第18話「思い出しかけている、何かを」
その夜。戻ってきてくれた村人たちが帰ったあと、神殿はまた静けさに包まれた。けれど昼間とは違う、あたたかな静けさだった。少しずつ灯が戻り始めた、その手応えが残っている。
セレスは芽吹いたばかりの鉢植えをじっと見つめていた。指先で青い芽をそっと撫でながら。
「……なんか、思い出しそうなんだ」
ぽつりと言う。
「この感じ。土に触れて、芽が出て。あたし、昔、これをたくさんやってた気がする。広い、広い畑で。お腹を空かせた、たくさんの人のために。みんなが、嬉しそうに笑ってくれて」
飢饉の年、民を救った女神。ハンナの帳面の言い伝え。それがセレスの中でおぼろげな記憶と結びつき始めていた。閉ざされていた箱の蓋が、少しずつ開いていくように。
「思い出してきたんですか。自分のこと」
「うん。少しずつ。力が戻ってくると、いっしょに、記憶も戻ってくるみたい」
セレスは目を閉じてこめかみを押さえた。記憶を手繰り寄せるように。
「あたしは、たぶん、この国がまだ小さかったころの神様。みんなが暁の女神って呼んでくれて、毎朝、太陽が昇るのに合わせて祈ってくれた。実りをあげて、雨をあげて、子どもの無事を見守って。……すごく、幸せだった。みんなの笑顔が、あたしの力だったの」
その声は懐かしさと寂しさが入りまじっていた。幸せだった記憶ほど、失ったときの痛みも大きい。
「でも、新しい神様が来て、みんな、そっちを拝むようになった。少しずつ、あたしを忘れて。祈る人が減って、力が弱って。……最後に、何があったんだっけ。そこが、まだ思い出せない。いちばん、大事なところが」
最後に何があったか。
セレスが落ちてきた本当のわけ。それはまだ霧の向こうにあった。けれどその霧は確実に晴れ始めている。あともう少し。
「焦らなくて、いいですよ」
私はそっと言った。
「思い出すのがつらいことなら、思い出さなくてもいい。あなたは、今の、ポンコツなセレス様のままで十分です。私たちにとっては」
「ポンコツは、余計だよ!」
むくれるセレスに私はくすりと笑った。けれど内心では別のことを考えている。笑顔の裏で、ひとり矛盾を抱えていた。
力が戻ってきている。記憶も。それはいいことのはずだ。セレスが本来の自分を取り戻していくのだから。でも――力が完全に戻れば、セレスは天に帰ってしまう。
思い出すことは別れに近づくこと。彼女が「自分」を取り戻すほど、私から遠ざかっていく。
その矛盾が私の胸を静かに締めつけた。喜ぶべきなのに喜びきれない。この感情に私はまだ名前をつけられずにいた。いや、本当は気づいていた。気づかないふりをしていただけ。
「……ねえ、リーゼちゃん」
「なんですか」
「あたしね、ひとつだけ、はっきり思い出したことが、ある」
セレスは鉢植えの芽を指先でそっと撫でた。
「あたしを、最後まで呼んでくれた声。あの、なつかしい声。あれはたぶん――この神殿で、長いあいだ祈ってくれていた、誰かの声なんだ。あたしのことを、忘れないでいてくれた、誰か」
長いあいだ祈ってくれていた、誰か。
その言葉に私はハンナの帳面を思った。何百年も灯を絶やさなかった一つの家系。その祈りが女神を呼んだ。点と点がつながっていく。
明日、神殿は閉鎖される。けれどその前に。私たちはまだ知らない、この女神の本当の物語にもうすぐたどり着こうとしていた。それが喜びなのか、悲しみなのか。まだ、わからないまま。
次話:「迷子になった、本当のわけ」




