた。とめどなく。
「……おばあちゃんの、祈りが。届いて、たんですね」
「届いてたよ。ぜんぶ。何百年分も、ひとつ残らず。あたし、ちゃんと聞いてた。あなたたちの声を、空の上で」
迷子になった、本当のわけ。それは行き場を失って地に落ちたから。けれど、ただ落ちたんじゃない。最後まで信じてくれた、たった一つの祈りに呼ばれて。
消えかけた神様を消させなかった小さな灯。その灯のもとへ、女神は長い時間をかけて帰ってきたのだ。何百年もかけて。
私は胸がいっぱいになった。打算で始まったこの神殿の物語。その根っこに、こんなにもまっすぐで長い祈りがあったなんて。誰にも知られず、報われるあてもなく、それでも灯し続けられた祈りが。
けれど――思い出したということは。力が戻ったということ。
その意味に気づいて、私の喜びはふいに冷たい影を帯びた。霧が晴れた、その先に。別れがはっきりと見えてしまった。
次話:「帰すことが、優しさだなんて」




