第2話「これが、全知全能ですか」
女神はよく食べた。
ハンナが台所からくすねてきたパンを、セレスは両手で掴んで、はぐはぐと頬張っていく。神々しい金の髪を揺らしながら、頬をいっぱいにふくらませる姿は、どう贔屓目に見ても3日ぶりに餌をもらった子犬だった。
「んん〜! おいしい! 生きててよかった〜!」
「神様って、死なないんじゃ……」
「言葉のあやだよ、言葉のあや」
もぐもぐしながら、セレスが片手をひらひら振る。その傍らで、ハンナは両手を組んだまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。さっきから、ひとことも喋らない。ただ、祈るように女神を見つめている。
……温度差がすごい。
かたや、女神の降臨に咽び泣く侍女。かたや、そのへんのパンで頬をぱんぱんにふくらませる女神。そして私はといえば、この光景を前に、頭の中でひそかに算盤を弾いていた。
落ち着け、私。状況はそう悪くない。むしろ、最高にいいはずだ。なにしろ目の前にいるのは、正真正銘、本物の女神なのだから。
パンの最後のひと欠片を飲みこんだセレスが、満足げに息をついた。今だ。
「セレス様。お腹もふくれたところで、そろそろ本題なんですけど」
「ん? なになに」
「実はわたくし、折り入ってお願いがございまして」
私は床に膝をつき、できるだけうやうやしく手を組んだ。神様への、記念すべき初めてのお祈りである。心を込めて、はっきりと欲望を口にした。
「わたくしを、都へ返り咲かせてください。わたくしを辺境に追いやった連中を、まとめて見返せるくらいに。ついでに、一生遊んで暮らせる財産もつけていただけると助かります」
「うわ、欲張りだなぁ」
「神様に遠慮していたら、損です」
「それもそっか」
セレスはけらけらと笑った。それから、すうっと真顔になって、すっと右手を持ち上げる。その指先に、薄い金色の光がともった気がして――私は思わず息を呑んだ。
来る。奇跡が来る。
「……っていうのを、やってあげたいのは山々なんだけどさ」
光がふっと消えた。
「無理。今のあたし、ほとんど力ないの」
「…………は?」
「ごめんね〜。気持ちはあるんだよ、気持ちは」
ぱちん、と手を合わせて、セレスが拝むようなしぐさをする。悪びれた様子はまるでない。
私は組んでいた手をゆっくりとほどいた。さっきまで胸の中で大きくふくらんでいた希望が、しゅるしゅると音を立てて、しぼんでいく。
「あの。確認なんですけど。あなた、たしか、なんとおっしゃいました?」
「全知全能の女神」
「ぜんち、ぜんのう」
「うん!」
「これが?」
私は目の前の女神を、上から下まで眺めた。パンくずを口の端につけ、素足を埃まみれにして、にこにこ笑っている自称・全知全能。
「これが、全知全能ですか……」
「あ、傷つくからその目やめて!?」
セレスがわたわたと手を振った。
「ちがうの、ちゃんと理由があるの! あのね、神様の力ってね、信じてくれる人がいないと出ないんだよ。祈ってくれる人、お供えしてくれる人、忘れないでいてくれる人……そういう人がたくさんいて、はじめて神様は力を出せるの」
言われてみれば、それはこの国の常識だった。光神さまの大神殿に力があるのは、毎日大勢の信者が祈りを捧げているからだ。神は信じられることで力を得る。
「でも、あたしのことなんて、もうずーっと誰も拝んでくれなくてさ。気づいたら、力がからっぽになってて……」
セレスの声がほんの少しだけ、しおれた。
「ここに落ちてきたのも、どうしてか思い出せないんだよね。気づいたらこの神殿の中で、お腹すかせて、ドアの前で困ってたの」
……なんだか急に放っておけない雰囲気になってきた。いけない。同情している場合ではない。私は慌てて、現実に意識を引き戻した。
つまり、こういうことだ。この女神は力を失っている。願いを叶える力はない。けれど――信仰さえ集めれば、力は戻る。
ということは。
「セレス様。信じてくれる人を集めれば、力は戻るんですよね?」
「まあ、理屈ではね。でも、こんな辺鄙な廃神殿に、誰が拝みに来るのよ〜」
来る。来させればいいのだ。
頭の中で、ぱちぱちと段取りが組み上がっていく。参拝者を集める。お供えが集まる。信仰が戻る。女神の力が戻る。そうしたら――そのとき改めて、都への返り咲きでもなんでも、叶えてもらえばいい。
遠回りだけれど、道は繋がっている。詰んだと思った盤面に、一手、光が差した気がした。
「そういえば、あなた、名前は? まだ聞いてなかったね」
「リーゼロッテです」
「リーゼちゃんね! よろしく!」
勝手に縮められた。まあ、いい。様付けで呼ばれるより、よほど性に合っている。
――とそのときだった。
「……あの。だれか、いるの?」
神殿の入り口から、おずおずと声がした。
振り返ると、扉の隙間から、ひとりの少年がこちらを覗きこんでいた。歳は10ほどだろうか。膝小僧をすりむいた、村の子だ。大きな目で、神殿の中をきょろきょろと見回している。
「変な令嬢が来たって、村のみんなが言ってたから……」
「変な、は余計よ」
「ほんとに、女神さまがいるの……?」
少年の視線がセレスに吸い寄せられた。埃まみれの素足はともかく、その金の髪とほのかな光だけは文句なしに神々しい。少年はごくりと唾を飲んだ。
私はにっこりと微笑んだ。営業用の、いちばん上等な笑顔だ。
「ええ、いらっしゃるわ。暁の女神さまよ。何かお願いごとがあって来たのかしら?」
お賽銭、と心の中で付け足す。願いを叶えるかどうかはともかく、参拝者第一号は記念すべき一歩だ。逃すわけにはいかない。
「あのね、チビが……うちの子ヤギが、3日前からいなくなっちゃって」
少年――ヨナはぎゅっと手を握りしめた。
「父ちゃんは、もう山犬に食われたって。でも、おれ、まだどこかにいる気がして。女神さまなら、わかる?」
わかるわけがない。私はちらりとセレスを見た。全知全能の女神はこてんと首をかしげて、「うーん、わかんない」と小声で言った。声に出すな。
仕方がない。こうなったら、奇跡は人がでっち上げるしかない。
「――いいでしょう。女神さまが、お告げをくださるそうよ」
私はおもむろに目を閉じた。それから、3日前にいなくなった子ヤギ、という情報を頭の中で転がす。子ヤギは寒がりだ。山犬に食われたなら、骨や毛が残る。それがないなら、まだどこかで生きている。3日も身を隠せる場所――風をしのげて、人目につかない、暖かいところ。
「……西の、水車小屋」
「え?」
「使われていない、古い水車小屋が、村の西にない? チビは、そこにいるわ」
ヨナの目がまんまるに見開かれた。
「ある! こわれた水車小屋、西の川のとこに!」
「行ってごらんなさい。女神さまのお告げよ」
少年はぱっと顔を輝かせ、転がるように神殿を飛び出していった。その足音が遠ざかるのを聞きながら、私はそっと息を吐く。当たっているといいけれど。外れたら、ただの嘘つき令嬢だ。
「リーゼちゃん、すごい! 神様みたいだった!」
「神様はあなたでしょう」
「あたし、わかんなかったもん」
胸を張るところではない。
けれど、しばらくして。
「女神さまーっ! いた! チビ、いたよーっ!」
ヨナが小さな子ヤギを抱えて、神殿に駆け戻ってきた。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、けれど、これ以上ないくらい輝いていた。
「ありがとう、女神さま! ありがとう!」
少年は何度も何度も頭を下げて、また子ヤギを抱えて帰っていった。あとにはぽかんとした私と、なぜか自分の手柄みたいに胸を張るセレスと、涙ぐむハンナが残された。
「……お嬢様。今の、すごいです」
ハンナがぽつりと言った。
「あの子、きっと村のみんなに話します。女神さまが、願いを叶えてくれたって」
その言葉に、私の中でしぼみかけていた算盤が、もう一度かちりと鳴った。
そうだ。これでいい。奇跡は起こせなくてもいい。起きたと思わせればいい。参拝者が来て、噂が広まって、信仰が集まれば――いつか本物の力が戻ってくる。
「セレス様。明日から、忙しくなりますよ」
「えっ、なんで? あ、もしかしてごはん、増える?」
「働いたら、ね」
神様を働かせる令嬢というのも、なかなかどうして、悪くない響きだった。
もっとも――このとき私はひとつ忘れていた。
神殿の管理人には、王都から「お目付け役」がつくということを。それも奇跡なんて欠片も信じない、とびきり厄介なのが。
次話:「信じない人ほど、よく見ている」




